星の器 | ナノ


▽ 08

冬の寒さが緩むと、暖かな雨が降り注ぐ。春の恵みだ。この時期は一年で最も過ごしやすい。だがこれを過ぎれば乾燥と高温の厳しい季節がやってくる。
ウルクの泉が清い水で満ち、春の祭典が始まった。

名前は祭典の始め4日間を聖歌隊の一員として参加することになっていた。


e-nu-ma e-liš la na-bu-ú šá-ma-mu
上にある天は名づけられておらず、
šap-lish am-ma-tum šu-ma la zak-rat
下にある地にもまた名がなかった時のこと。
ZU.AB-ma reš-tu-ú za-ru-šu-un
はじめにアプスーがあり、すべてが生まれ出た。
mu-um-mu ti-amat mu-al-li-da-at gim-ri-šú-un
混沌を表すティアマトもまた全てを生み出す母であった。
A.MEŠ-šú-nu iš-te-niš i-hi-qu-ú-šú-un
水はたがいに混ざり合っており、
gi-pa-ra la ki-is-su-ru su-sa-a la she-'u-ú
野は形がなく、湿った場所も見られなかった。
e-nu-ma DINGIR.DINGIR la šu-pu-u ma-na-ma
神々の中で、生まれているものは誰もいなかった。
  ―『エヌマ・エリシュ』冒頭部


創世神話の内容はこうであった。世界の初めにアプヌーやティアマトなど原初の神、そしてこの二人からエアなど様々な神が生まれた。しかし子ども達が非常に騒がしかったため、アプヌーは彼らを滅ぼそうとする。
アプヌーの企ては失敗し倒されてしまった。そこでティアマトはアプヌーのためにエアの息子マルドゥクに復讐を企て、息子キングゥとともに十一の合成獣を作り出した。最終的にマルドゥクがティアマトに勝利し、彼女の遺骸を用いて世界を形成する。


祭祀長が読み上げる伝承に合わせて、間違えないように詩歌を復唱するのに名前は精一杯だった。大きな仕掛けはないが、荘厳な雰囲気と絶えず揺らめく松明の光で、まるで神が舞い降りているような神秘的な気持ちになった。

儀式の合間は神殿の清掃や神への供物などいつにも増して休む暇がない。女官たちと一緒になって作業していると、そのうちの一人が声をかけてくれた。

「本当に貴方がいてくれて助かったわ。いつもこんな大掛かりじゃないの。今年は急に規模が大きくなって、でも人手は増えないから、手伝ってくれて本当に助かってる。」
「今年はどうして大きくなったんですか?」
「それは、貴方がイシュタルの加護をうけた娘として参加してるのもあるし…。あと直前になってギルガメッシュ王御本人が全ての儀式に参加することになったからよ」
その話題が出ると、わっ、と他の女官たちも話題に加わった。
「そうそう、初めてなの」
「これまで年齢が、ってことでご辞退されてたからでしょ?じゃあ、あの儀式も…?」
声が大きくなったところで年上の女官が割って入る。
「そこの娘たち!静かに作業なさい」

あの儀式……気になったことを聞けずに静かになってしまう。
ギルの話題が出てきて、作業に集中するため心の隅に追いやっていた彼の存在が大きくなる。
 心配性の彼だ。今年すべて参加することにしたのは私が居るからかもしれない。王の出番があるのは5日目からである。明日だ。
だったら今晩、彼も神殿に来ているかもしれない。


清掃と明日の準備を終えた後、もしかすると彼に会えるかもしれないと思って廊下をそぞろ歩く。
夜の神殿はとても静かだ。月明かりが廊下を照らし、青々とした静寂がただよっていた。
「――名前」
名前を呼ばれて振り返ると、そこに立っていたのは祭祀長様だった。

「こんな夜更けにどうしたのですか?」
「あの…少し、眠れなくて……」
「考え事をしていたのですか。私もそうです」
そう話す祭祀長様は月の光を浴びてとても美しい。「儀式は初めてだったのでしょう?4日間とてもよく頑張りましたね。」
出歩いていたのを怒られないと分かって、ほっとする。
「はい、でも仕事があるのは嬉しいです。ここにくる前はギ…王様に守って貰うばかりでした。」
儀式に参加して、自分が人の役に立てているのが嬉しかった。一緒に作業をしている女官たちも、私の肩書きがすごいからかもしれないが親切に教えてくれた。
「そうですか……ねえ名前、あなたは儀式が終わったらどうするつもりですか?」
――そうだ。数日前から心の中にあるもやもやしたものは、自分にできる仕事があると分かって、そのあとギルの元でどう過ごすかだった。
「どうする……わかりません。」
正直に答える。自分は元々ここにいる人間ではない。帰る方法があるかもわからない。
「もし元に戻る方法がなかったら……。ギルのもとで、彼を支えたいと思っています。」
もし現代に戻ることができたとしても……必ず彼を思い出してしまうだろう。
残るしかないなら、帰れないことを後悔しないように、一生懸命彼のそばで生きたい。

「……貴方はどうあっても、ギルガメッシュ王と離れないつもりなのですね。」
「祭祀長、様……?」
「名前、貴方は…」
彼女の顔が思い詰めたものであることに気付く。
「私と貴方では、ギルガメッシュ王の受け入れ方が違うようですね。
 彼は私の前に現れた時から『神の子』でした。そんな彼の器には1/3、人間がある。その不安定さや弱さが、いつか命取りにならないか心配なのです。」
「はい。でも…彼はまだ子どもです。」
「そうです。だからこそしっかりと神の力を扱い、力に飲み込まれないように育てなければならない。そうでなければ自分の力に慢心して暴君になってしまうでしょう。」
「そんな…」

祭祀長様がギルのことを話すとき、表情に厳しさが消えない理由がよく分かった。
人間としての不安定さ、弱さ。
夜眠っている時に何かに怯えている彼を思い出した。あれが神の力におびえる人間としての弱さだとしたら。

「弱さは、克服しなければなりません。克服したとき、彼は完璧な王となります。貴方がもしギルガメッシュ王のそばにいたいと思うなら、それをよく覚えていてください。」


もう部屋に戻りなさい、と言うと彼女は去っていく。
私はしばらくそこに立っていた。このまま戻っても眠れない気がした。
心が静かになる場所はないだろうか。ふと思いついて女神ニンスンの神像のところへ行く。
そして、祈った。少しだけ心が軽くなる気がした。

「……名前さん?こんな夜遅くにどうしたのですか」
私の姿に気づいた女神ニンスンの神官長さんが声をかけてくる。
「私は祭典の途中で女神様の香油が切れたりしないか確認しにきたのですよ。…いらっしゃい。お茶を入れて差し上げましょう。」


神官長さんの部屋は彼女の服装と同じようにシンプルだった。必要なものはすべてあって、質素だが良いものが揃っていた。
「儀式で疲れていませんか?」
「はい、でもやりがいを感じています」
温かいお茶を受け取る。甘い匂いがした。「ああ、これ。きっとギ…王様が好きな味だと思います。」
「ナツメヤシの蜜を加えてあるんですよ。こんど差し上げてみようかしら。」
ギルのことが思い出されて、胸のあたりがぎゅっと苦しくなる。きっと好きだ。
「…明日の儀式は、王様も参加されるんですね」
「ええ、きっと大勢の人が見に来るでしょう。」
神官長は私の向かいに座った。「そういえば儀式が始まる前に、王様が私のところに来られたんですよ。もちろん、貴方のために。」
頬が赤くなった私を彼女は微笑んで見た。赤くなったのはお茶のせいだ。
「…『困っていたら声をかけてあげて下さい』、と。そんなふうに王様が言うのはきっと貴方だけなんでしょうね。そのときの王は、貴方の言う通り『神の子』とは違うように思いました。」
彼の姿が目に浮かんだ。会えない間も、彼は私のために動いてくれているのだ。
ふと、先ほどの祭祀長様との会話が蘇ってきた。
「…神官長さん。『神の子』とは違う王様を見て、どう思いましたか?」
「どう思ったかですか……」
彼女は少し考え込んだようだった。
「難しいですね。実は、名前さんに言われるまで、彼の人間らしさを感じることはあまり無かったんです。1/3が人間だと知っているし、幼いのに。
 でも…本来の姿はこうなのかもしれないと思いました。普通の人間とは違う。でも彼は神ではなく、神と人の間に生まれた存在です。それを否定することはありませんよ。」
「否定?」
「ええ。間違っている、ということではないのです。
そして考えました。なぜ、1/3が人間として生まれ、ニンスン様は彼を人に託したのか。
きっと1/3は人間らしく育てばいい、と言うことではないでしょうか。」
明るくはっきりと神官長さんは言った。
それは、私の胸のもやもやを吹き飛ばすようだった。
「だから、名前さんのような存在は王様にとって必要なのだと思います」
「えっ…」
「もし誰もが王を人間として見ず、誰もそばにいなかったら……ギルガメッシュ王は人間をよく知らずに成長してしまうでしょう。人間が持っている弱い部分を否定し、理解ができないものを自分と違うと切り捨ててしまう暴君になるかもしれません。
人間を支配する王になるのなら、王様は人間の良いところも悪いところも知っていた方がいいと思いますから。」

目頭が熱くなって、温かいお茶に視線を落とした。湯気で涙腺が余計に刺激される。「ありがとうございます」と呟いた。
それは、私に彼のそばにいてもいい理由を与えてくれる言葉だった。


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