▽ 4
幸せの約束
幾つかの夜を重ねた後、私は数年ぶりにギルガメッシュと一緒に眠っていた。
夜半に目が覚めた。少し肌寒い。上掛けを持っていかれてしまったみたいだ。彼を起こさないように上掛けをそっとたぐり寄せたが、彼は身じろぎしながら私を腕の中に収めなおした。
――温かい。
うっすらと星明かりのなか、眠っている彼の容貌が見えた。私が身を預けている身体はしなやかな筋肉をそなえた成人男性のもの。小さな頃を知っているから、よくここまで成長したなと思ってしまう。
上下する胸にそっと手を寄せると、「あまり触らないで」と眠そうな声で彼がつぶやいた。
「あまり不用意に触らないで……僕だってちゃんと男性だから」
赤い瞳がうすく開いた。「きちんとした手順を踏んだ後じゃないと、王でも非難されるからね」
目が覚めたのか、ギルガメッシュは神話を引用して古代シュメール人の習俗について語った。
「結婚をすませていない男女が床入りすることはだめなんだ。神話でも、神々の王エンリルが女神ニンリルに手を出して捕まえられ、都市から追放されている。神々の王でも追放されるぐらい重罪なんだよ」
これでも気を遣ってるんだ、と彼はつづけた。「名前はこういうことに疎すぎる。はやく男性として意識してもらわないと」
「………」
何のことを言っているか理解して身を固くする。彼は小さく笑い、私を抱きしめたまま再び目を閉じた。
しばらくすると規則正しい寝音が聞こえてきて、気づいたら私も眠りに落ちていた。
目が覚めるとギルガメッシュの姿はすでになかった。太陽がのぼり人々の営みが聞こえる。朝の白んだ空気にパンの焼きあがる匂いがした。
寝台から起き上がると、枕元にきれいな布の包みがあった。包まれていたのは青い宝石のネックレス。青の表面にうっすらと金の粒がはしり夜の星空を切りとったよう。
ジッグラトに戻る前に眠っている私のそばに置いたのだろう。思い浮かべて顔が熱くなった。
『はやく男性として意識してもらわないと』
彼がはやる心を押さえてくれているのが分かる。同時に、私の気持ちが追いつくのを待ってくれていることも。
彼は本当にずるい。「どうして贈ってくれたの」と聞いたら、単純に「名前が喜ぶと思って」と笑うだろう。そういう彼の発想はずるいと思う。彼を好きになっていく私の戸惑いを、真綿で包むように消していく。
私の口からはため息がこぼれたが、それは胸がいっぱいになって溢れた音だった。
昨日の残り物を温めて簡単に朝ごはんを済ませ、いつものように畑に出た。変わったこと言えば、私が夕暮れまで農作業をしなくなったことだ。早めに畑から戻り、祭祀長さんに『料理を教えて下さい』とお願いしたら、彼女は『まあ』と驚いて何があったか察したようだった。
…そう。シャシャさんには、ギルガメッシュと話した翌朝に金の腕輪をかえしにいった。私が申し訳なさそうに差し出すと、彼は詳しく説明しなくても「分かった」と言ってくれた。
「名前が幸せならいいんだ」
このまま家に居てくれていい。困ったらいつでも助けるから言ってくれよ、と彼はあかるく受け入れてくれた。
私は幸せすぎて怖いぐらいだった。愛しい人に愛され、優しい人々に囲まれている。何かがおこる気がした。
■□■□■□
ジッグラトの真上に太陽がのぼり、王の御前には長老議会の高官たちが集まっていた。
「しばらく妻選びはやめる」
王の宣言に参加者がざわつく。数人の高官が発言した。
「王よ、またいつ戦いが起こるか分かりません。王に後継者が居ないままでは民の心は不安です」
「そうです。成人すれば妻を娶るのが慣例です。ウルクの発展のためにお考え直しください」
ギルガメッシュは玉座で腕を組み、感情の読めない表情で高官たちを見下ろした。
「…確かに長く続いた戦いで兵力は減り、いますぐ別の都市と争いになればウルクは苦戦するだろう。兵力不足のときに結婚による同盟で平和を保つのも一手だ。
しかし戦争によって領土は荒れ、内政にも影響が出ている。まずは乱れてしまったものを整え、民の心に安寧がおとずれてからでも遅くない。しばらくといっても数年待たせるつもりはない」
「ですが……」
ギルガメッシュは発言しようとした高官を睨んだ。
「近々、私が死ぬような恐れがあると? 武力や同盟以外で他国を牽制できないと考えているのか」
「めっそうも御座いません」
「では次だ」
手を払って議題をかえる仕草をした王を、不安げな表情で見上げる男たちが居た。
■□■□■□
月が高く登るころ、仕事を終えたギルガメッシュが家にやってきた。料理を温める私の後ろに近づき、そっとお腹に手を回して抱き寄せる。火を使ってるから危ないよ、と言ったが、彼は無視して私の髪に顔をうずめた。
今晩は、ワルクとよばれる野菜のサラダ(酢と香辛料を混ぜかけたもの)と、カスーという塩漬け豚肉のスープ(マスタード入りのコンソメスープに近い)、そしてバッピルというパン(酵母にビールをつかったパン)を食卓に並べた。
宮廷の料理には及ばないが、ギルガメッシュはいつも残さずに食べてくれる。向かい合わせに座り、黙々と食べている彼の反応が気になって料理の出来を聞いた。
「とても美味しいよ」
お世辞を言っている感じではなかったのでホッとした。
「無言だったから心配になって。苦手なものとかあったら言ってね」
「ん……こういうのって本当に幸せだな、って思って」
彼は私に微笑みかけた。
――ああ、本当にずるいんだから。
私は耳を赤らめながらスープを口に含んだ。何でもない料理だけど上手く作れた気がするのは、彼が「美味しい」と言ってくれたからか。塩漬け豚肉を噛みしめると旨味が口に広がった。
「今日はお仕事どうだった?」
「いつも通りだよ。民のためと言って、私利私欲が見え隠れする大人たちをあしらうのは手間がかかる。でも妻選びはしばらく待ってもらえそうだ。
僕がここに通っていると知られたら批判されるだろう。でも必ず守るから安心して。辛い思いをさせたらごめん」
「いいよ、幸せになるためでしょう。それにいつかこの経験が役に立つと思えば、ぜんぜん辛くないよ」
「名前…」
ギルの目元にぎゅっと力がはいったのが分かった。…彼はたくさんの覚悟をしてくれている。私も少しずつ彼の想いを受け入れはじめていた。
「少し相談があるんだ」
「どうしたの?」
私はパンを食べながら彼の話に耳を傾けた。
「もう名前の前で“僕”っていうのはやめようと思うんだ。幼いころの口調のままだったけれど、そろそろ恥ずかしくて」
「………」
突然の微笑ましい相談にパンを詰まらせそうになった。…こんなことを律儀に相談してくれるなんて。彼は強い力をもった王様なのに、ときどき見せる子供っぽい一面がたまらなく愛おしい。こういうのがだんだん減っちゃうのは寂しいな、と思いながら彼の提案に賛成した。
「いいんじゃない。私は気にならないけど、ギルがそうしたいなら。代わりになんて言うの?」
うーん、と彼は迷っているようだ。
「“私”…これは名前以外と接するときに使うけど、他人行儀で嫌だな。我(われ)はちょっと偉そうで嫌だし」
「そう? “我”って格好良い気がするけど」
「ねえ、本気で考えてくれてる?」
いたずら心が出たのがばれたらしい。彼は機嫌を損ねた猫みたいな表情をして「真剣に考えてよ」とねだった。
「そうだなあ…」
現代で読んだ小説のキャラクターを思い出した。「“おれ”はどう? そう言う男の人は多い気がするよ」
「“おれ”…ね」
ギルガメッシュはちょっと考えて、僕よりは良いと思ったようだ。「“おれ”はギルガメッシュだ。語尾も合わせた方がいいかな」
「うん。話し方も、男っぽくしたほうが良いかもね」
「分かった。…そうしよう」
すこしだけ気恥ずかしそうに話すギルが可愛い。こういう姿って、今しか見られないんだろうな。とても贅沢な経験をさせてもらっていると思うと嬉しくなった。
「ねえギル」
「なに、名前?」
「今朝話していた神話の続きをして。…エンリル神は都市から追放された後どうなったの? 女神ニンリルと結ばれなかったの?」
実は朝から気になっていた。さすがに神々の王が追放されて終わりとは思わなかったが、最後に女神と結ばれたのか気になる。
ギルガメッシュはどう話そうか考え、しばらくしてから「そのあとはちょっと複雑な話なんだ。食事の片付けをしたあと、寝物語に語ろうか」と言った。
「ええ」
私は笑顔でうなずいた。
■□■□■□
そのころ、ある高官の館(やかた)に数人の男たちが集まって、今日の長老議会について話していた。
「ギルガメッシュ王はしばらく妻を娶る気がないようだ」
「おそらくあの女のせいだろう」
「王が長いあいだ近くに置いていた女か」
男の一人が口汚く言った。「王も冷静に考えれば分かるものを。己の欲望のために国の利益を後回しにするとは」
「あの王なら周りの反対を押し切って実行するだろう」
「正式な妻にするということか」
そんなもの認められるわけがない、と別の男が言った。
「我々にも年頃の娘がいるのだ。それを蔑ろにして得体の知れない女など…」
「王はその女と比べて、隣国の姫も、忠臣の娘も目に入らないということだろう」
