「ねーちゃん、ちょっと来い」 お店で働いていると少しガラの悪いおじさんに呼ばれた。 一見さんで、なんだかヤクザのような雰囲気だから少し警戒してると、やっぱりなにか言ってきた。 「はい! ただいま!」 全く気が乗らないけど、そんな顔は見せるわけもなく笑顔で返事した。 あーやだやだ。 「どうしましたか?」 「おめーよ、この蕎麦に虫入ってたんだけどよ」 「む、虫でしょうか」 「おう」 やばい、それは怒るわ。 すみませんと謝って丼の中を覗く。 中を覗くけど虫はなかった。 あれ、なんでないんだ。 「どこに虫がいるか教えてもらえますか?」 「ああ!? よく見ろよ!」 「す、すみません」 目を凝らして見るけど全然見当たらない。 なんで? どっか飛んでいったとか? ……てか、入ってなかったんじゃ。 けどそんなことを言うとこの怒りの沸点の低そうな男を刺激してしまうかもしれないから黙っておく。 とりあえずタダにしておくか。 「申し訳ありません。代金は結構ですので……」 「当たり前だろうが!」 「本当に申し訳ありません!」 頭を下げて謝る。 大丈夫、前にもこんなことがあったから。 接客業なんだからこういうこともあるっていう覚悟もある。 すると、頭が急に冷たくなった。 そして下げた顔にまで何が冷たいものが伝った。 床に雫が落ちてそれが水だとわかった。 「ふざけんなよ! そんな謝り方で許せると思ってんのか!」 「申し訳ありません」 「土下座しろ!」 癇癪を起こして喚く男。 がまん、がまん。 大丈夫。 まだ蕎麦の汁じゃなかっただけマシだ。 「おい、にーちゃんいくらなんでも……」 周りには他のお客さんもいるわけで。 その中には贔屓にしてくれる常連さんもいるわけで。 常連さんの一人の人が止めに入ってくれる。 「大丈夫です」 笑顔で常連さんに言うと渋々といった感じで座ってくれた。 厨房にいてた両親も男の怒鳴り声でただならぬ雰囲気を感じたのか出てきた。 「お客さん、うちの娘がなにか粗相を?」 「ああ? お前らも従業員か。ちょうどいい、三人で土下座しろ」 「え?」 両親が意味がわからなかったから聞き返すとまた男が怒鳴った。 「俺の蕎麦の中に虫が入ってたんだよ!」 「そうでしたか……申し訳ありません」 両親揃って頭を下げる。 「頭下げるだけで許されると思ってんのか! 土下座しろ! 土下座!」 土下座するまで許してもらえないらしい。 大丈夫。仕方ない。 私が膝をつく。 「なまえ……」 お父さんの申し訳なさそうな声が聞こえた。 仕方ないよ。 お父さんが悪いわけじゃない。 早く土下座して終わらせよう。 「はっ、ガキの方が物分りがいいじゃねえか」 すると男の足が伸びてきて肩を思いっきり蹴られた。 「っう」 急のことでよろけた体を支えることができずに、後ろにあった机の脚に頭を強打する。 一瞬目の前が白くなった。 ズキズキと後頭部に痛み走る。 「なまえ!」 お父さんとお母さんの声が聞こえる。 頭が痛くてたまらないから返事ができない。 強打した部分を抑えてうずくまる。 お客さんも心配そうに声を漏らす。 「ガハハ! ざまあねえな!」 「おい! やりすぎだろ!」 「関係ねえ客は黙ってな! お前らがもっと早く土下座してたら良かったんだよ!」 悔しい。 けど腐ってもこいつは客だ。 「っ、帰ってくれ!」 お父さんが激怒する。 ダメだ、こういう奴を余計に怒らせたら店をめちゃめちゃにされるかもしれない。 「お父さん!」 止めに入るけど頭が痛くてあまり動けない。 ざわざわとしてると引き戸が開いた。 「あれ」 店が水を打ったように静かになった。 「なにしてるの」 「……取り込み中だ、関係ねえやつは出て行け!」 「ねえ、なんで床に座ってるの」 怒鳴る男を無視して近づいてくる。 「イル……」 「なんで泣いてるの」 痛さで生理的に浮かんだ涙をイルは見逃さなかった。 「そいつに泣かされたの」 「おい! お前俺の話聞いてんのか!?」 「お前がなまえを泣かせたの」 私に向いてた視線がその男に向けられる。 「ぐっ……!」 「い、イル!」 イルが男の首を掴んで軽々持ち上げた。 「がっ、はっ……!」 ダメだ! 殺す気だ! 「イル! 落ち着いて!」 両親やお客さんにイルが人殺しするところなんて見せられない! 「オレさ、なまえの表情で泣き顔が一番嫌いなんだよね」 「ぐおっ、あ、ああ……」 「イル! やめて! お願いだから!」 頭の痛みを振り切ってイルに抱きつく。 ほんとにやばい。 男がもう泡を吹き出してる。 「死んで詫びなよ」 「イル! ダメ!」 男に向けてた視線を私に向けたイル。 私の思いを視線に込める。 「なまえが言うなら」 パッと手を離して男が床に叩きつけられる。 よかった、わかってくれた。 「ごほっ、ぐふ……な、んなん、だ……」 「なまえのおかげだよ。早く出て行きなよ」 「く、そ……!」 男は怯えたようにふらつきながら出て行った。 「はーっ、よかった」 「もう泣いてないみたいだね」 目尻を親指で優しく拭われて残ってた涙を取り去った。 「イルくん。本当にありがとう! なんてお礼を言ったらいいか……!」 「……助かった」 両親がイルに頭を下げる。 「兄ちゃんすげえな!」 「おお! よくやった!」 店全体が歓声に包まれる。 イルはそんなこと全く気にしていないのか無表情のまま両親に近づく。 「礼はいいからさ、三週間ほどなまえ貸してくんない」 「え」 家族三人でぽかんと口を開けた。 「なまえさ、前ヨークシンの隣の国に出来た大型ショッピングモール行きたいって言ってたよね」 「え、ああうん」 確かテレビで特集されてていつか行ければいいなーって言ってたような気が。 よくそんな独り言覚えてたね。 さすがイル。 「今度の仕事の関係でさ、オレヨークシンに行くんだよね」 「そうなの?」 「ついでだし、一緒に行こう」 「仕事に着いて行ってもいいの?」 「うん。仕事場には近づけないから大丈夫」 イルが大丈夫だって言うんだから私の身の危険の心配はないんだろう。 「お父さんお母さん、行ってもいい?」 「いいわよ」 「……ああ」 お父さんは渋々といった感じだったけど、了解を得られた。 「イル、いいって!」 「うん」 イルが私の方を見てほんの少し微笑んだような気がした。 (気のせい……?) [戻る] ×
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