禁煙に失敗した。つい、大学の喫煙所を通りがかったところを年上たちに捕まってしまった。彼らと雑談しているうちに自然と一本貰ってしまった。口を付ける頃に気付くのでは遅い。ああー、肌寒いと煙が美味く感じる。

片手にぶらさげたコーヒーの紙カップを煙草と交互に啜る。これでも我慢した方だ、と自分に言い聞かせる。前回禁煙を宣言したときは、ものの3日でダメになっていたのだから。

そのへんを急ぎ足で行く下級生たちを煙越しに眺める。「私にも、ああいう初々しい頃があったと思うんだけど」。そう呟いて間も無く、灰皿の周りに屯す年上たちからは非難轟々で、思わず顔をしかめた。当然、私はすぐに不機嫌になって、吸い尽くした吸い殻をさっさと捨ててしまう。

冷やかしを背に受けながら帰路に着く。ああ、帰ったら同居人に、煙の匂いがついていることをどやされるんだろうな。

大学は楽しい。特に、この美大は楽しい場所だと思う。学生は少なくともなんらかの発信者になるべくして入学している。ある程度、精神的に精査された環境は心地いい。同級生ながら不登校の同居人のことを思う。あいつも来たらいいのに。


「ただいま」


昼過ぎの電車で帰宅できるのは大学生の特権だ。のんびり開けた扉は軽く、ただ私の心だけがどんより重い。きっとこの時間に「館」にいる同居人はあいつだけだ。家主は道路工事と夜の仕事のハシゴだろうし、もう一人の同居人はまだ小学校に居るだろう。しょっちゅう顔を出している小説家は、今頃ホテルで缶詰めだ。

なんとなく、甘い香りが漂っている気がする。キッチンはあいつの領域だ。私はエントランスのソファに鞄を投げ捨て、そろそろとキッチンを覗いた。地味なエプロンを着けた細身の男が、じっとりとした視線をすぐにこちらに向けた。ああ、怒られる。情けない声しか出そうになくなった喉から挨拶を絞り出す。


「……ただいま」


じっとりとした目は、しばらく私を睨んだ。そして、呆れたというふうなため息のあと、素っ気ない「おかえり」があった。ただ、それで安心してはだめなのだ。彼がエプロンをほどきながら私の肩の近くに顔を寄せ、しかめっつらをしたので、私はやっぱりと思った。


「……吸ってきたな?」

「……一本だけ」


この「館」に住んでいる中で、彼の言うことをきくのはおよそ小学生の同居人だけだ。私もなるべくの努力はしている。しかし、しばしば持ち前の耐え性のなさを露呈しては失望されている。そのたびに反省するのだが、向こうは希望を持たないことにしたらしい。さして怒られることもなく、ただただ残念そうな哀れみの目を向けられているのが情けない。


「吸いすぎると、味覚が衰えるぞ」

「はあ……」

「ハーブティーを淹れたけど、煙草の匂いで茶の香りが分からない奴には飲ませたくないな」


さっきから香っている微かな匂いは、彼が庭先で育てているハーブが由来だったようだ。この男が作るものは、何でも超一流だ。絵でも音楽でも料理でも、達人を唸らせることができる。私はそんな男が淹れるお茶ならぜひとも一杯頂きたかったのだが、こう言われては引き下がるしかない。

泣く泣くソファに寝転んでいた鞄を拾い上げ、二階の自室へ向かおうとする。背後から、「早く着替えて降りてこい」と抑揚のない声がかかった。半分独り言めいた誘いだったが、私は聞くなり大急ぎで階段を駆け上り、クロゼットから清潔なシャツを選んだ。

急かされたが、目の前に出された茶の温度や香りは時間を完璧に計られたものだった。わざわざ淹れ直してくれたことに礼を言うとまた面倒な小言を言われそうだった。私はこの男に面倒なことを言われるのは嫌いじゃないが、それよりも茶の味が気になった。


「おいしいよ」

「うん」


当たり前、という顔でカップを傾けている彼のことは、嫌いどころか、ぜんぜん好きだ。


「柳川、私が学校行ってて寂しかった?」

「全く」


口ではそう言うが、私が帰ってくる時間にお茶を用意していてくれたのは、多分偶然ではない。煙草一本分遅れてしまったことを謝ると、これにもまた何でもないという顔をしてみせた。


「明日は、寄り道せずに帰るからね」

「好きにしろ……」

「大学まで会いに来てもいいよ」

「行かない」