▽ 3
星は瞬く
一週間が過ぎたその間、私は麦畑に来て風になびく穂の世話をした。秋に蒔いた種は冬を越えて春に大きく成長し、夏に収穫を迎える。青麦が風に吹かれてあそんでいた。
さわさわと穂が揺れる音を聞きながら、私はギルガメッシュとどうやって話すか考えていた。
彼は仕事が忙しいのかあれから来ていない。でも私がジッグラトを訪れたら好奇の目で見られてしまう。踏ん切りがつかないまま、時間が過ぎていた。
「名前」
気付いたら正午の鐘が鳴って、シャシャさんがお昼を持って来てくれていた。今日は祭祀長さんと一緒じゃない。どことなく彼の雰囲気が違うのを感じた。
お礼を言って昼食を貰い、近くの涼しげな木陰にはいる。シャシャさんも自分のぶんを持って隣に座った。だが彼は黙ったまま、パンをかじる私の横顔を見つめていた。
「…シャシャさん? どうかしましたか」
「いや」彼は手元のパンに視線を落としたが、再び「いや」と言って私のほうを向いた。
「実は話があってきたんだ。嫌なら断ってくれていいし、断ったからといって君を追い出さないから安心してくれ」
「………」
彼の言い回しは気遣いがにじみ出ていた。私は身構えた。決断を求められるような雰囲気だった。
彼は息を深く吸い込むと、腰にむすんでいた皮袋に手を伸ばし、金の腕輪を取り出す。驚いた表情の私を見ながら言った。
「これを君に贈りたい。俺が持っている中で一番高価なものだ。あとは菜園と家畜、家ぐらいしか俺にはないが真面目に働いて君を安心させる。
だからずっとここに居てくれないか」
「シャシャさん…」
私は言葉の意味を理解した。古代の習わしは分からないが、高価な貴金属を男性が女性に贈る意味はひとつだろう。
…もったいない話だ。嬉しさよりも恐れ多いと思ってしまう。私の身元はあやふやで持参金もない。シャシャさんは正直で働き者だ。きっと良い夫になるだろう。
――こういう人と一緒になるのが、幸せなのかもしれない。
ぼんやりと思った。嫌だとは感じない。彼のようなちゃんとした人に好意を抱いてもらえたのは嬉しかった。
――嫌じゃないけれど、それで受け入れてしまっていいの?
ぼんやり思うだけで現実味はなかった。でも真っ先に浮かんだのはギルガメッシュのことだった。…もし他の男性と歩む道を選ぶなら、彼とは絶対に離れていく。まだ互いの気持ちを整理できていないのに、私だけ先に歩むことはできない。
「ありがとうございます。嬉しい、です」
「じゃあ…」
私は硬い表情で首を横に振った。「すこし時間をください。急に言われたから驚いてしまって」
あいまいな態度をかえしたのに、シャシャさんは嬉しそうに「それもそうだな」と笑った。
とても悪いことをしている気分だった。せっかくプロポーズをしてくれた男性が目の前にいるのに、私は別の男性のことを真っ先に考えている。でも誠実に応えるため、できるだけ早くギルガメッシュと話そうと決意した。
「じゃあ俺はこれで」
シャシャさんは手のひらに金の腕輪を押し付けた。「これは持っていてくれ。身につけてくれたら『承諾』したと思うことにするから」
「………」
硬い表情の私を残したまま、彼は立ち上がると大股で仕事場に戻っていく。その背中があまりにも弾んでいて、受け取れないと言えなかった。
――ギルと話さなきゃ。
嬉しいことのはずなのに気が重かった。金の腕輪をポケットに入れ、味のしなくなったパンをかじった。一人になるとようやく申し出に実感がわいてきて、心臓が大きく脈打つ。…プロポーズされたのだ。頬が熱い。自分が女性であるという事をすっかり忘れていた。
――求婚を受け入れるという選択もあるのだろうか。ギルのそばを離れ、ふつうの女性として?
現代に戻ることを諦めたのは、彼のそばに残るという決断をしたからだ。それを置いて、遠い古代で私は生きていくことが出来るのだろうか。
ギルガメッシュの隣にいる自分は想像できても、家族を作って普通の女性として生きていく未来は想像できなかった。
■□■□■□
ギルガメッシュは一日の仕事を終えて寝室に戻った。疲労感が強かった。遠征のあいだも議会と書簡でやり取りしていたから仕事が山積しているわけではない。
寝室に戻っても名前がいないからだ。シーツにもぐりこんだとき、冷たい寝台に彼女の温もりが恋しくなる。
――名前は僕がただ寂しがっていると思っているのだろうか。
ギルガメッシュは彼女の姿を思い浮かべた。長いあいだ触れられなかったその姿を空中にえがき、触れるように手を伸ばす。
「名前…」
――とっくの昔から、甘える対象なんかじゃない。
そばにいて欲しかった。2年間でその思いは強くなり、ようやく会えたのに彼女から『離れたい』と言われた。貴方のためだからと。
彼女の心をすべて知らないように、彼女も僕の心を知らない。ただ寂しがっていると思っているなら誤解だ。だが離れようとしている彼女に本心を伝えたら、もっと遠ざかってしまうだろう。
……どうすれば、そばに居てくれるだろう。
虚ろな気持ちで寝台に目をやり、座っていた人影に息を呑んだ。松明に照らされて浮かぶ優しい顔を見まちがえたりはしない。
「ごめんね。勝手に部屋に入らせて貰っちゃった」
「名前…!」
ギルガメッシュは彼女をみるやいなや駆け寄って抱きしめた。すっぽりと腕におさまる。彼女より背が高いのに、子どもっぽいと思われてしまっただろう。
――伝えなくてはならない。とっくの昔から、きみが特別な存在であったことを。
ギルガメッシュの肩に額を当てながら、私は深呼吸した。
「…話さなきゃいけないことがあるから来たの」
「ああ、僕もだ」
見上げた赤い瞳に松明の火がゆらめいた。
神の力をもった完璧な青年に、改めて私はもう必要ないと思う。でも彼の気持ちを聞かずに一方的に離れてしまったら、私たちの関係まで消えてしまうだろう。
「ギルから話を」
「――分かった」
彼は苦しそうな張りつめた表情をした。まるで昼間、シャシャさんが決定的な言動で私との関係を変えたように。
「2年ぶりに再会したとき、名前は初対面の人に会ったみたいに緊張していたね」
「うん。記憶よりずっと大人になっていたから」
「そうだ、僕もようやく大人になった。でも君が大切だということは変わらない」
「………」
「それでも大人になった僕と君を、周りの人が前と同じように考えてくれないのは分かる。僕もはっきりさせたいんだ」
私が頷くと、唐突にギルガメッシュは「見せたいものがある」と手をとった。導かれるまま窓辺に歩むと屋上へ続く階段があった。
「風が強いから気をつけて」
ジッグラトをのぼる階段は風をさえぎるものがなく、遠い街灯りが足元にちらついた。怖くて彼の手を強く握ると、肩に手を添えて引き寄せられた。
「怖かったら腕につかまっていて」
彼の低い声が耳元をくすぐる。ゆっくりと足をすすめて屋上に辿り着いた。空を見上げると、深い夜闇に満天の星が浮かんでいた。
「…すごい。綺麗だね」
恐怖から解放された私は夜空に魅入った。彼は静かに天を仰いだ。
「この星空を戦場でも見上げていた。…でも、僕が感じるのは孤独だった」
私は見上げるのをやめて、彼の横顔を見た。美しい瞳は遠くを見つめ何も映していない。
「ずっと忘れていたんだ。僕のような存在は、この空の下に独りであることを。いや、忘れていたというより考えることがなかった」
この広い空の下で、自分にならぶ存在は居ない。尊大な意味ではないことを理解して胸が苦しくなった。
「名前が居たから一人で過ごすことに不慣れになっていたんだ。だから戦場では兵士たちと過ごして、音楽を奏でて心をなだめようとした」
でも君といるのとは違う。ギルガメッシュは続けた。
「夜になると周りの空気が冷たくて……無性に君に会いたくなった。でも思い浮かべれば浮かべるだけ、遠くにいるのを実感した。僕は2年、君のいない孤独に耐えなければならなかった」
――ギルはそんなふうに感じていたんだ。
私を慕う気持ちを知る一方で、彼の孤独がそれだけ深かったのだと驚いた。…私も違う時代からやってきて、どれだけ周りと親しくなってもみんなと違うことを忘れない。
――でも彼の『人間らしさを守る』と決めて、私はこの世界で生きることを選んだ。
私にその役目がなくなったら、きっと現代に戻る方法を探したくなる。頭上を覆い尽くす星空が急に怖くなった。遠くに吸い込まれて、自分の輪郭が分からなくなりそうだ。――孤独。誰かが隣にいなければ、自分が分からなくなって消えてしまう気がした。
「…名前、泣いてるの?」
「ごめんなさい。感情が高ぶってしまったみたいで」
気が付けばたくさん透明な滴が頬を伝っていた。違う、孤独なのはギルガメッシュだ。2年も耐えていた。でも久しぶりに再会した私は彼を拒んだ。
「じっとしていて」
彼は私の目尻に触れて涙をぬぐった。指の先は温かく、優しい手つきだった。温かく愛おしかった。手を伸ばして、ギルガメッシュを抱きしめてあげたいと思った。
「名前、君を困らせたくない。でもそばにいて欲しいんだ」
「………」
私は答えられなかった。彼のためと決意したのに、いざ向き合えば離れたくないと思ってしまう。彼の孤独を知って、自分が忘れていた孤独にも気付いてしまった。
「どうしたらいいのかな。一緒にいるべきじゃないのに」
「名前…」
伸ばされた手を拒まず、私はギルガメッシュの腕のなかに入った。そして、手を伸ばして背中をかき抱いた。
――懐かしい体温だ。
高くもなく低くもない、溶け合うような温かさ。腕のなかで深く息を吸い込んだ。彼の香りだ。
「名前」
優しい声が耳をくすぐった。
「僕は君を迎えたい。きちんとした正式なかたちで」
「ギル、それは…」
「もう分かってよ。大人の僕がどんな理由で君にそばにいて欲しいのか」
「っ……」
彼の瞳がすぐ目の前にあった。「とっくの昔から決めていた。僕が大人になったら君を迎えると」
「急に言われても――」
「言葉にしなかっただけで態度では伝えてきたつもりだ。他人から見ても明らかだったと思うよ」
私は祭祀長さんの言葉を思い出した。それから、シャシャさんが私と彼の関係を尋ねたことも。
「あ…」
「そうだ。僕はずっと決めていた」
ギルガメッシュは私を離し、たたずまいを正した。彼の身長は高く、体格は立派でうつくしかった。赤い瞳は真っ直ぐに私をとらえていた。
「名前、僕と結婚して欲しい。ずっとそばにいて欲しいんだ」
息を呑んだ。今日、同じようなことが昼間にあったばかりだ。
でも、昼間とはまったく違う。あのときはぼんやりしか考えられなかったが、今ははっきりと頭が働いている。頭のてっぺんから足先まで震えている。
「………」
だめ、私は相応しくない。
その言葉が喉元まで出かけるのに、彼に見つめられたら消えてしまう。
「どうか時間をくれないか。今は男性として僕を見られなくても、必ず思わせてみせるから」
「………」
ギルガメッシュの告白を聞いて、いまさら私が何の感情も抱いていないとは言えなかった。恋愛感情かは分からない。でも愛おしさ、孤独、喜び、苦しみ――そのすべてを私は彼に抱いている。
「私では貴方の力になれないよ。政治的な力も財産もないし、周りの人からも反対される」
「大丈夫だ。僕は結婚で他国から得られるようなものは必要ないと周りに分からせてみせる」
「何も持っていないのに…」
「それでいいんだ」
ギルガメッシュは私の手を取り、自分の手で包み込んだ。彼の手の温かさは、私の最後の迷いを包み込んだ。
――いつか私はこの選択を後悔するだろうか。
でも一人ではない。後悔しても隣に彼がいる。
どんなに辛くても彼と共にあゆむ未来があるなら幸せだと胸が高鳴り、私の気持ちを正直にした。
「ごめんなさい」私は誰に言うともなくつぶやいた。
「私が貴方のそばに居られるはずがないのに」
金の腕輪も誓いの証書もない。見届けたのは、空に瞬く星だけ。
「もう逃げないでくれ、名前」
ギルガメッシュは私を抱きしめた。彼の鼓動が聞こえて私が腕の中から逃げないことを確かめている。体温が溶け合い、満たされた気持ちになった。
肩越しに満天の星空が降り注いでいた。
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