蝉声 | ナノ



16 嫌悪

今日は静かな社内。


結構重要なプロジェクトが迫っているから。
キーボードをタイピングする音だけが響く。



私も提出しないといけないものがあるから、必死でタイピングする。




これくらいの忙しさがちょうどいい。
仕事のことだけを考えられる。


嫌なことは何も考えなくてすむ。





水を打ったような社内にやってきた空気が読めないあいつ。





「なまえ!! 遊びに行くぞ!!」





扉を乱暴に開けて入ってきた。

画面を見つめていた全員の顔が入り口に向いた後、私に向いた。







「っ、氏真……」
「様」
「あっ、……氏真様」



佐助に指摘されて言い直す。
危ない危ない。





「そこにいたか。準備しろ、行くぞ!」




行儀悪く足音を立てながら私のところまで来た。




「行くぞ!」
「こ、困ります。私には仕事が……」
「信玄公には許可をもらってある!」
「えっ、うそ……」



吉田部長を見れば、首を横に振った。


最悪だ。


佐助は同情する目で私を見てくるし。
助けてよ、お願いだから。




いやだ、行きたくない。







周りを見ても助けてくれるような人はいない。




「なまえ?」
「っ、はい、少々お待ちください」
「ああ! 早くしろよ」
「はい」




適当に荷物をまとめて扉の近くに移動した息子に駆け寄る。


ああ、ちくしょう。
一体どこに連れて行かれるんだろう。



嫌な予感しかないまま、息子に手を引かれて高級車に乗り込んだ。





+++++






「おお! 遊園地とはこういうところなのか!」



……こんなとこ、スーツにヒールで来るようなところじゃない。
完全に場違いだ。



しかも、平日だからかなり空いてる。
それにもうほとんど冬に近い。
こんな時期に遊園地に来る人は中々いないだろう。





従業員の人たちにじろじろ見られて恥ずかしい。




そりゃ、どう見ても仕事の格好してる女と、遊園地に来たことがない発言をした三十超えたおっさんが並んでるんだ、気になるよね。






「なまえ行くぞ!」
「は、はい」



ちょっと、ヒールなのに走るのやめて欲しい。
挫いたらどうしてくれんの。


言いたいけどそんなことを言ってしまえば、会社に迷惑が掛かってしまう。
手を引っ張れるがままになる。
ああ、いやだなあ。




はしゃぐ背中を見つめると。急に止まった。


「っ、ぶな……!」
「なまえ! あれに乗りたい!」



もう少しで挫くところだった……。
そんな身の危険を感じた私には全く気づかない様子で、目の前の乗り物を指した。




「ジェットコースター、ですか……」
「そんな名前なのか!」


さあ行くぞ! と手を引っ張られた。




そういえばここのジェットコースターって有名だよね。
……日本の中でも有数の絶叫マシーンだ。





「……失神すればいいのに」
「ん? 何か言ったか?」
「いっ、いや! 楽しみですね!」
「ああ、そうだな!」




危ない危ない。
心の声がつい。



まあ、この人生まれて初めてジェットコースターに乗るんだよね。
初めてがこれだったら本当に失神するかも。

そしたらすぐに病院送りでお開きだ。



あ、でも、失神したら監督不行き届きで今川から苦情来るかな。
そしたら、うわ、お館様に迷惑掛かるじゃん。
それはやばい。



……どうしよう。
漏らすだけで留まってほしいな。




そしたら友達との間の笑い話になって終わるのに。








そんなことを思っていると、空いてるから並ぶことなくそのままジェットコースターに乗れた。

安全バーをしっかり締めるとゆっくり動き出す。





あ、そういえば遊園地に来たのって何年ぶりだろう。





「……っ」






最後に来たのは、二人だ。

政宗はどうしても外せない用事で来れないことになって……。



泣くな。







「なまえ?」
「いえ! 少し緊張してしまって……」
「そうか、なら」
「っえ?」



手を握られた。

驚いて息子を見ると、照れくさそうに微笑んでいた。































『ど、どうしよう、怖くなってきた……』
『お前が乗りたいって言ったんだろ』
『けど、いざってなると、なんか……』
『はあ……』



ため息をつかれたと思うと、包まれる右手。



『え……』
『……』


そっぽを向いた顔を見る。
……耳が赤い。




















目の前に、小十郎さんが見えた。








そんなわけない、と我に返ると目の前には微笑んでる息子。













……小十郎さんじゃ、ない。












全身に駆け巡る、嫌悪感。









握られた手を振り払いたくなった。
