▽ <前章>
前章 1917年5月
今日もまた、憂鬱な1日であることに変わりはない。
不衛生な病棟はいたるところに汚れと汚臭があった。空気さえ汚れ、周りにあるもの全てが不快だ。
自分は本来ここにいるような人間ではない。ベルリンで医院を開いている父の後を継ぎ、院長室で踏ん反り返っているはずだった。なのに奴が姉と結婚したせいで、俺はこんな地獄の真っ只中にいる。
第一次世界大戦。
俺は軍医となって功績を挙げ、次期院長に指名された奴を追い出すつもりだったのにーー。
はじめは半年で終わると思われていた戦いはどんどん長引いた。
毎日、負傷した兵士のうめき声を聞きながら過ごす。何人救ったか、何人救えなかったか、どうでもいい。生きようが死のうが俺の知ったことじゃない。
今日も敵の爆撃で心神喪失した患者が送られて来た。顔は青白く、視点が定まらず目が右往左往している。よくある精神の病だ。こいつは怪我が酷くない分、放っておいても命はあるだろう。だがストレスで自殺行動をとりそうな、甘ったれたやつだ。
「君、痛いところはあるかね?」
「いいえ……僕は」
患者は涙ぐんでいたが、浮かべていた表情は恐怖ではなくーー恍惚(こうこつ)だった。
「爆弾が落ちて来たとき、戦友たちと夕食を摂っていました。すると突然、ある声が『立って向こうへ行け』と命じたんです。その声が、あまりに明瞭に同じことを繰り返したので、僕は上官の命令を聞くように機械的に従い、20ヤードほど移動しました。すると、いままでいた場所から衝撃と轟きが押し寄せ、流れ弾が炸裂して1人残らず死んでしまったんです。
でも僕は無傷でした」
そう早口で語った患者は言葉によどみがなく、涙で感極まっていた。
…こいつは気味が悪い。早く終わらせてしまおう。
「そ、そうなのか。運のいいことだ。他に何か変わったことはあるかね?」
「はい。そのときから僕のなかには“あいつ”がいるんです。
ずっと囁いて来ます、探していたのはお前だと!」
患者は絶叫し、立ち上がった。
「今、はっきりとしました!僕は選ばれたんだ!
民族の使命のために。ドイツ民族が世界を支配する、新しい世界を作るために!!」
患者は今までと全く違う生き生きした表情で私をきっと睨みつけた。
「先生は、僕の話をどう思われますか!?」
おかしい、と言いかけてむなしくなった。
俺は正論で応えようとした。でもこんな頭のおかしいやつ、適当にあしらえばいいじゃないか。
誰だって変になる戦場なのだ。「…いいんじゃないかね。君に生きる活力を与えてくれた神に、感謝しよう」
「ええーー我が神に!!」
それから15年後。俺はベルリンの街中に貼られた選挙ポスターを見て息を飲んだ。
…あの男だ。
あの男が狂気に満ちた目のまま、大統領選挙に出馬していた。
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