▽ 06
春の祭典が始まる1週間前、神殿から迎えがやって来た。
ジッグラトの長い階段から降りてきた私を、うやうやしく神殿の女性たちが迎え入れる。四角く覆いのついた箱に入れられると、ぐっと持ち上げられ、ゆられながら運ばれる。輿(こし)というそうだ。外から中が見えないようになっていて、隙間から外を覗くと、道の両脇に人が土下座していた。
(…こんなふうに扱われるんだ……)
11日間の祭典のあいだ、王とイシュタルの加護を受けた娘として扱われる。想像はしていたが、土下座する人垣はまるで映画のセットのようだった。
半刻もしないうちに揺れはおさまり、箱が地面につくのを感じて外へ出た。
「……ようこそおいでくださいました、名前様」
皆が顔を下げて私に挨拶する。おそるおそる先導の人について白い門をくぐると、真っ先に大きな柱が目に入った。地面に石で印が付けられていて、柱の影が時刻に合わせて移動する。日時計だ。ちょうど近くに置いてある青銅の鐘が打たれて時を告げた。真ん中にある大きな建物では拝礼が始まる。天井は高く、空気はひんやりして独特のお香が匂っていた。
「ウルクの都市神イシュタル様を祭るお堂です。拝礼の前に口をお濯(すす)ぎ下さい」
女官が水差しと水盆を差し出し、冷たい清水を手で受けて口を濯いだ。神官たちが祝詞を唱え、お辞儀する先には銀で覆われた神の像がある。勉強した通り拝礼を済ませると、今度は神殿全体の説明が始まった。
「神殿では数千の神を祀っていますが、このお堂が最も重要な場所です。ここでは毎日決まった時間に火が灯され、祈りと供物が捧げられます。」
祭壇には貴重な蜜、ミルク、ワインなどが並んでいた。
「神が掃除や食事など世話をさせるため人間を作ったように、ここでは神が神殿の中にお住まいになっていると考え、毎日、食事や掃除を行うのですよ。そのうち名前様にも手伝って頂きます」
はい、とうなずく。松明の揺れる火でイシュタル神の像に表情があるようだった。
建物を出て、裏にある神官たちの生活空間に入っていく。通りすがる人はどんどん減っていく。
「今から祭祀長様に会っていただきます。王様とも対等にお言葉を交わされる方です。失礼がないようお願い致します」
もともと雑音の少ない空間だったがさらに減って緊張感が増した。ドアの一つ一つを潜るたびに空気が澄んでいくようだった。
「失礼いたします」
やがて真ん中がベールで仕切られた部屋につく。「祭祀長様、名前様をお連れしました。」
布の向こうに人影があった。
「……ご苦労でした。下がりなさい。」
女官たちが下がり自分だけ残される。
何を言えばいいか分からず小さくなっていると、衣擦れの音がしてベールの向こうから女性が現れた。
「…あなたが名前ですね。祭祀長のアルマです。どうぞ椅子へお掛けください。」
差し示された白い手に無言で頷いて、力無く椅子に腰掛けた。その間に女性はベールをひらいて、すっかり中が見えるようにした。お辞儀をするタイミングがわからない。神殿で最も偉く、滅多に会えないと聞いていたので、すんなりと会えてしまったことに頭が追いついていなかった。
「呼び出しに答えていただいたことに感謝します。……あら、怖がらせてしまいましたか?」
挨拶もできなかった私に、祭祀長は心配そうな表情を向けた。その声は琴のようで、ぴんと張りつめたような真っ直ぐな声だ。整った顔立ちに少し皺が入り、賢さと落ち着きを感じさせる美しい女性だった。
「緊張されているのですね。ご心配なさらずに、陛下が大切にされている方だと聞いて、私も会ってみたかったのです」
微笑みにつられて少し緊張がほどけた。
「…有難うございます。名前と言います。お会いできて大変光栄です。」
「3ヶ月ほど前に来られたと聞きましたが、ずいぶん頑張って勉強されたのですね。」
「…いいえ、あいさつだけなんです。他は……失礼をしてしまったら申し訳ありません」
正直に話すことにした。女性は親切にゆっくりと話してくれる。見栄を張らないで正解だったようだ。
「……その様子なら、ずいぶんと王様に可愛がられているのですね。
私は女神ニンスンから”第一に”ギルガメッシュ王の育成を任された身。陛下に仕える身として、儀式に協力していただけることに感謝しています。」
彼女が腰をかがめてお辞儀しようとしたので、慌てて立ち上がろうとして椅子から崩れ落ちる。緊張ですっかり足に力が入らなくなってしまっていた。
顔を赤めて祭祀長を見る。
その様子がおかしかったのか、上品な声を立てて彼女は笑った。
祭祀長の部屋から戻ってきて、しばらくは空気に飲み込まれていた。先ほども案内をしてくれた女官が、私を気遣いながら再び神殿内部を案内してくれた。
「…祭祀長様とお話になっていかがでしたか?ずいぶんと緊張なさったようですが」
「はい…きれいで上品な人でした」
「祭祀長として神殿をまとめられている方です。儀礼や規則には厳しいですが、とても優しいのですよ。父が病気の時も見舞いを持って会いにいかせてくれました」
案内は神殿の中心部から外側へ移っていく。小さな門をくぐると、そこから一般人も入ることができるエリアになっていた。
「…面白いものをお見せしましょう。名前様も手伝ってくださいね」
正午の鐘を過ぎると大勢の一般人が神殿に入ってくる。皆、何かを心待ちにしているようだ。
神官たちが大きな壺のようなものを内門から運び出して来て、人垣の前に置いた。器を持った女官たちが人々を整列させる。
「神殿では神へ供物をささげたあと、決まった日に参拝者へおすそ分けをするのです。ここでは貧者も病人も関係ありません。皆が平等に、全員に行き渡るように与えます。」
私たちも加わって食事を配るのを手伝った。参拝者はみんな慣れっこなのか平等にもらえるからなのか、争いなく、お礼を言いながら受け取る。子どもやお年寄りもいて、食事を貰うとみんなが笑顔になった。
「こちらにはビールもありますよ!」
自宅から持って来た壺いっぱいに濃い匂いのビールが注がれていた。人々は美味しい食べ物やお酒で満たされながら、家路へ帰っていく。
仕事を終え神殿の内部に戻ると、たくさんの神像が並んでいる場所で、他の像と比べて大きくないのに沢山の花やお供えがされている女神像があった。
「この女神は王様の母君、リマト・ニンスン様です。ずっと古いまま改修していないのですが、当世はたくさん参拝者が来られるのですよ」
夢解きと知恵の神ニンスン。神像は優しい表情をしている。
ニンスンに祈りなさい、と言っていた学者さんの言葉を思い出してしゃがんで祈りを捧げた。
それから通るときは出来るだけ祈るようにした。
「…あなた。ニンスン様によく祈っていらっしゃいますね」
神殿に来て3日目。朝の掃除を手伝ったあと、ニンスン像の前でしゃがんでいると話しかけて来た女性がいた。
「もしかして貴方が噂になってる例の方かしら」
他の女官たちとは服装が違う。質素だがドレープが美しく、まるでギリシャの巫女が来ているような白い服だった。
「はじめまして。名前と言います」
「…名前さん。綺麗な音の名前ですね。」
その言葉でギルを思い出して寂しくなった。
「私はニンスン神の神官長をしています。
とはいっても、数千ある女神の神官長に過ぎませんから全然畏まらないでくださいね。」
そういってくれた女性は物腰がやわらかく声も優しい。この人は安心して話せる人だと直感的に思った。
「そのう、噂がどんなふうか知りませんが。
私は3ヶ月ぐらい前にここに来て、ギ…王様にたくさんお世話になりました。ここへは4日後の儀式をお手伝いするために来ています」
「そうでしたか。私はただの神官長ですが、陛下の母君の神官長ですので王様に何度かお会いしたことがあります。あの陛下が……あなたのような一人の女の子を大事にしているなんて素敵なことですね」
彼女の遠い目がギルを思い浮かべていた。
どんな印象なんだろう。
「神官長さまは、王様のお母さん……ニンスン神に会ったことがありますか?」
おそらく神殿は神を最も身近に感じるところだろう。だが古代の人にとって宗教が大事なことは分かっても、私には神という存在がまだピンと来なかった。
「私も会ったことはありませんよ」
神官長は偽ることなく言った。
「少なくとも目に見える形では…。…でもね、神に祈ると心が静かになります。そのとき、きっと神と向かい合って話をしているのだと思うのです。
神の言葉はきっと人間には分からないんでしょうね。でも、その言葉が心を穏やかにして、勇気を与えてくれたり、病気を治すことだってあります。
だから、私は目に見えなくても自信を持って神にお仕えしていますよ。」
裏表のない言葉だった。
すると、今度は彼女から質問がくる。
「名前さんは陛下をどう思いますか?『神の子』だと聞いて、そう思いますか?」
「それは…」
初めは恐ろしいと思った。だが小さな体に触れ、言葉を通じて彼の思いを知り、周りの大人たちに怒りを覚えた。
しだいに彼を”一人の子ども”として守ってあげたいと思うようになった。
「…他の、普通の子どもとは違うと思います。でも、神様の子ども、として扱うのも変かなと思います」
「そうですか……私が知っている王様は、まさに神の子というべき方でした」
年上の女性なのに、少女の面影がかすめた。
「私もニンスン様に仕える身として、貴方のように考えてみようかしら。」
古代において神殿は神を祀る場所でした。全員が農業をしないと生きていけなかった時代は神官もパートタイムの仕事だったようですが、農業が発展し食料が増え、商人など様々な職業が誕生すると専門職へ変わったようです。
そんななかで、神への供物をおすそ分けすることはシュメールでも行われていたようです。日本にもお供えを分けるお雑煮などの習慣がありますね。のちにローマなど為政者(王)へ施す人が移行し「パンとサーカス」へ変わっていきます。
なお、シュメール人は神も人間と同じように食事をする必要があると考えていました。そのため神殿跡から生産所が見つかっています。とりわけこの人々はビールが大好きだったようです。
キリスト教社会では食料を手に入れるため初期のほとんどの教会は街の中心にあったのですが、中世になると修行に専念するため人里離れた場所で修道院が作られるようになります。そこで自給自足するためワイン生産などが営まれるようになりました。
こういうふうに整理すると、同じことをやっていても思想の違いや意図の違いが見えて来て面白いですね。お粗末さまでした。
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