彗星の恋



設定的に現代の倫理観にあわない展開、発言があります。古代の戦場という設定でおおらかに読んでください。

彗星の恋

 いつもは青く美しい海だった。嵐のとき黒く濁って見えるように、今は数え切れないほどの船が海を覆っている。
 黒い帆の船がクレタから、アルゴスから、イタケから──ギリシアの本土から海にすべり出て、瞬く間にトロイアの海岸を埋め尽くした。雷のような轟きがトロイアに響く。兵士たちの怒号だ。大勢のギリシア兵がトロイアを討ち滅ぼさんと、やってくる。
 ギリシア兵が船端を蹴って白い浜辺に降り立った瞬間、トロイアの守備兵は矢の雨を降らせた。開戦だ。恐れを知らないギリシアの勇士たちが盾で矢をなぎ払い、槍の穂を太陽にきらめかせる。トロイア兵も、祖国を守らんと燃えるような使命感で剣をふるった。
 太陽が昇るたび戦いは繰り返され、日の出ているあいだ喧噪が止むことなかった。


 焚き火の前でアキレウスは仲間たちと勝利の喜びに酔いしれていた。鍛え抜かれた技術をぞんぶんに発揮し、明日はまた新たな相手と剣を交えることができる。強靭な肉体と天賦の才を授かり、英雄になるために生まれた青年にとって最も輝かしい瞬間だった。
 肩を組んで飲んだり歌ったりしていると、同じ部隊の男がアキレウスを呼びに現れた。はやく来てくれ、と興奮している。
 飲みかけのワインの盃を手放し、男についていくと大勢の兵士たちが集まっていた。輪の中心にいたのは、どこからともなく集まってきた女たちだ。軍隊の行くところに現れ、身ひとつで稼いでいる美しい女性たちだった。
 広場に人が満ちると、女たちは手をつないで踊りだした。音楽に合わせ、円をかきながら跳ね上がるようにステップを踏み、ところどころで男たちを誘って踊る。
 もちろん男たちの目的は女と踊ることではない。アキレウスが踊りの輪を見つめていると、隣にいた男が音楽にかき消されないよう大声で言った。

「今日の戦いでもっとも手柄を立てたアキレウスから選べと、アガメムノン王がおおせなんだ。
 早く選んでくれ、じゃなきゃ後がつかえちまう!」

 踊りの輪はどんどん大きくなり、男女の動きは激しく興奮の渦に巻き込まれる。
 アキレウスは一人の女に視線を注ぎ、無言のまま指をさした。


■□■□■


 立香が髪をおろして紅をさしているとき、おかみさんが青年の正体を教えてくれた。なぜ将軍たちより先に選ぶ権利を持っていたのかも、名前を聞いて納得がいった。
「ギリシア随一の英雄、俊足のアキレウスさま」
 薄衣をまとってテントに足を踏みいれると、物憂げな青年が頬杖をついて敷物に座っていた。頭を下げてうやうやしく近寄ると、そこに座っていろというように離れた場所の敷物を指さす。
 青年は考えごとに耽っているようだった。
「お酒でも注ぎましょうか。踊りか歌でも」
「いや、いい」
 ぶっきらぼうに青年は返した。こういうことに慣れていないのかもと立香は思った。広場では年上の兵士にせかされて私を指さした。もしかしたら女を知らないのかもしれない……。
 ろうそくに照らされた青年の横顔は、眉が凛々しく鼻筋はすっと通っていた。血色のよい頬は化粧をあしらったみたいで、女装すれば長身の美女で通るかもしれない。この青年が戦いで名を馳せている英雄には見えなかった。
「アキレウスさま……おいくつですか?」
「17だ」
「あら、私より歳下なんですね」
 立香は青年が急に可愛く思えた。故郷にいる弟が生きていたら彼ぐらいの年齢だ。アキレウスにもっと近寄ろうとすると、彼はきっぱりとした口調で言った。
「言っておくが、私はお前を抱かない。故郷に妻がいるんだ」
「奥さんが……」
 立香は驚いて目をみはった。英雄なら若くても結婚してほしい女性はたくさんいるだろう。
 ──遠く離れた戦場でも一途に愛されて幸せでしょうね……。
 戦場で妻への貞操を守っている男は少ない。立香は、彼が貞操を貫いていることを好ましく思った。
 アキレウスはマントを手にとると、横になって身体を覆った。
「もう寝る。あとは出て行くなり好きにしろ」
「ええ、好きにするわ」
 立香はぶっきらぼうで一途な青年のそばにもうすこし居たいと思った。
「何もしない。でもいま戻れば相手にされなかったと馬鹿にされるから、ここで一晩過ごすわ」
「………」


