星の器 | ナノ


▽ 1

 幼王の帰還

 凍つく冬を乗り越えると夜明けの空に明星が輝く。春の訪れだ。今年は春を告げられると同時に、喜ばしい知らせがウルク中を駆け巡った。

「王が戦いに勝ったそうだ!」
「兵士たちが戻ってくる。王のご帰還だ!」

 勝利の知らせは人々にひと足早く春の心地を運んできた。長い緊張から放たれ、温かさにまどろむよう。
 ――ずいぶん長い戦いだった。だが今回もギルガメッシュ王の勝利だ。やはりあの王には神がついている。
 民衆は若き王に酔っていた。民は与えられるものが多いほど従順になる。一方で、王とは、与えられるものがなくなれば簡単に歴史の渦へと飲み込まれていく……。

「戻ったら王が真っ先にすることは何だろうな」
「さぁな。おれたちには想像できない尊い方だから…」



 ギルガメッシュは2年ぶりにウルクの城門をくぐった。一都市を落とすつもりが二都市、三都市と戦いが続き、すっかり留守が長くなってしまった。
 人々の歓声と花びらに包まれて、ウルク街内に入った兵団は、門からまっすぐ伸びる道を進んでジッグラトに着く。ジッグラトを登る階段の前に、一人の女性が待ち構えていた。

「ギル……おかえりなさい!」
 彼女は輿にのった王に呼びかけた。無礼な態度だ。だがその親しげな振る舞いを王の側近は止めない。特別にゆるされた存在だった。
「名前…」
 輿をかつぐ人々がしゃがみ、王は地面におりたった。すっくと立った彼は2年前よりずっと身長が伸びている。「久しぶり。…どうしたの? 緊張してる?」
「う、うん。前に会った時からずいぶん身長が高くなったなあって。声も低くなったね」
「遠征のあいだに成人も迎えたからね」

 名前は目の前にいる青年を見上げた。――記憶の中のギルガメッシュとはずいぶん違う。
 戦いに出る前、彼の身長は名前と同じぐらいだった。それが2年の間にぐっと伸びて彼女を追い越した。心地よく響く低い声も、彼が立派な青年に成長したことを伝えていた。
「そ、そうだね」
「驚きすぎ。まず僕が無事に還ってきたことを喜んでよ」
「もちろん…」

 名前は腕をひろげて彼を抱きしめようとした。だが自分より身長が高い彼をどう抱きしめたらいいか分からず、腕を下ろした。すると、じれったくなったギルガメッシュが駆け寄り、自分から名前を抱きしめる。肩口に額があたった。たくましい肩だった。
「ただいま、名前」
 戦場から還ってきた彼は、遠い異国の香りをまとっていた。


■□■□■


 戦装束を脱ぎ、宮廷服に着替えたギルガメッシュは懐かしい自室の空気をゆっくりと吸った。窓からウルクの街並みを見下ろして目を細める。疲れているが、充実した表情だった。後ろを振り向いて名前に微笑みかけた。

「ようやく帰ってきたって気がする。懐かしいよ」
「うん」
「名前はぜんぜん変わらないね。夢で見た姿のままだ」
「夢の中に出てきたの?」
「ウルクを想うときは必ず見た。ここに戻る一心で戦ってきたからね」

 名前は嬉しくなった。外見はすっかり大人びたが、中身は前のままだ。一気に2年の時間を跳躍し、懐かしい思い出が胸に押し寄せる。
 名前がウルクにやってきた頃、ギルガメッシュは幼い男の子だった。身長は彼女の胸より低かった。だが恐ろしい存在で、人間らしさは一切なく、考えていることも分からなかった。しかし自分を抱きしめて眠る彼を愛おしく思い、すこしずつ互いの心を近づけていった。
 そうした記憶が、2年という留守を挟んでも、二人の間にある。元の感情に戻るのは簡単だった。

「ギルは立派になったね」
「そうかな。でも名前を見下ろせるようになったのは嬉しい」
 彼は隣にやってきて名前を見下ろした。澄ました表情だが声が笑っている。
「身長だけじゃない。中身だって大人になったよ」
「本当に?」
 名前は冗談めいた笑みで聞き返した。
「そうだよ。すぐ僕が成長したって分かるさ」

 二人でしばらく話していると扉を叩く音がした。長老議会にお越し下さいと伝えにきた文官に、ギルガメッシュは長いため息をつく。久しぶりに帰ってきて仕事に追われているようだ。祝賀の宴で会おう、と彼は言った。
「今夜の宴は来てよ。挨拶ついでに退屈な話をする大人が多いんだ。名前が隣にいてくれたら気が紛れるから」
「いやだよ。着飾るのってめんどうだし」
 不機嫌そうな彼に、名前は「さっき大人になったって言ったじゃない」と指摘した。
「ずるい。僕が帰ってきたのに名前は祝ってくれないの?」
「それは嬉しいけど…」

 じゃあ来てね、とギルガメッシュは話を聞かずに部屋を後にした。「征服した都市からの贈り物にめずらしい織物があって、名前に贈るつもりだった。それを着てきて。侍女は呼んだから」
「ギル…!」
 彼と入れ違えに侍女たちが部屋にはいってきた。大きな荷物をいくつも抱えている。名前が扉をちらりと見ると、怖い表情で侍女たちが立ち塞がった。
「女性の支度には時間がかかるものでございます。宴まで1刻(約2時間)しかありません。もはや猶予はありませんよ」


■□■□■


 今宵のジックラトはひときわ輝いていた。夜闇に浮かぶ白亜の宮殿が、松明の強い火で真昼の太陽のように光っている。眼下の街は祝福の声で満ちていた。
 楽師の演奏と踊りがつづき、ギルガメッシュ王は眠気と闘っていた。彼は何度も入り口を見やった。
 …名前は遅い。服装など何でも良くて、ただ隣に居てくれさえすればいいのだ。はやく解放されて二人きりになりたかった。
 ふと広間の入り口が騒がしくなって人々の視線が集まった。珍しい献上品か、使者だろうか。ざわめきが伝わってきて、「どこの娘だろう」「異国から来た姫君か」という言葉が聞こえた。
 ギルガメッシュは立ち上がり、現れた女性を確かめた。
 ――あれは名前だ。
 織物一反が宮殿三つぶんの価値、と聞いたときは大袈裟だと思ったが、まばゆい光沢は遠くから見ても艶めいていた。その布地に真っ直ぐな黒髪が垂れ、肌はきめ細かく、結い上げた髪からは白いうなじがのぞいている。

「あれは王の庇護にある娘だろう」
「王はみせるべきものを宝物庫に隠しておいでだな」

 ギルガメッシュの眼のように紅い耳飾りがほんのり色づく首すじに視線を誘った。化粧をほどこした顔は物憂げで、まるで甘い声をかけられるのを待っているよう。
 ギルガメッシュは猛然と人垣をかきわけ、宴会場に入ってきたばかりの名前の手を握った。飾り立てた姿を見たことがあったら絶対に宴の席へ出さなかったのに、と、彼は強く後悔した。
 名前は「ギル!」と明るく微笑む。赤く弧をえがいた唇に心がざわつくのをギルガメッシュは感じた。……とにかくこの場には留めておけない。
 こんな彼女を他人の目に映したくない。

「気が変わった。部屋に帰ろう」
「どうして?せっかく来たばかりなのに…」
「…戻るんだ」
 何を怒っているの? と名前は不安げな表情でギルガメッシュを見上げた。
 なにか間違いをしただろうか。何時間も準備をして、鏡で見たとき自分でも良く映えていると思ったのに。

 宴会場を出て、ギルガメッシュは手を握ったまま外へずんずん歩いた。外の回廊は暗く、月の光で照らされていた。
 名前は彼を引き留めようと言葉をつむいだ。
「待たせたことは謝るよ。でもギル、まだ宴の途中でしょう?」
「大事な挨拶はもう済んだから」
「でもお客さんがいっぱいいるじゃない」名前は彼を見上げて言った。「お客さんの中には、ギルのお嫁さん候補の人もいるんでしょう。侍女達にそのための宴だって聞いたよ」
「侍女がそんなことを?」

 ギルガメッシュはぴたりと足をとめた。名前は握られている手が少し痛かった。でも怒っている雰囲気で言いにくい。ギルガメッシュは立ち止まって、自分より身長の小さくなった女性を引き寄せ、赤い瞳いっぱいに彼女を映した。

「名前は――なんでそんなこと、平気で言うんだ」
「なんで、って……ギルは成人したでしょう。自分で大人になったって言ったじゃない」
「そうだよ。でも名前にそんなこと言われたくない」
「でも……」
 名前には彼が怒る理由がわからなかった。――もしかしたら長老議会もそんな話だったのかも。しつこく言われたら、年頃の彼にとって気に触る話題だったかもしれない。
「ごめんなさい」
 名前が一歩引いて言うと、彼も自分の感情的な発言を反省したようだった。
「…僕こそごめん。でもちょっと疲れたんだ。宴には戻らないよ」

 そう、と名前は腑に落ちないまま頷いた。…戦場から還ったばかりだ。疲れていて気が立ちやすいのだろう。でもギルガメッシュが感情に駆られる姿はめずらしかった。
 ――なんだか前と違う。
 名前は違和感を抱いていた。戦場での2年間を彼はどんなふうに過ごしたのだろう。急に長く離れていたことを意識し、どう接するべきか分からなくなった。
「とりあえず休んだほうがいいよ。部屋まで送るから」
「…『部屋まで送る』って?」

 名前の言葉をギルガメッシュは耳ざとく聞いた。整った顔が、こんどは問い詰めるように厳しくなって名前は緊張した。まだ手は握られたままだった。
「ギルの寝室まで一緒に行くってことだよ」
「君も一緒だろう」
 名前は首をふった。
 …2年、彼はいなかったのだ。そのあいだ彼の部屋ではなく空き家を使わせてもらった。ジッグラトに戻ったのも今日が久しぶりだった。

「私は別のところに住んでいるの。ギルも成人したでしょう」
「そうだけど……戻ってきたんだから良いじゃないか」
「それはだめ。成人の儀式も済んだし、お嫁さんを選ばなきゃ」
「………」
 また言ってしまった、と名前は思った。でも目の前にいるギルガメッシュはもう立派な大人だ。つい子供のときと同じように接してしまったけれど、彼の言う通り『大人になった』のなら大人扱いしなければならない。
 名前は握られていない手でそっと彼に触れ、手をほどき、乱れた衣服を正した。そして数々の無礼を詫びるように頭を下げた。

「…ギルガメッシュ王。失礼と存じますが、私の言葉をお聞き入れください」
 深々とお辞儀した名前を、彼はぼうぜんと見つめていた。やがて口を開く。
「…どうしてそんな他人行儀をする? 僕はずっと君に会いたかったのに」
「私も会いたかったよ」
 誤解を解こうと名前は顔をあげた。「でも、こうしないと。いつまでも同じ関係は続けられないでしょう?」
「そうだけれど…」
 ギルガメッシュは歯切れの悪い返事をした。納得できないのか、彼女をじっと見返した。

「名前は『ずっと僕のそばにいる』と約束したね」
「うん、覚えているよ」

 ずっと昔の出来事だ。ある年の春の儀式で、名前は危うく命を失いかけた。命からがら戻った彼女は、心配するギルガメッシュの手をにぎって誓った。
『…王様でも、ただの小さな男の子でも。私はずっと貴方のそばにいるよ。』
 今も記憶は鮮やかさを失っていない。覚えていてくれたのを嬉しく思う。
 今も記憶は鮮やかだった。覚えていてくれたのを嬉しく思う。…でも、あのとき彼は子供だったのだ。そばにいるは、ずっと同じ意味ではない。約束を破るつもりはないが、今後も言葉通りそばにいる≠けにいかなかった。

「約束通りずっとそばにいてよ」
「無理だよ、もうお互い大人だもの。ずっと同じ関係ではいられない」
 首を横に振る名前を、ギルガメッシュは祈るような目で見た。まるで何かを伝えたい、分かち合って欲しいというように。
「違う、僕は変わっていない。名前が変わったんだ」
「――私が?」
「そうだよ。僕は何も変わらない。君に望むことも」

 それだけ言い切ってようやく冷静になったのか、彼は一歩名前から離れた。宴会の酔いを醒ますように前髪をかきあげた。
「ひとまずは分かった……無理に連れ戻したりはしない。でも、必ず戻ってきてもらうから」
 説得しようとする名前の言葉をギルガメッシュは遮った。「駄目だ。これは僕が決めたことだ」
 上着を脱ぐと名前にかけた。「戻って服を着替えて」
「ギル…?」

 それきり青年王は黙って何も言わない。名前をその場に残したまま、踵をかえして宴会場に戻った。



 取り残された名前はため息をつきながら、ぬくもりの残る大きな上着に指を這わせた。
 ――ギルはどうしたんだろう。大人になったっていうのに、行動は前よりも感情的で子どもっぽい。
 穏やかな関係が壊れつつあるのを名前は感じた。この2年間、彼に何かがあったのだろう。だが彼との関係を失うのが怖くて、問い詰めて聞く勇気はなかった。
 でも、そんなに怒らせることをしただろうか。
 ――せっかく着飾ったのに。

「…綺麗だねって、お世辞でも言って欲しかったな」

 名前は急にさびしい気持ちになり、来た道を帰った。彼が握っていた手に、まだ熱い感触が残っていた。



※長老議会…
バビロニア初期王朝時代。王の権力と並立した2つの議会のうちの1つ。 
      参照文献『「知の再発見」バビロニア』


prev | list | next


×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -