この奇妙な夜を終わらせたければ



 あなたは黒い箱の前に立っている。
 縦長で長方形。取手はなくツルリとした表面で、中に何が入っているか分からない。
 まわりも似たような状況だ。床も壁も真っ黒、墨で塗りつぶしたような空間に視界を埋め尽くされている。部屋の広さすら分からず、真っ黒だから床に足がついている感覚も奇妙だった。
 ごうごう音がしていた。遠くで機械が動いているのか、あるいは雷鳴、無数の人がざわついているのか。その音から一本のささやき声が聞き取れた。
 ──この奇妙な……終わらせ……なさい。
 聞き取れない。部屋には黒い箱があるだけ。手を伸ばしたくても体は動かない。あなたが立ち尽くしていると、部屋のすみがうっすらと白んできて夢から醒めた。



「おはよう。また授業中寝てた?」
 目覚めると、大学の講義室で机に突っ伏していた。友人があなたを覗きこんでいる。
「夜更かし?」
「うーん……」
 見慣れた景色なのに、なんだか現実味がなかった。溶けたバターのような頭に一瞬だけ明るい髪色の少女が浮かぶ。名前は思い出せなかった。
 友人が数名あつまってきて、新しくできたお店や週末の予定について話し始める。黙っているあなたにも話しかけた。
「どうしたの。なんか浮かない顔じゃん」
「いや……なんかすっきりしないだけ。私っていつもこうだった?」
「あなたってたまに変なこと言うよね。なんだっけ、えっーとあのスマホゲーム…」
 これでしょ、と別の子がスマホの画面に映っていたアイコンを指さした。王冠をかぶった少女が描かれている。
 ──Fate/GO。そうだ、ゲームの名前だ。
 キャラクターがくっきりと頭に浮かんだ。さっきの明るい髪色をした少女も。
「おもしろいって勧めてくれたでしょ」
「うん……」
 タップしてアプリを開こうとしたあなたを見て、友人たちがくすくすと笑う。
「だめだよ、ゲームばっかりしてたら。現実を見なきゃ」



 その夜、またあの夢の続きをみた。
 黒い部屋に視界を覆われて、あなたはため息をついた。しかも今夜は嫌な音で満ちている。金属のキーンという響き、爪で平面を引っ掻く音、鼓膜を裂く高い声……耳が痛くて吐き気がした。はやく夢を終わらせたくて、あなたは周囲を見渡した。
 目の前には黒い箱がある。昨日よりいくぶんか大きい。
 するどいあなたは、数歩箱に近づいたのだと気付いた。真っ黒で距離感が分からなかっただけ。不快な音もここから出ていたのだ。
 戸惑うあなたに蚊のような声がささやく……。
「もしもし、聞こえていますね? その箱の蓋を開けなさい。この奇妙な夜を終わらせたければ」
 あなたはうっすらと背中に冷汗をかいた。黒い箱は棺桶みたいだ。中に何が入っているのだろう。たぶん入っているのは恐ろしい怪物、手招きする声。冷たさが心の中を走り抜ける。
 後ろに逃げたかったが、あなたの体は動かない。ド、ドッド、ド……心臓の音を聞きながらひたすら待つしかないのだ。部屋があなたを手放してくれるまで。
 ぎゅっと目をつぶって耳を塞ぎ、口を開いて叫んだ。ああ、私を返して、手放して、と──…。



「すごい顔色が悪いよ」
 電車で出会った友人にあなたは言われた。ゴトン、ゴトンと揺れる車内で抵抗することなく頭も揺れる。そうかな、と言いつつもなんだか吐き気が込み上げてきた。
 こつんと銀色の棒に額を当て、こみ上げてくる酔いを冷まそうとする。
「ねえ、私ってどうやって今まで過ごしてきたのかな」
「どうしたの。大学つまんないとか」
「そもそも、どうやって大学生になったのかな。しばらく遠くに行ってたことはない?」
「入学式から仲良くなって、サークルとか授業とか一緒に受けてきたじゃん。ずっとここにいたよ」
「ずっと=c…」
 ずっと、という言葉のリズムは電車がくり返す音に似ていた。ゴトン、ずっと、ゴトン、ズット……。頭のなかに記憶はある。だが心はぽっかりと抜け落ちている気がした。記憶をふりかえっても何も感じない。まるで綺麗な映画を見ているみたいだ。



 黒い箱はスマートフォンの画面みたいだと思ったのはその夜だった。
 あなたが起動するまで真っ黒なまま。ボタンも何も見えない。もしかすると黒い箱を開ければこの状況は変わるのかもしれない。
 あなたは箱を開けようと手を伸ばした。触れて開けようとした。だが手が震え出す。身体は何かを覚えているのかもしれない。
 自分の身に余ることを背負わされ、敵と戦うような。苦しい記憶。本能的なおそれが身体中を駆け抜けた。
「ああ……」
 今日は体が動く。──初めは黒い箱に手を伸ばそうとした。次の日は逃げようとした。──それで、今は。
 あなたは黒い箱に背を向けた。そのまま行くあてもないのに真っ直ぐ逆方向へ走る。
 箱の中で自分を待っているものはたぶん恐怖だ。向き合わずに逃げ出してしまったほうがいい。誰だって怖いことは苦手なのだから。
 この夢が覚めれば平和な日常に戻れる。平和な日常に慣れてしまえば、恐怖を選ばなくなってしまうのは当たり前だ。



「ねえ、思い出をふりかえっても何も感じないことってある?」
 あなたは友人に相談することにした。友人たちは心配した顔をしつつ、「疲れてるんじゃない」と受け流した。
「いろんなことがあるじゃん。成績とか、人間関係とか、バイトとか。来年には就活も考えなきゃだし、私たちには手一杯だよ。自分のことでね」
 それもそうだと、あなたの心は安心感と別の不安で満ちた。
「うん、大きなことは考えられないよね……」
「たとえば世界を救うみたいにね」
 なあにそれ、と大きく口を開いて友人たちが笑った。がらんと開いた口が並ぶ。あなたも何だかおかしくなって笑った。心の中にシャッターが降りて、違和感を止めてくれたみたいだ。

 疑うことはやめた。
 あなたはもうあの夢を見ない。



<おわり>


私が考える「特異点修復失敗のパターン」。主人公は苦境だと立ち上がってしまうし、サーヴァントも助けに来てしまうので、そうでない特異点の方がしんどいと思う。



/

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -