何色もの電灯が混ざり合って、宵闇をも振り切っている。昼みたいに地面を照らしている。敷地の中心にある大きな、なにかの生物めいた観覧車を正面に、光に暴かれないように顔を伏せた。
知った姿が近づいたから。
それは当然と躊躇なく私の名前を呼んで、冷たい手のひらで私の指先を捕まえた。
「久しぶり」
「…なに、」
「いや、ちょっと」
「ちょっと、じゃ、ないでしょ……」
私たちの故郷は此処よりずっと遠くで、此処よりは南で、こんなふうな都会ではなかったけれど、やはりこちらの方が際立って冷たく感じた。土も空気も、こんな状況を作ったタイミングも何もかも。
デンジの顔は、最後に見たときより老けていた。
夜とライトが陰影を塗りつけているせいかもしれない。きっと私も彼からしたら老けているんだと思う。何せ別れたのはまだ私たちが高校生だった頃なのだし。私はカントーの都会へ進学して、デンジは故郷のナギサに残った。その時に、関係も完結したものと思っていた。
イッシュ地方、ライモンシティ、夜、観覧車前。もうすっかり思い出になりかけていた人と、景色がダブる。故郷の灯台はこんなに高くはないけれど、照らす光の調子は少し似ていた。
あれから。私がナギサを出て行ってから、何年も経った。デンジはすっかり落ち着いた風で、それでも喧騒を割いて後ろから呼び止められた私は一瞬で彼を彼と理解した。そして、どうにもいたたまれない気持ちを確信した。
カントーに居ても、ナギサのジムリーダーの話題は嫌でも耳にする。今じゃデンジはシンオウ最強なんて呼ばれて、リーグから昇進話もあったというじゃないか。それを簡単に蹴ってしまったのも、知っている。カントーのみんなが知っている。
比べて私はといえば、大口叩いて喧嘩別れするみたいにナギサを飛び出したくせに、彼と比べてしまえば平凡だ。普通に大学に通って、院に行って、ようやく研修医。ポケモンセンターに配属されるのなんて夢のまた夢。
そして、特に今の私は彼に合わせる顔が無い。イッシュには同じく研修医の男の子と二人で来ていた。息抜きと称してはいたけど、結局は二人きりで来てしまったので、実質はデートとしての旅行なのだと思う。
笑ってしまうくらい、自分でもどうかと思うのだけれど、連れてきてもらって今更、嫌になってしまって。彼には先にホテルに帰ってもらっていた。「やっぱりこういうの向いてないみたい」と言う私に頷いてくれたはいいものの、納得しきってはいないという、去り際の懐疑めいた表情が目に焼き付いている。私が悪い。
結局私は、何年も何年も連絡を拒んできたデンジをずっと忘れていなかった訳で、こうやって遊園地を一人でうろつく奇妙な女になってしまった訳で。それをどうして、ああ本当に、なんで、こいつは、見つけてしまったんだろう。
「此処、ひとりで来る所じゃないでしょ」
「おまえもだろ」
「なんでこんな……ね、遠いじゃん、シンオウからは」
「そうだな」
「なんで見つかっちゃうんだろうなあ……。デンジにだけは、今は会いたくなかったよ」
「どうして」
まだ好きだから。口にしたら、ずるすぎる、それは。勝手に人を振っておきながら、再会したら都合よく、だなんて嫌な女にも程がある。
デンジの目を見れない。私は行き過ぎるカップルや家族連れの足元を目で追いながら、小さく息を吸った。
「ねえ、なんでイッシュに?冗談抜きで」
「……力試しというか、でも、うん、気分かな」
「ライモンジムは?」
「さっき行ってきた。ついでに観覧車、見えたから、気になって」
言いながら背の高い重厚な円の構造物を見上げるものだから、その横顔ばかりは注視してしまった。学生時代より短い前髪、襟足。青い瞳に電飾が反射して揺れている。
電気オタクまだやってるんだ。なんだか、そういうところを見せないで欲しいと漠然と思った。急なノスタルジーは体によくない。
「思ったよりでかいんだな」と僅かに感嘆の声を上げる、真隣の青いジャケットの裏には、きっとこちらの地方のものなのだろう見慣れないバッジがいくつか光っていた。
私の曖昧な視線の移り変わりを察しているのかどうか。デンジはずっと頭上を眺めながら、ほうとため息でもするように問いかけた。
「なまえは、なんで一人で遊園地なんか居るんだ」
「……友達と休暇、遊びに来てて。体調悪いからって先にホテル帰られちゃったんだけど」
ああ嘘だ。いままでデンジに嘘なんて吐いたことなかったのに。
それ以前に、私のこんな態度をデンジはきっと怒ってると思ったのに、何も言ってこないのが辛かった。根掘り葉掘り聞いてくれれば楽になるのに。掴みかかって、今までどうしてた、何考えてた、とか。それで、上手くいってるのか、じゃあいいや、って。あのときのこと謝ってくれ、って。言ってくれれば、楽になる。
「友達、か。ナギサにいた頃は俺たちとですら、こういう所来たがらなかったのに。変わったんだな」
変わってない。なにも変わってない、デンジが知っている私と今の私と、きっと変わってないのだけれど。
それを白状して、彼に何をさせたいのか気付いてしまえばもう何も言えない。浮ついた思惑で、きっとこの旅であんたを忘れてみせるなんて思っていたのだ。誰かと付き合ってみたらどうでもよくなると思っていたから。でも向いていなくて。
本当は遊園地なんて興味ない。うるさい場所はいつまでも嫌いだ。都会も。本当は、あの波の寄せる海岸が好きなのだ。静かな夕暮れと共に灯る遠くの船や、灯台や、高架から見下ろす家々が好きなのだ。
でも思春期のジレンマが私からそれを取り上げてまで進むことを選んだから、私は今更戻りたいなど言えなくなってしまった。
デンジがうつむく私に一歩近づいた。
きゃらきゃら笑いながら走っていく、若い女の子たちの声の群れ。それがすーーっと遠くなった気がした。何メートルも先へ。彼の声ばかりが近くにある錯覚。
「なまえはさ、なんで黙って居なくなったんだよ」
ああ、来た、と思った。諦めのような、許しの啓示のようなその言葉が。
意識しているわけじゃない涙が出るのを誰も咎めない。それを言い訳にできるほど、良い身分でもないくせに、こうやって弱さを握らせてしまう。私は結局、都合良く泣いてしまう女だった。
「今でも怒ってる。なまえが平気そうに喋るから、怒ってるのは俺だけで、なんか、ぜんぶ忘れられてるのかって思った」
「……忘れちゃったかもよ」
「……おまえさ、俺に嘘ついた事無いくせに。無理して泣くくらいなら素直に謝れば」
怒っちゃいるけど、許さないとは言ってないだろ、そう言って、眉間に皺を作りながら私の肩を叩いた冷たい掌が、あまりにも素っ気ないから、ずっと昔に返ったみたいで余計泣けた。私は本当に何年も何年も、ナギサもデンジも大事にできないまま、放っておいたのに。
「俺たち、なんか、途切れちゃったけど。俺はなまえが良いんだったら、できるだけ戻りたい」
「え」
「まだなまえが好き」
涙がどこかに消えていなくなる感覚がした。寒気とも違う。焦りに似ている。
「それは、だめだ。そんな、都合良くなれない、私は」
「なんで?もう充分じゃないの」
「だって、ずるすぎる、いくらなんでも、そんなの優しすぎ。勝手にいなくなって嫌われて当然だと思ってたのに、許されてまたなんて、おかしい」
「おかしくないだろ。俺もおまえも、だって、まだ、好きじゃん」
「ハァ……?そんな、好きとか、言う人じゃないでしょ、デンジ……」
「俺だってあのころと変わらないさ!こういうこと、言うの苦手、だけど……。今会えたなら言わないと、おまえとの関係、本当に終わる気がしたから……。ハァ、だめ、やっぱ滅入るから明日にしよう」
「明日って……私たち明日カントーに帰る」
「じゃあ来週でもいつでも……。ああ、それじゃ俺が来週までにリーグ制覇しなきゃいけなくなるのか。とにかく連絡するから。ウォッチのID変わった?」
「いや、変えてない」
「連絡、するから、ちゃんと返事してくれよ」
「わか、った……」
何年越しかの別れの挨拶をした。あのとき、ナギサを出る埠頭にデンジは居なかった。告げずに決めた出立だったから。じゃあな、なんてあいつの口からまた聞く日が来ると思っていなくて。夢の中で願っていたのだ。きっと来ることのないこの日を夢想して、叶わないと後悔していた。
だから咄嗟に返す言葉がなくて、私は、片手を挙げて先の闇に消えていく金髪を惜しんで、惜しんで、たまらなくなって、つい駆け寄って、冷たい手を今度は此方から掴んだ。もう消えないでくれと、乾いた口から声は出なくて、ぱくぱくと開閉させるしかできなかった。
「なまえ?」
「だ、だめだ、やっぱり」
「え?」
「今にしよう、あの日の続き、今から、」
上手な文章にまとまりきるのを待てない。彼を引き止める言葉を手当たり次第に発音した。それが精一杯だった。
言葉じゃうまくいかなかった。分かり合えなかった。昔も今も。私たちは、静かな場所が好きで、そういう所でうまれて、二人きりであの海の中心に居た。言葉じゃうまくいかないんだ、私たちは。
ナギサを離れてからの年月を思った。後悔と、自分への言い訳と慰めと、諦めやいろんなもの。今日はそれと決別する日なのだ、そして彼はそれを告げる使徒で、私のずっと忘れられなかった人で。
冷たい手から、青色のジャケットに包まれた腕に触れる先を変えた。身長も伸びていた。体つきもすっかり変わった。けれどまともに覗いた青い瞳は変わらず私を真っ直ぐ見つめている。
それで充分、理解させられてしまった。足掻いてもどうしようもないのだ、私が彼を好きなのは、きっとどうしようもない試練なんだ。
ジャケットの袖をぎゅっと掴んで、私よりずっとずっと高い位置にある唇に背伸びした。触れ合った感触は電流のよう。あんなにときめいていたのに、諦めようと思っていた。今だってこんなに胸が高鳴る。ああ、好きだ。会いたかった、許されたかった。
「まだ、ずっと、ねえ」
「なまえ」
「ごめん、ね。デンジ、好きだ、……」
「なまえ、俺も、ずっと、……なんでだろう、会いに行けばよかったのに。俺たち、」
きっと噛み合ってたのに。空白が襲って、こんなに経ってしまった。
何度もなんどもキスした。観覧車の電飾はゆっくりと光の色を変える。彼の瞳と、海みたいに真っ青な光に目を細める。照らされて見えた顔は、先ほどまでより少しだけ幼く感じた。
ああ、きっと今頃、宿で私を待つ善良な彼は夢にも思っていないだろう、こんなことが起こること。静かな後ろめたさが、目の前の金と青の強烈なコントラストに溶けていく。なんて不埒なんだ。10代に戻ったみたいな鮮明な感情の流波は、ゆっくりとゆっくりと、夜の冷たさの上を覆っていった。