 翌朝、立香は支度をととのえてテントを出て行こうとした。するとアキレウスが彼女を呼び止めた。
「今夜は、お前はどうするんだ」
「決まってるわ。他の男の相手をするだけよ」
 アキレウスの頬に羞恥の色がはしり、眉をしかめたあと彼は言った。
「他の男のところに行きたいのか?」
「別に……そんなわけじゃないわよ。仕事だからそうするだけ」
「じゃあ、褒美にもらった腕輪や宝石をお前にやる。それで今晩もここにきてくれ」


■□■□■


 戦いが始まって数ヶ月が過ぎた。立香は他の男の相手をしないで、ずっとアキレウスのもとへ通っている。アキレウスがたびたび宝飾品をくれるので、女たちにかなり羨ましがられていた。

「きっとアンタが一番のもうけだね」
「どんなテクニックで英雄を虜にしているんだい」
 すれ違う女たちにからかわれつつ、木影のある川辺で水浴びをしているとおかみさんが声をかけてきた。
「立香、ずいぶんときれいな身体だね。毎晩相手をしているのに」
 立香は自慢するつもりで言った。
「相手するといっても、アキレウスさまはそういうことを求めませんよ。話し相手になるだけでいいって。かわいい弟みたいなもんです」
 一緒に過ごしているうちに家族のような親しみを抱くようになっていた。立香は弟にアキレウスを重ねて見ていたし、アキレウスも立香を姉のように扱っている気がした。
 だがおかみさんの顔はみるみる暗くなった。よくないね、とおかみさんは呟いた。
「相手するのはいっときだけだよ。そんなふうに親しみを感じるようじゃ、身体の関係はなくても辛くなっちまう。今晩からは別の娘に行ってもらうことにしよう」

 立香は驚いて、着物を引っつかむと川から上がった。おかみさん、と慌てて声を張る。
「そういう関係じゃないんですよ。アキレウスさまだってとつぜん相手が変わったら驚くでしょう」
「男たちは国に帰ったら妻や子どもがいるんだ。真剣になればこの関係を受け入れられなくなる。そうしたら苦しいのはあんただよ。心を引き裂く行為だ。この仕事は真面目に考えちまう娘には向いてない」
「それはおかみさんの経験なの? 私はそうはならないよ」
 立香がこう言い切ると、おかみさんはどす黒く見えるほどに顔を赤くした。だがつける薬はないというように、「好きにすればいいさ」と背を向けて去った。

 ──真剣になればこの関係を受け入れられなくなる──
 立香は胸が痛くなるのを感じた。アキレウスを異性として見ているか分からなかったが、好いていることは確かだ。戦いが終わればアキレウスは国に帰り、一途に妻を愛するだろう。立香のことは思い出さないかもしれない。
 だが、立香はいつまでもアキレウスを思い出すだろう。英雄は心の中でまばゆい光を放っていた。強烈な光によって残像が焼きつくほど……。


■□■□■


 アキレウスは戦さの合議に呼ばれ、帰る途中で兵士たちの溜まり場を通りかかった。
 兵士たちは英雄が通りかかるだけで恐れおののいた。同時に、彼を戦場で目にすればどんな苦境でも勝利への確信と力がみなぎってくるのを知っていた。
 兵士たちがアキレウスに酒盃を捧げた。
「ギリシア一の英雄のお通りだ! トロイア人よ、はやく逃げ出せ。その姿を笑ってやろう!」
 アキレウスは快活な笑い声をたて、盃を受けとると一気に飲みほした。兵士たちは大いに喜んだ。このようにして、ギリシアの兵士たちは戦いの恐怖から逃れているのだった。

「アキレウスさまを見れば、明日も生きられる気がするんだ」
 誰かが呟いた。「もしくは女を抱いているときか。自分は戦さの道具じゃない、生きているんだって実感するんだ」

 その言葉は不思議なほどアキレウスの心に響いた。
 ──生きている実感か。
 どんなときに感じるかという自問に、彼の心は即答した。
 ──戦いの最中だ。
 強い相手とやり合って一瞬の油断もならない命の応酬をするとき、喜びがわきあがり、魂が震える。
 何千の兵士が殺し合う戦場で、生きている実感を覚えるというのは矛盾しているかも知れない。だがアキレウスは戦場の英雄になるために生まれてきた。
 冴えわたった一撃で相手をしとめる瞬間に、生きていると強く思う。
 ──こんなことを妻には話せないな……。
 アキレウスが旅立つとき、妻は首にすがって「はやく戻ってきてくださいね」と泣きながらささやいた。頷きながらも妻に安寧を与えてやることはできないと思った。
 アキレウスは大きな物語を信じて生きている。
明日を生きるためではなく、三年後、十年後に生きている意味、百年後に自分が生きた意味が欲しい。そのために戦場の英雄となって永遠の生命を得るのだ。

