──私の上司編(1)──
最近、職場で彼氏ができた。私とは別の部署だ。仕事で嫌なことがあっても彼氏に会うとハッピーな気持ちになれる。
今日も昼休みに、屋上で一緒にお弁当を食べていた。互いの肩をくっつけあって、ときどき中身を交換し合いながら「今日の夜さあ…」と、彼氏が期待した顔で言おうとした時だ。
「ミス・立香」
甘い空気を断ち切るような上司の険しい声が響いた。
「昼休みは終わりましたよ。午後の会議で使う資料の訂正版をまだ貰っていないのですが」
「は、はい、ただいま…!」
となりにいた彼氏にも、上司は厳しい視線を向けた。「……営業部のキミ。営業なら時間はきちんと見たまえ」
彼氏は体格のいい上司に睨まれてすごすごと退散した。
──この鬼上司め。
立香は心の中で悪態をついた。普通、あんな雰囲気になっていたら声をかけるのをためらうだろう。資料の訂正はほんのわずかだった。さっきは会議直前で良いと言っていたくせに。
「ご苦労。ミス・立香」
英語の授業みたいに、名字にミスをつけて呼ぶ上司──ガウェインの部下になってから、立香は大いにご立腹だった。海外で経営学を学んだという上司は仕事に厳格さをもとめる。嫌味を言うときも硬い口調でねちねちと迫ってきた。
この上司は本当に人使いが荒い。それも、立香にだけ。立香の仕事を細かくチェックし、すぐに呼び出してささいな訂正を言いつける。
パワハラかも?と思って同期の女の子に相談したら、
「きっと面倒見がいいからだよ」
と、ポジティブな返答がきた。「立香ちゃんのこと気に入ってるからだって」
「それはないと思う…」
部署内でのガウェインの評判はとても良かった。
優しくて面倒見のよい上司、部下になりたい人NO.1、恋人になりたい上司──など、多方面かつ男女問わず人気があった。
……確かにルックスは良い。モデル顔負けの高身長でイケメン、女遊びをしているという噂もまったくない。しかも独身。
女子社員たちの評価が甘くなるのは無理なかった。いや、顔が良いから評価が甘いだけだ。
──でも直属の部下になったら違うから!
イライラしながら立香は会議資料をホッチキスで止めていた。最近、まわされる仕事が多い気がする。新規事業がくると、じゃあその件はミス・立香で、とガウェインは二の句を継ぐ間もなく立香に回してくるのだ。おかげで帰りが遅くなり、彼氏と一緒に帰ることすら難しい。
そんな立香の後ろ姿をガウェインはじっと見ていた。
◇◇◇◇
土曜日。ようやく週末がやってきて、わくわくしながら服を選んでいた。今日は彼氏とデートだ。付き合って初めてのデートということもあり、服装選びに気合が入る。
となると下着も……と考えて、いちおう上下揃いのものを選び、肌のケアを丁寧にやった。はじめてのデートなのに準備万端すぎるだろうか。でも1回目はキスまでとか、ウブにこだわる年齢でもないのだ。二十代半ばの久しぶりの彼氏はちんたらできない。
小さめのバックを肩にかけ、ハイヒールをはいて家を出た時だった。
──着信音だ。
彼氏からかな、と思って、相手を確認せずに出る。いつもよりテンション高めで「はあい」と言うと、返ってきたのは鬼上司の声だった。
『ミス・立香』
「っ……は、はい! ガウェインさん、どうかしましたか」
『実は、君の出したデータに大きなミスがあって……このままでは会社が大きな損害をこうむります。休みなのに申し訳ないですが、今から会社に来られますか』
「は、はい…!」
上司の深刻な声色におじけづいて、「はい」と返事してしまった。一呼吸おいてため息をついても、言ってしまったからには後の祭りだ。
しかたなく彼氏に断りの電話をする。仕事でごめんね、というと彼は「わかった」と言ってくれたがあまり良い感触ではなかった。今週は毎日帰りに誘ってくれたのに、仕事を理由に断っていたからだ。
──これで別れたら、どう責任を取ってくれるのだろう。
家に戻って着替えるのも面倒だ。立香はやけになってハイヒールのまま会社に向かった。
「休みなのに申し訳ないですね」
職場に着くとガウェインがすずしい顔で待っていた。
「いいえ」
と、立香は殺意をかくして返事した。
──何が申し訳ない、だ、鬼上司め。
自分のミスとはいえ、大事なデートが台無しになってしまったのだ。今ごろ、彼氏と甘い一時を過ごしていたかもしれないのに。この上司と一緒に居るぶんだけ、教会のチャペルが遠のく気がした。
休日の職場は閑散として同じフロアにいるのはガウェインだけだった。幸いデータの大きな訂正をしてくれたらしく、訂正が合っているか確認する作業ぐらいしかなかった。
こんなの、週明けでもよかったんじゃないだろうか。それに、
──ここって本当に間違えてたのかな。
と思うほど完璧な直しだった。
「ミス・立香」
データの確認を終えて帰ろうとした立香に、ガウェインが話しかけた。「今日はいつもと雰囲気が違いますね。どこかへ出かける用事だったのですか?」
「大丈夫です。もう断ったので」
「それは申し訳なかったです。お詫びにディナーでも奢りましょう」
「えっ…。いいんですか?」
「ええ。私の行きつけの店でも構わないなら」
思ってもみなかった提案に、立香の気分はちょっと明るくなる。上司ならそこそこ良いお店に連れて行ってくれそう。得した気分になり、落ち込んでいた気持ちが上向きになった。
少しだけ待っていて下さい、というガウェインを待ち、二人で会社を出た。
◇◇◇◇
夕暮れの街は人通りが多かった。だが人混みの中でもガウェインは身長が高くて雰囲気に華があり、目立っていた。
……こうやってみると本当にイケメンだな。
立香は隣を歩くガウェインを、ちらりと盗み見した。街ゆく女性たちの視線が集まっているのを感じる。さりげなく車道側を歩いてくれるのも好印象だった。
──こういう人は、きっと相手に困らないんだろうな。
立香は胸がちくちくと傷んだ。彼なら週末に仕事をしても恋人と別れたりしないだろう。一方の自分は、ひさしぶりに出来た彼氏とのデートを断っただけで振られないかとハラハラしている。だから彼氏を引き止めるために、身体ぐらい任せても、と思ったのだ。
「…あ……」
ふと、人混みの中に見覚えのある男性を見つける。彼氏だった。
彼氏も友人と食事をしに来たのだろうか。声をかけようか迷っていると、腕に知らない女性が絡み付いているのに気づいた。
「……ミス・立香?」
急に立ち止まった立香に、ガウェインが声をかける。固まっている視線をたどって納得がいったようだった。ガウェインはためらいながらも立香に告げた。
「言いたくなかったんですが……彼は別の部署にも、噂になっている女性がいるみたいです。電話してみては」
「え、でも…」
「はっきりさせた方がいいですよ」
上司にうながされるまま、立香はしぶしぶと電話をかけた。耳にスマホを当て、目は彼氏のほうを向いて反応を観察する。
彼氏は鳴ったスマホをとり、着信相手を見て顔をしかめた。遠目でも分かるほど。そのまま女性と腕を組み、歩いて行ってしまった。
「………」
「ミス・立香…」
「ガウェインさん……。行くつもりだったお店……居酒屋に変更してもいいですか?」
唇を噛み締めながら目を潤ませた立香に、さすがの鬼上司も譲歩せざるを得ないようだった。
「あ〜もう! あのクソ男!」
立香は席に着くのが早いかビールを注文し、一気にあおった。四杯目を飲み干すころにはすっかり酔いが回っていた。
「クソ男と言っても、まだ付き合っているでしょう」
「あんなの……もう別れます」
ガウェインはくだを巻く部下にちゃんと付き合ってくれていた。二杯目のビールをゆっくり飲み、彼氏への愚痴をループする立香にあいづちを打つ。職場での人気もあながち間違いではなかったかもしれない。
「追い討ちをかけるようですが、彼は取引先でも女性関係でトラブルがあったようです。それも二股だそうで」
「さ、最悪じゃないですか……教えてくれてもよかったのに」
せっかく久しぶりにできた彼氏だったのに、と立香は愚痴を吐いた。「それもこれも……ガウェインさんのせいですよう」
酔っ払い、目の前で心配してくれているにも関わらず文句が出てしまった。
「ガウェインさんが上司になってから、ぜんぜんデートに行けてないんです。誰かと良い関係になったタイミングで仕事が増えたり、デートがある週末にミスで呼び出されたり。
…本当に、偶然かなって思うぐらい……」
感情が昂ぶり、頭がまとまりにくくなってきた。いつもなら飲みすぎかな、と思ってやめるだろう。でも今夜は一人になりたくなくて引き伸ばすために飲む。
それに、立香をみる上司の目は冷ややかだった。なんだか悔しくなってきてしまう。
「ガウェインさんは、お付き合いとかどうなんですか?」
「あいにくと間に合っているので」
「そうですよね……ガウェインさん、ハイスペックですもん」
もう一杯オーダーしようとした立香を彼は止めた。
「そろそろやめないと、帰れなくなりますよ」
「まだ帰りたくないんです」
「ミス・立香、もう出ましょう」
お勘定を、とガウェインはお店の人を呼んだ。ぼんやりとした意識で彼が会計を済ませるのを見ていた。
自力でお店を出たが、普段履き慣れないハイヒールのせいで足がもつれる。よろめいた立香を、ガウェインが受け止めた。
「だめ……一人に、しないで……」
彼の腕は温かくて、なんだか妙に安心してしまった。とんでもないことを口走ったな、と思いながら、立香は残っていた意識を手放した。
◇◇◇◇
「──困ったな」
すうすうと寝息を立てる立香を腕におさめながら、ガウェインはまったく困っていない表情で呟いた。
……自分で練った策がこうも上手くいくとは。
口元が笑う。
もともと立香の彼氏には良くない噂があり、付き合う前に阻止したかったが出来なかった。そこで、いつものように仕事を増やしてデートを妨害した。もちろん立香がこれまでの彼氏と上手くいかなかったのは、すべてこの男のせいである。
本当はずっと前から立香が気になっていた。だが彼女が部下として配属され、もし自分から手を出せばパワハラになるかもしれないと、彼女からのアプローチを待つことにした。仕事を口実にたくさん話しかけた。ところが構いすぎたせいで、逆に嫌われてしまう。
そのうえ出来る彼氏がいつもロクでもない男ばかりだ。良い相手なら諦められたし、何より幸せになって欲しかった。立香は美人なのに自己肯定感が低すぎるのだ。ガウェインならうんと可愛がって大切にするのに……。
ちなみに女性と歩いている彼氏を、立香に目撃させたのもガウェインの差金である。知り合いの女性に頼み、あの時間に繁華街を歩かせた。あとは立香をディナーに誘い、鉢合わせるだけ。
──行きずりの美女に誘われて、恋人の電話を無視するような男など論外だ。
ガウェインに罪悪感は一切なかった。
rururu・・・
立香のスマホがこのタイミングで鳴った。着信相手を見て、ガウェインはいい機会だと電話に出る。
『ごめんな、立香。ちょっと忙しくて電話に気づかなくてさ……』
──ずいぶん調子のいい男だ。おそらく女性に夜の誘いを断られて、立香に電話をしてきたのだろう。
ガウェインは冷たい声で言った。「立香はあなたと『別れる』と言っていた。今後一切、連絡して来るな」
『は? お前、だれ──…』
ガウェインは最後まで聞かずに電話を切り、自然な動作で立香のスマホのパスコードを入力し、電話番号を着信拒否設定にする。
これで邪魔者は入らない。
「さて、どうしようか」
ガウェインは腕の中でかわいい寝息を立てる女性を見た。ずっと正攻法で手に入れるつもりだったが、上手くいかず遠ざかって行くばかりだ。きっと、これからも。このまま別の男に手を出されるのを待つだけなのだろうか。
──『だめ……一人に、しないで……』
人並みの常識は持っているはずだった。だがそれが吹き飛んでしまうほど、腕の中にある存在は、やわらかく温かく、愛おしかった。
もちろん立香の家も調査済みである。家へ安全に送り届けることもできた。だがこのチャンスを逃したらもう後はないかもしれない。多少汚い手だとしても、さっきの男より立香を幸せにする自信があった。
「──では、これまで我慢してレディを守ってきた、私へのご褒美ということで」
やると決めれば、罪悪感は吹っ飛び、これまでのわずらわしさも消え失せる。ガウェインは仕事でも感じたことのないほどのやる気が湧き上がって、何十倍も頭を回転させた。
立香が目を覚ますのはどのタイミングだろう。それまでに『何もなかった』と逃げられないよう囲い込んでしまわなければ。だが一番大事な瞬間に、彼女が目覚めていないのも困る。彼女の可愛い反応を永遠に焼き付けておきたい。
──手早く、かつ用意周到に。
いちばんロクでもない男をその気にさせてしまったとは知らず、立香はおだやかに眠っている。
<続く>
過去の彼氏が本当にロクでもない男だったのか、別れたばかりの彼氏のウワサが本当なのか、実はわからない。ガウェインが勝手なウワサを吹き込んでいる可能性もあります。
一番厄介な相手をその気にさせてしまったとは知らず、その2に続きます。
名字は変換項目にないので、ミス・名前ですみません。