思うがままに怒鳴りつけて汚い言葉で侮辱して出発したジェットコースターを無理やり止めて帰りたい。





けど、それをする一歩手前で何とか留まった。
良かった、私も大人になったのかも。







「っ……あ、ありがとう、ございます……」
「かまわない!」






そのままの状態を必死で耐える。
我慢しろ、手をつなぐのもほんの少しの間だけだ。




上っていくにつれて体が傾く。
ああ、空が青い。








がたん、と音を立てて体が下を向いた。








――――このまま小十郎さんとの思い出も、抜け落ちてしまえばいいのに。










次の瞬間、位置エネルギーによって下に落ちていった。









「――っ、ひっ……」


























「大丈夫か?」
「っ、はい……ご迷惑をおかけました」
「いや、いい。それより喉が渇いたな!」
「……買ってきます」
「ああ!」





結局ジェットコースターに失神しかけたのは私で、本当に死ぬかと思った。
しかも酔って吐きそうだ。


息子は全然堪えてないようだ。
……なんでだ。
普通びびるだろ。




吐きそうで今すぐ横になりたい気分を押さえ込んで立ち上がる。



このお坊ちゃんは飲み物をご所望らしい。

ああもう、何で私が……。




女に飲み物買いに行かせるって男としてどうなの。
ってか、気分悪くしてる人に飲み物買いに行かせるって人としてどうなの。




……そんなことあの非常識坊ちゃんに言っても無駄か。





息子の好きな飲み物なんて知らないから適当にコーラを買った。
私はもちろんオレンジジュース。



珍しく100%のオレンジジュースがあったから即買った。
最近の遊園地もすごいね。




ベンチに座って空を見上げるくそ息子。
暢気に座りやがって、頭にゲロ吐いてやろうか。

今なら指突っ込まなくても簡単に出るぞ。




……そんなことはできるはずも無いので、普通に渡す。







「お待たせしました」
「おお」




……礼も言えないのか。



あーイライラするなあ。
けどそんなこと態度に出せるわけないし。


沸々と湧き上がる憤怒感をストローでオレンジジュースを吸い上げることで発散した。
思いっきり吸ってやる。




流れ込むオレンジジュースに癒される。
ああ、おいしい。
やっぱり100%だよね。






「んごほっ! げほ、」
「え!?」




いきなり息子が咳き込み出して肩が跳ね上がった。
一体なに!?




「な、なんだ、これは!」
「え、え?」




コーラーを眉間を寄せた目で睨みつける。



なんだって言われても。





「た、ただのコーラですけど……」
「コーラ!? なんだ、それは! 初めて飲んだぞ!」
「え、の、飲んだこと無いんですか!?」




金持ちはコーラ飲まないのか!?
初めて知った。


……政宗は普通に飲んでたのに。





「なまえが飲んでるものは何だ」
「あ、お、オレンジジュースです」
「じゃあそれを飲む」
「え?」




聞き返せば私の手の中からオレンジジュースが無くなった。




「うん、こっちのほうがうまい」




口をつけたあと、私にコーラを渡してきた。
交換、ってことなんだろう。







これ、って……間接……。





「……っうぷ」



思わず口を覆う。



気持ち悪い。
朝食べた秋刀魚が出てきそうになった。




こんな男と、間接だけどキスだなんて。





ぶん殴ってやりたい。



我慢しろ、私に被害は無いじゃないか。
私は間接キスしてない。
目の前のこいつがしただけであって、私はしていない。
私はこいつの唇がついたものに、唇をつけてない。


だからまだ大丈夫だ。







言い聞かせても、どうしても吐きそうになる。







私は、小十郎さん以外とキスしたことが無い。
したいとも思わない。




そのキスが。
私の想いが。




汚されたような気がした。









「っ」
「どうした? 顔色が悪いぞ」
「す、みません。気分が悪いので帰らしていただいてもよろしいでしょうか」
「まだ来たばかりだぞ!」
「すみません」
「……仕方ないな。お前がそう言うなら俺も帰る」
「すみません」
「じゃあ連絡先教えろ!」
「え、あ、はあ……」




本当は教えたくない。
あんたの連絡先を登録するなんてメモリの無駄遣いだ。


けど、これで帰れるなら。






赤外線でお互いの連絡先を交換した。





「じゃあ帰るか」
「はい」




歩き出すと、手を取られた。





「えっ」
「嬉しいか?」
「…………ええ」


この手を振り払えない自分の立場を呪いたくなった。



(小十郎さんだったら、喜んで受け入れるのに)
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