雨だった。

アパートの扉を開け、水を吸ったブーツを手早く脱ぎ、すっかり湿った帽子やケープを壁に掛ける。魔法族らしく速乾呪文をかけることも、マグル式の生活を続けるうちに自然と必要がなくなっていた。

私はタオルで髪を拭きながら、部屋の決まった場所で帰りを待つ「彼」のもとへゆっくり歩み寄る。

窓の側、細身のスツールの背もたれに立てかけられている小さな絵画は、特別に重宝されているようには見えないだろうけれど。それは私にとって、この世の何よりも手放し堅い財産であり、パートナーだった。

その樫の木でできた黒い額の中に描かれているのは、母校の寮の談話室の片隅だ。広い天板に積まれた本に蝋燭の光が煌々と反射している。そして、装飾の彫られた豪奢な椅子に座り、こちらに背を向けている、ローブを着た一人の魔法学生。レギュラス・ブラック。

この絵画は、私の魔法画家としての人生で描いた唯一の、おそらくは最初で最後の人物画だった。レギュラス・ブラックの肖像は、もうこの絵が描かれてから十数年もの間、書き終わらない魔法史のレポートと対峙している。彼は樫の木の額の中からこちらを覗くことはない。しかしときどき、私と簡単な言葉を交わしてくれる。今日はどういう日柄だったとか、マグルの街は物価が高いとか、使い魔の猫が階段を降りられなくなってきたとか、そういう、何でもない会話をする。

額の中のレギュラス・ブラックは十七歳の後ろ姿のまま、長い長い羊皮紙にいつまでも擦り減らない羽ペンで、17世紀の偉大な魔法使いについてのレポートを書き続けている。私が好きなだけその後ろ姿に話しかける途中も、決まって抑揚のない声で相槌をし、最後に決まって「それじゃあ、もうお休み」と手元の蝋燭を杖を一振りして消してしまう。いつも私は、そうやって額縁の中が真っ暗になるのを見届けてからベッドに入る。

ベッドの中で私は考える。明日は街道の端の金物屋に、預けていた料理包丁を取りに行って、帰りに間に合うならその隣の店で今週分のパンを買う。考えながら目を閉じていれば眠りに入るのは直ぐだった。今日、雨に濡れた身体も拭いていないなどということは、とても些細なことに思えた。だけれど、だからこそきっと明日、私が些細な横着をしたおかげで、包丁もパンも、持って帰ることはできなくなるかもしれないと予感しながら、睡魔に身を預けた。




レギュラス・ブラックは、名家に養子として迎えられた私に、新たな姓や親と同時に与えられた婚約者だった。互いに長子ではなかったが、本来ブラックの家督を継ぐはずだったレギュラスの兄が一族から失望されていたこと、そして私が義理の兄や姉らよりよっぽど芸術の才能があったことで、図らずも両家の期待を全面に被ったままホグワーツへと入学した。

元より私たちはそれぞれを嫌ってはいなかったし、私は闇の魔術へ傾倒する彼のことはどうでもよかった。

彼もまた、魔法絵画には興味はなく、魔法界でも絶滅寸前の才能を持つ許嫁に特段構うことはなかった。ただ、互いを支配する世界や肩書きを抜きにした全く素の状態で、私たちは惹かれあっていた。レギュラス・ブラックはただの物静かな少女としての私を、私は穏やかでどこか頑固な少年としてのレギュラス・ブラックのことが好きだった。

だからこそ、彼が死装束を纏って私の元に来たあの日、申し訳なさそうに差し出された結婚指輪を受け取り、黙って彼を死地へと送った。


「これから死にに行く僕だが、死んだ後の僕とも結ばれてくれるかい。僕の死後も、君を縛り付けて構わないかい。これは僕の最後のわがままで、最後の最後に愛想を尽かしてしまったかもしれないが、理由を聞かず、この指輪を受け取ってくれるかい」


後ろにクリーチャーを従えて、何時もより格段に深い闇色のローブを纏ったレギュラスは、死喰い人の印が刻まれた左手で小さな箱の蓋を開けた。細い銀色の指輪を私は何の躊躇もなく受け取り、もう二度と無い敬愛のキスを痩せたくちびるにした。彼にとって最期までよい婚約者でありたかった。慎ましく静かで、常にレギュラスを肯定する存在でいたかった。

彼がどういうつもりで、何のためにそうしたのかなどは私が推察するところではなく、ただただ報を待つしかなかった。



やがて現れたクリーチャーは勿論主人を連れ添ってはおらず、分霊箱の隠された洞窟でのことを私に話すと、涙を零して床に平伏した。私はその瞬間に、レギュラスの秘密を守るために魔法界から消える決断をした。

情けなく死んだ死喰い人、レギュラス・ブラックの誤った報はすぐに広まり、わざわざ計らずとも、簡単に一族の歴史から自分の名前を消し、隠居することができた。誰も理由など問わなかったし、私を追う者も居なかった。私の画家としての利用価値すらも、もはや誰も見出してなど居なかった。

ホグワーツを卒業し、マグルの世界のアパートを借りた私は、学生時代に密かに描き溜めた拙いスケッチを寄せ集めて、レギュラスの絵を描き始めた。それはすぐに完成してしまい、当たり前のように魔力が宿り、動き、声を発した。レギュラスの死を受け止めたつもりだったけれど、肖像として命を持ったかつての許婚が、あまりにも恋しかった。

互いの運命のおかげで余計な出来事が多すぎたが、ようやく何にも縛られない幸福な生活がやってきた、とぼんやり思った。





眠りから目を覚ました瞬間、熱を感じた。ああ、予想通りだ。枕元には、お世辞にも良いとは言えない毛並みの老猫が丸くなってこちらを見下している。元はレギュラスの使い魔だった猫。すっかり太って、あまり動かなくなってきた。

スツールにもたれた額の中では、もう蝋燭の火が灯っている。今日も勤勉なレギュラスは羊皮紙に向かっている。背を向けたまま、彼はぼそりと言った。

ハッピーバースデイ、ナマエ。僕は君の半分の年齢になってしまったな。

ベッドの上で私は応えた。そうか今日はそんな日だったと。

魔法界を出て以降、私の元には誰からのフクロウ便も届いてはいない。消息は完全に断たれ、もはや私が生きていることを知るものも、その情報を求める者も居はしない。今日もレギュラスの秘密は守られている。それが何よりも代え難い喜びだった。

例え彼の顔の造形を、まったく思い出せなくなっていても。あんなに愛しかった笑みを記憶していなくても。誰かに私の思い出を暴かれたとしても、彼の秘密は守られるのだから。

熱い涙が一筋溢れ、枕に落ちていく。目が潤むのはきっと熱のせいだ。私はもっと強かに生きて行く。