星の器 | ナノ


▽ 05

メソポタミアやエジプト。現在は砂漠気候に分類されるこの地域では最古の文明が生まれた。
その地域が豊かだったからではない。むしろその逆で、苦しい環境のなか、大河から水を引いて灌漑農業を行うために人々は力を合わせて集団生活をする必要があった。
また夏は50度を超え乾燥するこの地域で、山間部に降った雪は春に雪解け水となって豊かな養分を平野に運ぶ。だがときに洪水となって幾度も街を滅ぼした。母なる泥は恵みでもあり、災害でもあった。


この国では夜と昼の気温差が15度以上ある。でも気候にようやく慣れ、体調も戻ってきたので何かしたいと思うようになった。
そんなころ、神殿から使いがきた。
「“私”に?」
侍女たちに身嗜みを整えられて部屋を出る。ドアを幾つもくぐった先で、ギルが一段高い椅子に座り、顔を半分ベールで覆った女性がひざまづいて待っていた。私は手招きされてギルの横に立つ。

「神殿より、祭祀長の言葉を預かって参りました。本日は名前様にお願いしたいことがございます」
女性は口元が見えない上に早口だった。戸惑っている私にギルが「あとで説明するよ」と耳打ちする。女性はその様子をじっと見つめていたが、笑みもなく、無表情のままだった。
「…わかりました。名前がまだ解していない言葉は僕があとで説明します。要件を話して貰えますか?」
「はい。私どもは名前様の噂を聞いて参りました。名前様は明けの明星が輝き始めたころに泉から現れたそうですね。その少女を王がたいへん寵愛されていると聞いて、神殿側も喜ばしく思っております。
 そこで、王とイシュタル神の加護をうける名前様に、春の祭典を手伝っていただけないかと祭祀長が申しております」
先程よりゆっくり話してくれたので少し言葉を理解する。
「…春の祭典?」
 女性がうなずく。
「春は新年を祝う祭事があり、11日間に渡って儀式がおこなわれます。
 はじめ4日間は、マルドゥク神が古い神々と戦って秩序ある世界の創造がなされたという神話の再現。このあいだは商売や行政などすべての活動が中止されます。
 5日目は神殿に水を撒き、香を焚いて、1年間の諸悪を生贄の羊によって浄化します。その同じ日に儀式の中で、祭司らが王を罵り、王権を奪います。そして王はマルドゥク神の前でひざまづいて罪業を否定し、再び即位します。
 残り6日間の儀式もまた後で説明いたしますが、この11日間の儀式を通じて、世界が再生と更新を行い、新しい一年を迎えると私たちは考えているのです。」
「…儀式を名前に手伝わせたいということでしょうか」とギル。
「はい。イシュタルの泉から現れた汚れなき乙女が祭事に加われば、神も必ずお喜びでしょう」


話を終えると女性は退出した。
私は説明の半分も理解できなかったのでギルの反応を観察した。彼は「やれやれ」とため息混じりに言った。
「名前、シュメールの創世神話は勉強した?」
「うん。前に学者さんから」
文字を勉強するときに教科書として使ったのが神話だった。創世神話の行事が行われることも聞いていた。
「良かった。あの女性が言っていた春の祭典は、その創世神話を再現する儀式なんだよ。一番大きい行事だから国を挙げて行うし、僕も王として参加する。
 神殿は王権と同じぐらい強くて厄介だけど、名前は異国人だから断ることもできるよ。」

ギルが私に不安を感じさせまいとしているのが分かる。
さっき部屋で会った女性はあまり良い印象ではなかった。神殿という馴染みのない場所に関わるのも正直怖かった。

「でも、そんなことじゃ、いつまでたっても居場所ができないから」
私はギルの手を握って微笑む。
「名前……」

自分よりも大きいものを守ろうとする手。
私もギルから守って貰うばかりじゃなく役に立ちたい。この国で重要な行事に協力すれば彼の役に立てるだろうし、神殿から情報も手に入るかもしれなかった。
「…分かった。祭祀長に君のことを詳しく話して、あまり負担をかけないようにして貰う。僕も参加するし、困ったことがあったらすぐに助けるからね」