 ──そうでなければ生きる意味などない。
 アキレウスは恐ろしいほど生きる意味に執着していた。


■□■□■


 髪留めがはずれて直そうとしていると、アキレウスが後ろから髪に手を添えた。
「ずいぶん手慣れているのね」
 と立香が言うと、アキレウスは「さんざん手伝ったからな」と返した。
「奥さんを?」
「いいや、わけあって王宮の奥でしばらく世話になったことがあった。そのあいだ侍女たちにやらされて覚えた」
 髪を指ですかれる感触に立香は目を細めた。細い髪が無骨な指のあいだをさらさらと流れていく。ろうそくで照らされたアキレウスは故郷にいた頃の表情をしていた。
「戦いがはじまってしばらく経つけど、帰りたくならないの?」
「どうだかな」
 彼は手を止めて言葉を探しているようだった。
「……帰りたくないと言えば嘘になる。だが、おれは戦場で死んでもいいと思っているんだ。妻は悲しむだろうが」
 アキレウスは立ち上がり、立香の正面に座った。
「妻には長く生きてほしいと思っている。お前にも。
 お前はべつに望んで戦場にいるわけじゃないだろう。戦いが終わったらどうするんだ」
「べつに変わらないわ。こうやって稼ぐのが生きていく方法なの」
「生きていく方法なんて他にもあるだろう」
 立香が顔を上げると、アキレウスがじっとこちらを見ていた。
「おれがやったものを使えばいい。自由になるにはじゅうぶんだろう」
「………」

 自由なんて、と立香は思った。親の借金のかてに働きに出てから、この生き方しか知らない。慣れてしまえば気楽なものだ。
 自由に生きるほうが難しかった。

「勝手な話だが、お前は妻とおなじ髪の色、目の色をしている。だから自由に生きて欲しいんだ」

 立香は怪訝な表情をした。ああ、彼がときどき懐かしそうな顔をするのは、私の髪と目の色のせいか。思わず髪をむしりたいと思った。
「だったら抱いてちょうだい。奥さんの代わりに」
「辛くないのか」
「男のなかには別の女の名前を呼びながら抱かせてくれってやつもいる。仕事だからわりきっているのよ、全然平気」
 好きな男じゃなければ平気だ、という言葉を飲み込んだ。
 アキレウスはとまどうように視線をそらした。彼に反撃できたみたいで立香は嬉しくなった。せめてちゃんと別の女だと思って欲しかった。

「いや、それでも立香は立香だ。抱くときは立香として抱く」
 アキレウスは呟くように言った。「どうすれば、お前にべつの生き方をしてもらえるのか…」
「誰もが理想の生き方を持っているんじゃないのよ」
「そうだ。だから、おれは自分の求める生き方ができるように全力を尽くす」

 自分の生き方を熱く語る青年の目を立香はじっと見つめた。
 ──この青年のそばにいたい。
 ともにいられるのは一瞬かもしれない。だが、永遠を生きる物語は、天翔ける彗星のように一瞬でも強烈な光を放つのだ。

「じゃあ、あなたのそばにいさせて。あなたの生き様を見ていれば、もしかすると自分の生き方も見つけられるかもしれない」
「───!」

 詩人が歌っていた。
 自分とそれからたった一つの魂と、完全、そしてどこまでも一緒に行こうとする、この気狂いを恋というのだと。
「私にべつの生き方をさせたいなら、それを宝石や腕輪のように与えてくれなければ……」

 立香は身を寄せてアキレウスの肩に、額を寄せた。背中に伸ばされたアキレウスの手はためらっていたが、引き離そうとはしなかった。



 頭上をすうっと星が流れた。青い光の尾を残して去っていった。
 ──べつの生き方を願うならば。
 彼の妻のように、一途に思ってもらえる女性になりたい、私にはこれぐらいの望みしかない、と立香は思った。



<おわり>


2周年御礼企画リクエスト
『アキレウス+戦場、彗星の恋』

いつもこのサイトに来たらアキレウスの小説を読み通します、と温かいメッセージを共に頂きました。
とても嬉しいお言葉で、続編を書きたくなるのですが、あのアキレウス青年がどうやってイーリアスのアキレウスになるのか難しくて……。
今回は続編を書くならテーマにしたかった、英雄の生き様、を他の人の視点を交えて書きました。『花の冠』と別のアキレウスとして読んでもらっても大丈夫です。
でももう少し成長したアキレウスの話を読んだら、きっと喜んでもらえるんじゃないかなと思って書きました。つたない作品ですが、お気に召したら嬉しいです。





/

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -