乗(下)
フラワー・アンド・カフェは街の小さなカフェだ。ガラス張りの温室のような内装で、たくさんの花で飾られ、テーブルごとにみずみずしい一輪挿しの花が生けられている。リボンが特徴的な店員の制服もかわいい。雰囲気のよい店内は客足が途切れなかった。
名前はこの店のケーキが大好きでアルバイトを希望した。ひっきりなしに注文が入って忙しいが、厨房の甘いにおいを吸い込むと幸せな気持ちに浸れる。やらせてもらえる作業は限られているが、目の前でケーキが完成されていく工程は楽しかった。
「名前ちゃん、次はこれを出してきて」
店長さんも親切で、いつかこんなお店を出してみたいと思っていた。
ホール担当の店員が忙しいときは名前が品物を客席に持っていく。名前の学校は、登下校の立ち寄りを禁じていた。街中のカフェに行くような生徒もあまりいない。誰からも気付かれずアルバイトが出来た。
だが、客席から聞こえてきた声に名前は足がすくんだ。高校の制服を着たままですこし明るい髪色──生活指導室ですれ違った女子たちに違いなかった。
「なんで違反がバレたのかなぁ」
「誰かが告げ口したんじゃない?」
「告げ口しそうな子いるもんね」
名前はうつむきがちに近づき、運んできたメニューの名前を言いながらテーブルに置いた。聞いたことがある声に女子たちの視線が突き刺さる。全ての商品を置くとすかさず呼び止められた。
「副会長じゃん」
「まさかここでバイトしてんの?」
女子たちに、はい、と店員らしく言葉をあらためて名前は返事した。この子たちは知らないだろうが、アルバイト許可はちゃんと貰っている。堂々としようと背筋をただした。
「へえ……うちの学校にアルバイトやってる子いたんだ。副会長って、お嬢様のイメージだったけど貧乏人だったんだね。ダッサぁ」
「いつもエラそうなのにね〜」
盆を持っている手が震えた。どこも、恥ずかしいことなんてない。だが口論をしてはカフェの雰囲気が悪くなる。女子たちの声は大きくて周りから注目されていた。
黙っている名前に、彼女たちは交渉を持ちかけた。
「ねえねえ、内緒にしてあげるから。私たちが立ち寄ってたことも秘密にしてね。副会長が貧乏ってウワサを流されたら嫌でしょ?」
「っ……」
名前は何も恥ずかしいことをしていない。アルバイトしていることが、校則違反と同じように言われるのは屈辱だった。ぐっと呑み込んで名前は立ち去る。くすくす、と笑い声が背中に浴びせたれた。
だが今日一日、名前にずっと囁いていた声が、はっきりと大きく店内に響き渡った。
「名前はちっとも恥ずかしいことをしていないよ」
おそるおそる振り返ると、カフェ店員の制服を着たアストルフォが立っていた。人形のような可愛い顔でしんらつな言葉を放つ。
「おねーさんたちがしてるのは、校則違反のもみ消しと、働いてる店員さんへの侮辱でしょ? そっちの方がダサいと思うけど」
違うの?とアストルフォは笑顔を浮かべて尋ねた。その正当さは凛とした態度とはっきりした物言いで高められ、反論の余地をゆるさない厳しさがあった。
じゃあね、とアストルフォは踵を返すと、名前の手をにぎって厨房までずんずんと歩いた。
お客さんの居ないところまで来て、ねぇアストルフォ、とよぶ名前の声に反応した。
「……ごめん。マスターが侮辱されてるのを黙っていられなくて」
更衣室に置いてあった制服を勝手に借りちゃった、と申し訳なさそうに彼は呟いた。名前はきゅっと唇をかみしめたが、自分を助けようとしてくれた彼に怒ったからではなかった。
「へいきだったのに」
握っている手に力がこもった。
「…君が嫌だったなら謝る。でもまた同じことがあったら、ボクは黙っていられないよ。学校でも誰かに辱めたらこらしめる。だってボクは、君のサーヴァントなんだから」
アストルフォの手はすこし硬く骨張っていた。男性の手だ。彼の性別をあらためて認識し、名前の顔は赤くなる。
──物心がついてから男性に手を握られたのは初めてだ。こんなにしっかり。
そっと手ははなされたが、胸の動悸はしばらく収まらなかった。
「……あの子たち、私のよくないウワサを流すかもしれない」
アルバイトからの帰り道、名前は心配そうに呟いた。日は暮れ落ち、あたりは薄闇にぼんやり包まれている。
普段ならこんなことを言わなかった。だが帰り道でずっとアストルフォは黙っていて、耐えられず口が滑ったのだ。
『ただのウワサなら堂々としていればいいじゃないか』
「私はアストルフォみたいに堂々とできない」
