弓(下)



ロビンのことをアーチャーと書いているときは名前視点、そのままの時はロビン視点です。

(3)

「頭がおかしい」
「アンタにだけは言われたくないけど」
「いや、こんな状況で仕事に行くっておかしいだろ」

 かかとの部分が少しくたびれたパンプスを履こうとする、グレーのスーツに身を包んだ名前にアーチャーは意見を強く唱えた。
 名前はため息をつき、ややいらだった声で反論した。
「あのねえ、社会人はそんな簡単に休めないの。聖杯戦争は数週間で終わるかもしれないけど、私の人生はこのあとも続いていくわけ。もしその間ずっと休んじゃったら職場に居づらくなっちゃう。せっかく頑張って就職した会社なのに」
「そのわりに行くのは楽しそうじゃないな」
「当たり前でしょ……仕事なんだから…」

 名前は明るい気持ちでドアをくぐったのなんて入社した日だけだ、と思いながらパンプスを履いた。確かに彼の言う通り、望んで就職した会社だが、仕事が楽しいなんて大半の社会人が思っていない。それで、普通だ。
 思い出したようにビジネスバッグを開き、財布から数枚のお札を取りだしてアーチャーへ乱雑に押し付けた。
「これ、食費にして。冷蔵庫にはほとんど何にも入ってないから。お金の使い方はわかるでしょ」
「へいへい」
「近くにコンビニとかあるから」
 ドアから出ようとした名前だったが、背後に動く気配を感じて振り返る。
「……なんでアーチャーまで靴を履いてるの」
「だって出かけるんだろ。流石に仕事場までは行かないが、アンタが建物の中に入るところまでは見守らせてもらう」
「っ……」
 嫌だ、と首を横にふったのに「いまは殺し合いの最中なんだぜ」と意見を聞き入れずアーチャーもドアから出る。会社に行きたくなくて出勤時間ギリギリに家を出るせいで、説得する時間が惜しく、無視して飛び出すと彼は本当についてきた。

「アンタがどう思おうが、マスターの身を守るのはサーヴァントの役目だから」
「好きにしたら!」
 早足で歩いたのに彼は易々とついてきて、少し息を荒げながら名前はずんずん進んだ。後ろの彼から見えていないだろうが、頬が赤らむほど恥ずかしかった。

 会社が近づくにつれ、通行人に見覚えのある人が増えてくる。……見られたくない、目立たくない。歩く速度を落としつつ、後ろの青年とはいっさい知り合いではないように振る舞った。
 会社の前について、「もう着いたんだからね」と名前はいっしゅんだけ振り返ってロビンを睨んだ。
「ちょっと待てよ、名前」
 ずっと黙っていたアーチャーが声を発した。怪訝そうに、でもちゃんと立ち止まった名前に彼は言う。
「帰りは何時になる」
 聞かれたら誤解されかねない会話だ。冷や汗が出た。だがアーチャーは、答えないとずっと待ってるぞ、と言うそぶりで名前を見ている。つっけんどんに答えた。
「…6時ぐらい」
「わかった。迎えにくるからな」
「っ……」
 今度こそ背を向けて会社の建物に入ろうとする。背中に「頑張れよ」と青年が声をかけてくれたのを聞きながら。


「ねえ、名前さん!今日イケメンに話しかけられてなかった?」
「……はい?」
「朝だよ、会社の前で外人っぽいイケメンに話しかけられてたじゃん」
「……。ただの道案内です」
 名前は表情を崩さず、冷静な声で返した。知り合いだと思われたら面倒なことになるのは間違いない。ふーん、と同僚は去っていった。
 ──職場の同僚が嫌いなわけじゃない。挨拶もお礼もちゃんと言う。話に合わせて愛想笑いだってする。ただ、仕事に関係のない雑談とかそういうのが苦手なだけで。
 トイレに行くと女性社員の話し声が聞こえてきた。
「〇〇さんって愛想悪いよね」
「うん、私とあなたたちとは違うんですよって感じで」
 聞こえてきた名前が自分ではなかったことに、ホッと胸を撫で下ろす。でもまるで自分に言われているみたいで、背筋にぞくりと嫌な感じがわきあがる。
 ──こういうのがすごく苦手だ。

 定時を過ぎて無事に仕事が終わり、ほっとした気持ちで会社の建物から出る。あとは家に帰るだけだ。また明日の朝まで休める。
「おっと。待ったぜ」
 会社から出てくるなり声をかけられて、びくりと肩が震える。
 そうだった……。
「アーチャー」
「6時って言ってただろう。遅かったな」
「……うん」
 なんだか彼の声をやさしく感じて、名前は朝のように反論する気にはならなかった。アーチャーは名前の隣にたつ。2人分の影が伸びた。夕暮れの中で隣にいる彼から、温かいものが伝わってくるようで。
 夕闇に包まれていれば、安心してアーチャーの存在を受け入れられる自分がいた。朝は後ろにいるのも嫌だったのに。
「……帰り、スーパーに寄るから。荷物持ってよ」
「ほいよ」

 軽快なアーチャーの口調を聞きながら、足取りはいつもより少し軽かった。何を作ろう、なんて料理するものを久しぶりに考えながら。

 ──いつもはコンビニかスーパーで、出来合いを食べて寝るだけだったのに。
 でも、誰かといるとこんなに違うのだ。



(4)


 ……その日の名前は口数が少なかった。会社からの帰り道、どんな話題をふっても笑うでも怒るでもなく「うん」「そう」と空返事だった。
 召喚されてから数日後。ロビンはすこしずつでも、名前が心を開いてきてくれているのを感じていた。不安になると表情が消えること。口調が強くなること。彼女の強がりは、不安な心の裏返しだと気付きはじめていた。
 黙って食事を食べたあと名前は寝室へと消える。
 ロビンは何も言わなかったが、やがて部屋からくぐもった声が聞こえてきた。

「……名前?」
 コンコンと部屋のドアをノックする。返事はない。でもきっと聞こえていて、弱さを隠すために存在そのものを薄めているのだ。
「会社でなんかあったのか」
「っ……」
 相変わらず返事はなかったが「入るぞ」とロビンはドアを開けた。真っ暗な部屋に光が差し込み、なかに踏み入れたが抗議の声はない。すんなりと入れてしまったことに拍子抜けしながらも、ベッドで小さく膝を抱えてうずくまっている名前を見つけ、ロビンは静かに隣へ座った。
「………」
「なあ、大丈夫じゃないだろ。口に出して言えよ」
「…………」
「なんでオレにまで我慢するんだ。初めて会ったときはツンケンして色々言ってきたじゃないか」
 ぎしり、と彼の重みでベッドが軋んだ。体がすこし傾いて名前の肩がロビンの腕に当たる。顔をあげないままだったが、名前はようやく口を開いた。
「……ちがう」
「何が」
「ちがう…の。あの時はツンケンしてたんじゃない。不安だったけど気付かれないように誤魔化してただけ」
 名前の告白に、ロビンは短いため息をつくと大きな男性の手で、彼女の背中をぽんぽんと叩いた。
「んなもん分かるさ。あの瞬間はわからなかったが数日過ごすうちに分かるようになった」
「……じゃあ、おかしかったでしょ。私が必死に誤魔化してて……」
 と、悔しそうにロビンを見上げる。
 目は真っ赤になっていた。頬も。電気がついていなくても、英霊であるロビンにははっきりと見えた。
「べつに、面白くなんかないさ。アンタ頑張ってたからな」
「………」
 名前は何も言わなかったが唇を噛み締めた。強くなりたいから強そうに振る舞って、でもそうはなれない弱い自分に同情されたから。
 そうして恨めしそうな声で言った。

「10代を終えた瞬間に、不慮の事故で死ねばよかったのに。なんなら今も職場で愛想笑いができなくなったら、これ以上みっともなくなる前に殺してほしい」
「…なんだよそれ。それがアンタの望みか?オレだってロクな生き方をしなかったが、そんな悲観的なことは願わなかったぞ」

 名前が初めて口にした願いだった。サーヴァントであるロビンにそう願って、聖杯にもそんな願いを託すつもりなのだろうか。
 違うだろ、とロビンからするりと善人めいた言葉が出た。
「アンタの望みはぜったいに違う。生きてたら辛いかもしれんが、必ず良かったと思えることがあるさ」
 柄にもないことを言っちまった、とロビンは思った。しかし名前の様子があまりにも不安げで、消えてしまいそうに思ったから口に出たのだ。
 ──オレらしくない言葉だ。だが、アンタにはなぜか言いたくなっちまう。
 ロビンは自分のなかの意味不明な感情の昂りにとまどいつつ、彼女を気遣う言葉が次々とあふれ出た。
「まあー……あれだな。すぐ死ぬ心配のない世の中でも、ふつうに生きてるだけで辛いことはたくさんあるよな。いつの時代も。
 しょせん人間の作った社会だ。当たり前だよな」
 なんでこんな善人めいた、安っぽい言葉が溢れてくるんだろうと思った。いつもなら『澄ました顔でよく言いやがる』と鼻で笑うような言葉を。

「………」
 名前は同情しないでよ、と怒るだろうか。これ以上言うまいと手で口を覆って、横目に彼女をみる。
 再び目があった。だが名前は大きく目を見開いてロビンを見ていた。涙が次々とあふれているのに。
「アーチャー…」
 潤んだ瞳に目を奪われる。やめてくれ、もうこれ以上調子を狂わせられちゃ駄目だ。オレは英霊となってまで馬鹿なことをしたくないんだ。
「ありがとう」
「………」
「言って、くれて。…ちょっと元気でた」

 不意に目の前の女性をだきしめたい衝動がロビンを襲った。
 ──抱きしめたいのはなぜだろう。生者と近づきたいとは思っていないのに。気楽に付き合うだけでいいのに。
 抱きしめない代わりに、せめて手を伸ばして肩をひき寄せる。こつんと肩が触れあい、熱が伝わってくる。窓から月の光が差し込んでいた。
 ──心臓の音が聞こえてくる。
 英霊としてマスターのために働くとしても、無駄なことはしたくないし、サーヴァントになってまで自分を犠牲にしたくない。生前の自分は、自ら望んだのではなく流れで人々のために戦っただけ。根っからの善人ではないのだから。

( 痛いことだけは、嫌だなー… )
 そうは思いつつも、たぶん自分を犠牲にしても見届けたいと思ってしまうだろう。
 ──彼女がオレみたいなクズを必要としなくなって、誰かとともに心から笑っている未来を。
  “他人の幸せ”を真剣に願ってしまった自分を鼻で笑い、名前の肩を優しく撫でた。



(5)


 休日にショッピングモールへ行こう、と言い出したのは名前だ。シャツだけじゃ不便だから、とあいかわらずつんとした態度でロビンを気遣う。あの夜から少しだけ素直に気持ちを口にするようになった。
 よく行くお店なんだ、と街を歩く名前は、大勢の人であふれるカラフルな街並みをぼんやりと眺めて歩いている。標識や目印をいちいち確認しなくても行けるのだろう。
 でもその目ははっきり人を映したくないみたいだ。ロビンはその目にしっかりと自分を映させたいと思った。

「なあ、せっかくだからオレもアンタに似合いそうな服を選ぶよ」
「え……」
「好きな色は?」
 やや反応が遅れて、名前は周りに視線をただよわせた後、黒とかベージュかな……と言う。でもロビンは彼女の目が違う色を追っていたことに気づいていた。
「ほんとに?こういう色の方が好きなんじゃないか」
 そう言って、手に取ったのは明るい赤色。名前は驚いた顔をしながらも「でも、そういう色は目立つしキャラに合わないから」ともごもごと否定する。
「なに言ってんだ。好きな色ぐらい素直に言えばいいだろ」
 ロビンは数種類のトーンやデザインの違う赤色の服をかごに放り込んだ。「自分に似合うように着ればいいんだ」

 かごを手渡されて、ロビンに促されるまま名前は試着室に押し込まれた。個室に入る名前はいつもの虚勢を張った表情とはちがう。こっそり悪さをするみたいな興奮と罪悪感が混じったおびえの表情で。
「着たら脱ぐ前に見せてくれよ。似合ってるかどうか正直にいうから」
「うん……」

 そうして、何回目かのカーテンを開ける音が聞こえたとき。ロビンはヒュウと口笛を吹いて評価を伝えた。
「いいんじゃないか」
「うん」
「自分でも『悪くない』って思ってるだろ。顔に書いてあるぜ」
「……ばか」
 名前の頬があかるい服の色にそまる。こみあげてくるくすぐったい気持ちが唇の端に出ていた。


 数種類の衣類が詰まった袋を手にして店から出る。太陽はすこし傾いていた。店に入る前よりほぐれた表情で女性は街を見ている。
 ──この街は今、どんな風に彼女の目に映っているのだろう。
 ロビンは名前を見つめた。この女性はけっして弱くない。自分に自信がなくても、ちゃんとそこに踏みとどまって何とかしたいと思っている。無様でも抗う強さを持っている。だから胸を張っていればいいんだ。

 太陽が傾いて街を染め上げていた。名前は夕日に手をかざしてまぶしそうに目を細める。赤や金、白の光に囲まれた彼女は、まるで周りにプラズマが散っているようだった。

 ──自分にはない生(せい)の色。
 この光景をもっと見ていたくて、ロビンは思わず名前の手を掴んだ。彼女は驚いた顔をしたが、その手をふりほどかなかった。

 ──もっと見たい。触れたい。彼女の色を。
 生きる強さにあふれたこの色を。




<おわり>



アーチャー編でした。
ちょっぴり考えてみた『ロビン=フッド考察』もあります。→でどうぞ。


うたかた聖杯戦争




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