男たちの中でもっとも身分が高く、長老議会をまとめている男が言った。
「…つまりそれ以上の条件をもった女でなければ、王は受け入れないと言うことだ。できれば断れない相手が良い」
だがそんな女がどこにいるのだ、と反対意見が上がった。隣国の姫でもなく高官の娘でもない。王が断れない相手など。
一人だけ静観を貫いていた男が口をひらいた。「…まさか“女神”を呼ぶつもりか?」
「ああ」
と議長である男が笑った。その笑みには不遜さがにじみでていた。「得体の知れない女にひざまずくよりマシだろう」
「だが神の力を借りて失敗すれば、我々も無事では済まない。どんな性格の女神かも分からない」
「大丈夫だ。供物をたっぷり用意して、ギルガメッシュ王の目を覚ます間だけ協力して欲しいと願えば。呼び出す女神のめぼしもついている」
議長は窓の外を指さした。――青白くかがやく満月が夜空にあった。
「…エンリル神はニンリル女神に手を出して追放されたけど、すでに彼女の胎には月の神シン(ナンナ)がいたんだ。彼女は追放されたエンリル神を追って冥界にはいる。
・・・(神話について語る)・・・
シン神のほかに、ネルガル神、ニンアズ神、エンビルル神が二人の間に誕生して、最終的にこの三神を冥界に残すことで、エンリル神、ニンリル神、シン神は地上に復活したんだ」
ギルガメッシュは何ともいえない表情で話を締めくくった。この神話は、最終的に父と母と長男が助かって終わる。残りの3人の子供は?と思ったが、神話はここまでしか語らない。
「いちおう最後はハッピーエンドってこと?」
「うーん、神の感覚を人間の感情でとらえるのは難しいね」
話し終えた彼は寝台に横たわった。あまり神々について深く考えないようだ。でも彼の器のうち、2/3は“神”だ。少し違和感があった。
「ギルは自分の中の“神”についてどう考えているの?」
「もちろん大事な自分の一部だ」
彼の目は遠くをみつめていた。「でも正直なところ共感はないんだ。母である女神ニンスンともあまり話したことがない。周りにいるのはウルクの民で、名前が側にいてくれたから。神の力を使う機会もそこまでなかった」
ふと興味がわいて聞いてみる。
「昔、話してくれたでしょう? ギルは普通の人に視えないものが見えるって。その力を私に使ったことはある?」
「いや、視ないようにしている」
ギルガメッシュは否定した。
「…名前との未来はあらかじめ視たくないんだ。だって、君と感じたことを分かち合って、一緒の歩みで幸せを作っていきたいじゃないか」
真剣に彼が言うので、聞いている私の方が赤くなってしまった。…わざとだろうか。こういうことを自然と言ってのける青年をかわす方法を知りたい。
はあ、と私はため息をついた。身も心も満たされて苦しい。
「じゃあ、約束ね。これからも私たちの未来に“神の力”は使わないで」
「ああ、約束する」
ろうそくの火を消し、部屋は真っ暗になった。
今夜は満月だ。青白い月の光が窓から差し込み、ギルガメッシュと私を照らしている。
(…月の神はシンだっけ。神様の感情や考え方ってよく分からないな…)
古代バビロニアにおいて月≠ヘ重要な存在であった。農耕と月の満ち欠けが関係しているからだ。それゆえ月の神シンを祭る巫女には、各都市の王女が任命されることがあった。巫女は儀式でシン神の妻役をつとめた。
ここに一人、ギルガメッシュ王の妻の候補として選ばれていた王女がいる。彼女はかつてシン神の巫女だった。
アンナは長老議会の議長によばれて神殿に入った。相手は自分より低い身分だったが敬意を示し、礼儀正しく挨拶した。
「議長どの。せっかくお招きいただいたのに残念でしたわ。何か用でしょうか」
「おお、アンナ姫。お呼び立てして申し訳ありません。実は折り入って相談があるのです。
ギルガメッシュ王のためですが、貴方にとっても悪い話ではないでしょう――…」
祭壇には天井がなく、月の光がじかに降り注いでいる。
神官が長い詠唱をおえた後、祭壇からひとりの少女が起き上がり、周りで平伏している人々を見た。
「…これが受胎という感覚か」
手足が動くことを確認し、上下する胸に手をあてて呟いた。
人間のほの暗い欲望によって呼び出された女神。だが、果たして神が人の味方であったことがあるだろうか…?
少女はにやりと嗤った。
<つづく>
参考文献:
『古代メソポタミア飯』 遠藤雅司
『シュメル神話の世界』 岡田明子・小林登志子
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