そう言うと、また彼は黙ってしまう。名前は自分勝手な発言に恥ずかしくなった。…さっき助けてもらったのに、八つ当たりしているみたいだ。
自分をみじめに思った。普段から優等生として振る舞うのに精一杯で、何かあったらすぐ揺らいでしまう薄い仮面。
──私はお母さまみたいになれない。
お母さまを自由にしたいから自立するんじゃなくて、自分に似合わない振る舞いをやめたいだけかもしれない。そもそも優等生として振る舞おうと決めたのは自分だ。
心の中がごちゃごちゃで、自分の思い描いたものが分からなくなった。
するとアストルフォが唐突にこんな質問をした。
『マスターは、お母さんの催眠が解けたらどうするんだい?』
「……本当に、魔術を継いで欲しいのか聞く」
『じゃあお母さんが望んでいなかったら、聖杯戦争をリタイアするの? 自分の望みがなんでも一つ叶うかもしれないのに』
「………」
『ボクが勝てるかどうかは置いて、まさか自分の望みがないわけじゃないだろう?』
ちゃんとあるわ、と名前は言ったが望み≠聞かれてどれを一番に叶えたいか分からなかった。すぐ浮かんでくるものはなかった。
『だって、魔術を継ぐかどうかは君の問題だろ? お母さんじゃない。望み≠ヘ進みたい方向の先にあるものだ』
もし君がお母さんのことしか考えていないなら、それ以上は進めないんだ。
『どんな生き方をしても辛いことはあるけれど、望みがあればその先を見ていられる。せめてその望みは、自分のものであって欲しいんだ』
立ち止まった名前の反応をアストルフォは待っている。君はもっと自分の本音に耳を澄ますべきかもね、と真剣な顔で言っている気がした。
『ボク、決めたよ。短い間だけど、君の望みが何か分かるように協力する。どんなことが好きで、どんなことが嫌いか、はっきり分かるようにするんだ。
さっそく街に行って遊ぼうよ! ええと…ショッピングでしょ、スイーツでしょ、ゲームとかね…』
単純にアストルフォが遊びたいだけじゃないだろうか。が、悪い気はしなかった。好きにすれば、という言葉が震えながら漏れた。
『じゃあ予定を考えるね!』
アストルフォがうきうきとした声で応える。そのとき名前はうっすらと自分の目に涙が滲むのを感じた。
──ああ、大丈夫。よくないウワサを流されても、必ず一人は『ちがうよ』って隣で言ってくれるから。
目のあたりを軽くぬぐい、家路を進んだ。
それで、どうなったかというと。
「イギリスから来た、父方の従兄妹です。日本の学校に興味があるということで、短期間だけ本校の生徒としてお世話になります」
「ぼ……わ、私はアストルフォです。よろしくね!」
名前をしっかりと守りたいと言うので、いっそ見学にきた従兄妹という設定で隣にいてもらうことにした。
ぎこちない挨拶だが、アストルフォは念願の制服を着て嬉しそうだ。鏡の前を通るたび、にんまり笑って姿を確認している。
もう一つ、名前が思い切って行ったことがある。
「どうぞお入りください」
名前を呼ばれ、生徒会室の重厚な木のとびらを開くと、副会長の名前が優雅に座っている──生徒会の急な発案で1年生が順に呼ばれ、高校生活で困り事はないか聞くようになった。
副会長の凛とした眼差しに、よい香りまで漂ってくるようだ。一年生の少女は緊張しながらも頬をそめた。
だが隣には見慣れないピンク髪の留学生がいる。とまどう一年生と目が合うと、アストルフォはにっこり笑ってあかるく宣言した。
「──やあ。いきなりで申し訳ないけれど協力してもらうよ!」
ぐったりした女生徒をソファにすわらせ、アストルフォは体に影響がない程度で精気を吸いとった。
「思い切った作戦だね。どういう気持ちの変化?」
「……自分の持っているものを利用していいかなと思って」
魔力が足りないのなら、生徒会副会長という立場を利用して、少しずつ生徒から集めればいい。目覚めたあと生徒たちは口を揃えて『何があったか緊張して思い出せない』と言うだろう。
椅子に座る名前は窓の外を眺めていた。背筋のしゃんと伸びた姿は以前と変わらないが、肩の力を抜いて、ゆったりと外を眺める余裕があった。
窓から青空が見える。以前は外を見ても、まるでそんな色柄のガラスだというように、学校の中だけを考えていた。外はずっと先まで広がっているのに。
もう学校や家を箱庭のように感じなくなっていた。自分の振る舞いを強制されているとも思っていない。お母さまを自由にしたら、私も自由にならなきゃ、と思っていた。
<おわり>
ライダー編はこれで終わりです。
もしよければ→でアストルフォ考察もどうぞ。