私には、その人がとても善い人に見えた。

今年高校生になろうという小娘と20代の駆け出しライターの住居はアパートの隣同士だ。両親が家に居ることが少なかった私は、なんとなく玄関先で知り合った間桐雁夜の部屋に入り浸っては食事の世話をし、彼もまたぶつくさ言うものの、私を追い出したりはしなかった。

彼の、年齢の割に落ち着いている表情や優しげな声には確かに苦労が刻まれている。時間を共有するうちに、それがふとした瞬間に漏れることがあった。けして吐露というほどではなく、ほんの一雫くらいの後悔や自嘲だ。

彼はあまり自分のことは話さないのだが、きっと忘れてしまいたいだろう記憶と経験を抱いている。私は不意にそれに触れるたびに、この人をほうっておけなくなるのだった。

すっかり彼を信用してしまった。彼が悪人なのであれば、そろそろ私は殺されても文句は言えないが、そうなる予兆などは全く現れない。

彼がこの郊外のアパートに部屋を借りてから1年。新しい制服に身を包んだ私の頬に、初めての口付けをくれた。私がさんざん、冗談めかしながらせがんでいたのを、この日にようやく、何の前触れもなしにくれた。しばらく彼の気まずそうな黒い瞳と見つめ合って、「入学祝い」と照れで消え入る寸前の告白を聞いた。

入学式に、親は勿論来なかった。先週から揃って出張に出かけている。わがままで彼に「来てよ」なんて言っていたのだが、彼もまた仕事を持つ身だ。他人の娘の無理難題に応える義理もなにも持ち合わせないはずの青年は、現地に来こそしなかったが、学校から飛んで帰ってきた私に、真っ先にそれをくれたのだった。


「……何か言ってくれないと、俺も困るよ」

「雁夜さん、大好き。大好き」

「うん、うん、わかったって……」


そう眉をハの字に下げて笑顔を引きつらせている彼が、満更ではないのは知っている。同時に、彼がここ数日せっせと荷造りをしているのも、知っている。彼にとっての"時期"なのだ。


「ねえなまえちゃん」

「また冬木に帰るんでしょ。分かってるってば」

「……うん。1人で大丈夫?」

「慣れたもん。平気だよ。それより今日、余ってる野菜全部使わなきゃ」


気にしないそぶりで使い慣れた台所へ向かう。背中に感じる彼からの視線がどこか憐れみや罪悪感を孕んでいることくらい、どれだけ勘が鈍くてもわかる。私は彼が、故郷である冬木に定期的に帰っている理由を知っている。

雁夜さんは明確に私に言ったことなど無いけれど、私ももう高校生なのだ。それくらい察するし、わざわざ問いただしたりなんてしない。慎みは持っているつもりだ。

彼には故郷に残してきた、好きな人が居る。その女性が既婚なのか、子供がいるのかなんて分からないけれど、雁夜さんが抱いている紛れも無い憧れと親愛は、他人の私にまで察せるくらいだ。

勝ち目なんてないのかな、と思いながら。

幻想を抱きながら、彼に向ける親しみが、虚しく無いわけじゃない。彼もまた、私の柔な期待をわざわざ払拭したりはしない。私は、彼がきっと私を振りほどく勇気を持っていないのだと知っている。それは言うなれば優しさで、甘さで、きっと大人がすることではないのだけど。

それでも、彼がまたこの部屋へ帰ってきて、私の戯言に困った顔をしながらも笑う限り、彼の前から消えようなどとは思わない。

ジュウ、とコンロが水分を飛ばす音とともに、どこか甘い香りが漂い始めた。鍋の中では適度に油を含んで美しく照った緑や橙が跳ねている。私の横顔から、ぽろと一粒なにかが落ちて火の中に消える。それを見ていた彼が、「ごめんね」を言う。

私はそう善良なる台詞を置き去った彼にただ、「湯気がね、ちょうど目に当たっただけ」と、ポツリ返した。