星の器 | ナノ


▽ 10

…少し前の自分なら、自分の命が助かることが最優先で命をかけたいことなんてなかった。それは間違いじゃない。誰だって自分の命が大事だ。
でも、私がそう思っていたのは、「自分が絶対に誰かに必要とされている」と思わなかったからだ。

――魔術塔での自分。
――異なる時代に飛ばされた自分。

大勢の人の中で、無力で、誰かが必要としてくれると心の奥底から思えなかった。
でも今は違う。私の心の中にはいつだってギルがいる。神官長さんの教えてくれた、彼のそばにいる意味もある。私の居場所はここにある。
……だから、生きたい。でも命以上に守りたいものもあった。
私はもう、彼の幸せを考えずに行動ができなくなっていた。


泉は深かった。深淵がぽっかりと口を開けているようだ。重りをつけられて溺死するのは相当苦しいだろう。
私が唯一できる浮力魔術。この力なら、なんとか重りを浮かせて沈まずにいられる。命は助かる。良いじゃないか。私が死んだら彼は悲しむだろう。助かったら喜んでくれる。
――…でも、そのあとは?
王と女神の加護という大仰な肩書を負った私が神に受け入れられなかったら、儀式はめちゃくちゃになる。ギルはそれでも私を受け入れてくれるかもしれない。肩身が狭いだろうが、彼は守ってくれる。
 でも、それは、彼に迷惑をかけるのだ。それこそ祭祀長が言ったように、彼は王権や自分の力を間違った方向に使うかもしれないのだ。

泉の水をもう一度見る。すると、到底不可能そうなアイデアが浮かんだ。
(…成功しなさそう。そしたら、死んじゃうだろうな。)
それでも、なぜか私の心は急に心が軽くなるような気がした。ああ、これは…希望、だ。これが成功すれば、彼に迷惑をかけない。わたしは自分の望む形で彼のそばにいられる。彼を支えられる。
(…もし、失敗したとしても。)
自分の命を懸ける価値があると思った。私はそんな存在に出会えたのだ。後悔はしない。

泉のなかへ落とされる。私は、抵抗せずに静かに水を受け入れた。


■□■□■


高貴な生贄によって民衆の興奮は最高潮に達し、少女が沈んだ泉に視線が集まった。水面は波紋を立てたあと、静かだった。数十秒経っても、娘は浮いてこない。数分経っても。
「神は生贄を受け入れた。今年の豊作は約束された!」


歓声の中で王と祭祀長は退出し、次の儀式に移動していく。
群衆の声が遠くなった場所で、幼い王は祭祀長に怒りをぶつけた。
「…アルマ、貴方だろう! あのような悪趣味を……!」
「私は祭祀長の責任を果たしただけのこと。神も民衆も、生贄に満足しました。娘も大人しく従いました。」
祭祀長は冷静沈着だった。まるで王の怒りを覚悟していたようだ。怒りをぶつけられても大事なことがある、というように。
「貴方を祭祀長から外します」
いつもの冷静さをかなぐり捨てて、ギルガメッシュは叫んだ。
「それは、どのような理由ですか。儀式で神に生贄をささげたこと?祭祀長となれば、王の命令だけで処分できないことはご存知のはず。」
 祭祀長は自分は一切間違ったことをしていないと言うように、身を翻して歩き出す。彼は侮蔑するような目つきで祭祀長を睨んだ。何かがこみ上げてきていた。
 そのとき、周りにいた人々は王の異変に気がついた。王の息が荒くなり、短い呼吸がこぼれる。そして足元がゆっくりと傾いたように感じた。床が溶けてくずれていく感覚で、立っているのが苦しくなる。空気がものすごい重圧感でのしかかる。神殿のレンガが小刻みに動き、ホコリ、かけら、どんどん崩れ始める。
「王様!やめてください!」
誰かが叫んだ。女神ニンスンの神官長だった。「どうか、冷静に!今はじっと耐えてください」
射抜くような赤い目が彼女を見た。
「…私は、名前さんの体に重りを付けました…!彼女も自分の命が助からないと分かっていたはずなんです。
…でも、彼女に死の恐怖は無かった。それどころか決意を固めた目をしていました!」
威圧感で息ができず、荒く呼吸をくりかえしながら彼女は言い切った。「…きっと、何かを決意したんです。どんな決意かは分かりませんが、貴方のためであると私は思います。」
 誰もが王の怒りを恐れ、身をかがめていた。ギルガメッシュは小さく何かを呟いた。彼の目がゆっくりと閉じられる。
揺れがおさまった。人々はその場で平伏した。祭祀長でさえ彼を恐れて近づかなかった。神官長だけが立っていた。
「王様、どうか名前さんのために、このあとの儀式を続けてください…。」
彼女が王の怒りの的になることを誰もが想像した。
「…次の儀式の準備を。祭祀長、皆に指示をしてください。」
だが彼はそれだけ言うと、いまだに歓声の聞こえる儀式会場に背を向け、王の間に歩いて行った。


次の儀式の時間になった。マルドゥク神像の前で、改めて王に王権を授ける重要な儀式だ。
神官たちは恐れた。神の力を持った王が怒れば、どんなことが起こるだろうかと。
だが、不気味なほど儀式は静かに行われた。
王の表情は静かで、まるで全てを超越しているような、神の子にふさわしい風格を放っていた。






……その少し前。泉に沈んだ少女の話に戻ろう。
少女は水の中で静かに目を閉じていた。しかし、心臓の鼓動は止まっていなかった。彼女は胸を上下に動かし、わずかに呼吸していた。
泉に沈む直前、彼女は水の中で生き延びる方法を考えた。それはほとんど絶望的だった。水の中にはほとんど酸素がない。魚が生きられるだけの酸素はあるが、人間に必要な分は足りない。
だがそこに勝機を感じた。酸素さえあれば、少しの間だけ命を長らえさせるかもしれない。おそらく誰も試したことがない方法だった。彼女以外は無しえない手段だったから。彼女も成功する確信はなかった。
彼女は重りをつけるニンスン神の神官長に必死で囁いた。「儀式は、どのぐらいで終わりますか?人が居なくなるまでどのぐらい?」
神官長は「…2時間。儀式はそれまでに終わるでしょう」と答えた。
「わかりました。誰にも見られないように2時間後にきて下さい…!」

どぷん、と重い水音を立てて体が水に沈んだ。
名前は全神経を魔術に集中させる。浮力魔術、それが唯一できる魔術だ。綺麗な水は酸素濃度も高いという。水の中にある酸素のみを浮遊させて自分の周りに集めた。
そして大きく水を飲み込む。肺に水を入れることに大きな抵抗があった。吐き出しそうになっても飲み込む。それから吐き出す。また飲み込む。気が遠くなり、体が急速に冷えていく。
だが周りの音が遠ざかるなかで、彼女の心臓の音は聞こえ続けていた。生きている。もっと、もっと――…!

 しかし、その一方で体は冷えていった。体温が下がり、強烈な眠気に襲われる。春とはいえ水温は低かった。
いつだってそうだ。成功すると思った方法で、土壇場になって気付いていなかった問題が起きて窮地に陥る。このまま意識を失ってしまえば、魔術が途絶え、呼吸ができなくなって死ぬ。あと残り何分、何十分を耐えればいいだろう。体温は下がり、水中に酸素がどのぐらい残っているか分からない。意識か酸素かどちらかが無くなれば死ぬ。
 絶望感の中で涙がじわりと漏れて水に溶けた。いっそ諦めてしまえばと思った。でもそれ以上に、ここで呼吸をやめれば彼に会えなくなるという悲しさがつのり、呼吸を続けさせた。

 …どのぐらい経ったかは分からない。半濁する意識の中で、水面から差し込む光が陰った。命の最後は光も失われてしまうのだろうか。黒い影が迫ってくる。不意に暖かい何かが名前の体に触れた。その何かは金属の重りから体を解き放った。水面に浮上する。気持ちがいい。ふわふわと、上がっていく――…!
 水の膜を突き破り、肌がひさしぶりの空気を感じた。何かに押され、肺を貫くような痛みが走った。激しい咳がこぼれて、同時におびただしい水が口の中から出ていく。
「……さん、名前さん!」
目を開けると、涙をこぼす女神ニンスンの神官長がいた。厚い毛布で包んでくれた。
「名前さん、本当に!どうやって…!信じられません。私の声、姿は見えますか?本当に…信じられない…!」

彼女の腕の中でぐったりと力を失いながら、名前は小さく微笑んだ。
…良かった。彼の名誉を傷つけることなく、私は生き延びた。



神官長は部下に命じて名前を部屋に運ぶと、まずゆっくりと眠らせた。その間に神官長は作戦を練り、目覚めた彼女にささやいた。

「すぐ準備してほしいことがあります。泳ぎは得意ですか?あの泉、神殿の地下から太い管でつながっているんです――…」




夜。1日に2つの儀式を終え、部屋にいたギルガメッシュのもとに神官長が現れた。
「…王様、お願いがございます。昼間に儀式を行った泉のところに来てくれませんか。」
彼は疲れた表情で神官長を見た。彼に昼間の話をするのは酷に思われた。だが、神官長は言い切った。
「どうしても王様に来て頂かなければなりません。来ていただければ、分かります。」

 夜の帳が降りても、神殿の周りには大勢の人がいた。騒いでいた人々も、神殿の中から王が現れて注目する。そこは昼間、生贄の少女が捧げられた泉の前だった。
 神官長は王の後ろからついてきて、囁いた。「……王様。ここで知恵と水の神エアに祈りをささげてください。名前を戻すように、と。貴方の力なら奇跡が起こせるかもしれません。」
 ギルガメッシュは訝しげに彼女を見る。そんなこと出来るはずがないと。
「…何も起きなかったら、責任はとれるのですか?」
「ええ、もちろん。絶対にうまく行きますから。」

 王は泉の前に立った。昼間に祭祀長が立っていた場所だ。手を広げ、唱えた言葉は民衆のところまで響いた。
「知恵と水の神エアよ。神と人の子、ギルガメッシュが御身に願う。愛と豊穣の女神イシュタルがつかわした娘を返したまえ。」
 何も起きない。だが水面に小さく気泡が見えたのに彼は気付いた。

「…冥界の底より、女神イシュタルが蘇ったように。娘を蘇らせたまえ!」

 夜の神殿に声が響いた。松明の火が一斉に揺れる。
 人々は異変に気付いて泉を凝視した。すると、水面にゆらりと黒い影が浮かび、盛り上がった塊は、やがて一人の少女の姿になる。その少女は泉のふちから上がり、やがて松明の灯りでくっきりと照らされた。
「見ろ……生贄になった女の子にそっくりだぞ……!」
 驚きと困惑に民衆はさざめいた。王の後ろに立っていた神官長は進み出て、叫んだ。

「皆の者、よく聞きなさい。…この娘は、間違いなく昼間の儀式で捧げられた娘です。
あなた方も、はっきりと見たはずです。エア神が彼女を受け入れるのを。この少女は水に沈んで何時間も経っていました。」
そして大きく告げた。
「死んだはずの娘が、再び命を得て戻ってきた……まるで冥界から戻ってきた女神イシュタルのように!
 神の力で、ギルガメッシュ王のもとに!」

おお、と人々は大きくどよめいた。そして誰かが「女神だ!イシュタル神だ!」と叫ぶと、呼応するように、イシュタル、イシュタル!という歓声に変わった。その声は神殿中を包む。大勢の神官や女官が外に出てくる。もちろん祭祀長も。


王は女神と呼ばれた少女に駆け寄った。

彼はいつかのようにぎゅっと彼女を抱きしめた。「…名前」
「ギル…」名前は微笑んだ。「ただいま。」




残りあと一話です。最後までお付き合いください。

補足:主人公は浮力魔術で酸素だけを浮かせることによって、酸素を水から得て生き延びました。この実験は1960年代に実施され、酸素濃度の高い生理用食塩水の水中でマウスが18時間生存したという記録が残っています(二酸化炭素の排出ができず死亡)。現在は水ではないのですが、酸素を溶かした液体にマウスや犬を入れて生存させることに成功しています(2017年ニュースで動画も公開)。
しかし水中の酸素を増やして酸素を吸収する技術はまだ発明されていません。絶対に真似しないでくださいね…。



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