 それからは行事や儀式での作法の勉強で、忙しい日々が待っていた。すべて覚えた頃には神殿へ行く前日になっていた。
 部屋で儀式の手順を再確認していると、何の知らせもなく初老の学者さんが訪ねてきた。ノックもせずにスッと入って来たので、びっくりして学者さんを見つめる。

「学者さん! 体調のほうは大丈夫ですか、お手紙は届いていましたか?」
「ええ、ええ。名前様、ご無沙汰しております。連絡しなかった無礼をお許しください。手紙で『神殿の手伝いをすることになった』と読んで今日は来たのです」
突然で驚いたが、心配して来てくれたのは嬉しかった。
「そうでしたか。儀式の作法や手順、もうすべて暗唱して言えますよ。
 でも学者さんは教え方が上手だから、教えてもらえなくて残念でした。」

私のいくぶん上達した会話を聞いて学者さんは微笑む。
体調を崩していたからか、彼の体がひとまわり小さくなっていた。彼ができるだけ声を落として話そうとしていることに気付く。
「どうかしましたか?私は出来る限りのことをしましたが…」
「いいえ、名前様。とても上手に話されていて、頑張って勉強したのが分かります。あなたは私の自慢の生徒ですよ。
 私の心配は……神殿の側にあります。」
「神殿……?」
「そうです。あそこではよく言葉を聞き、考えて行動してください。神殿があなたを呼んだのは、王にとって貴方が必要な存在かどうか見定めるため。特に祭祀長には気を付けてください」

一息で話しながらも私にきちんと伝わっているか観察しながら学者さんは言葉を紡いだ。
質問しようとしたとき、ドアをノックする音が聞こえた。

「私はあなたの賢さと優しさを信じます。」
 学者さんは窓へ歩いていく。優しい目は私をじっと見つめていた。
「神殿には王様も介入できない部分があります。もし困ったら、ギルガメッシュ王の母、女神ニンスンに祈りなさい。あなたが王様にとって大事な存在ならば、必ず助けてくれるでしょう」

そう言うと、学者さんは窓から外に消えた。びっくりして息を飲んだが、隣の部屋に移っただけのようだった。

(…どうしてドアから出て行かなかったんだろう……)

言葉の意味もじっくり考えたかったが、ドアの向こうで誰かが待っているので返事する。
どうぞ、と言うと、入ってきたのは侍女だった。

「…名前様。話し声が聞こえたのですが、どなたかいらっしゃいましたか?」
「え、えっと前に勉強を教えてくれてた学者さんが来ていました」
「そうでしたか……。」

彼女は前の事件のあと来た侍女だった。彼女が自分から喋ったのは初めてのような気がする。
まだぼんやりしている私に、侍女は「何かご用がありましたらお呼びください」と言ってすぐ出ていった。

今日は珍しいことばかりだ。
その後……なぜ急に彼女が部屋に来たのか、疑問に思った。




<春の新年祭>

1〜4日目 マルドゥクがティアマトらと戦う神話を再現する。
5日目 羊の生贄、王の退位と復位。
6日目 ネボ神の到着
7日目 マルドゥクの解放 
8日目 神からマルドゥクに王権が与えられた祝い
9日目 マルドゥクの勝利の凱旋と祝賀
10日目 すべての危機が過ぎ去った祝い。来年の豊作と家畜の多産をもたらすためにマルドゥク神と豊饒の女神が結婚する。
11日目 次の年の自然と社会の「運命の確定」

※『オリエント神話』ジョン・グレイ著を参考にしました。

※この時代、マルドゥク神ではなくエンリル神が主神だったと考えられる。しかし十分な資料が見つかっている時代の儀式を参考とした。



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