蘆屋道満がひょんなことから右大臣・藤原顕光(あきみつ)どのの娘に気に入られ、そばに仕えるようになってから数年が過ぎた。
季節は梅雨。空気は雨で煙るようになり、熟れた熱気が顔や身体にまとわりついた。暑さに耐えかねて人々は涼を求めた。
「近ごろ、都人のあいだでは蛍狩りがはやっているそうです。姫さまもご覧になりたいと何度もおっしゃいまして。でも鴨川の周辺は人が多うございますから……。
姫さまがめずらしく頼みごとをされたのに、断るのは心苦しゅうございます」
長年姫に仕えてきた乳母の泣く姿を見て、藤原顕光どのは心を動かされたようだった。
「ふむ…摂津(現在の大阪府周辺)の邸(やしき)で蛍が見られると聞いたことがある。京では無理じゃが、あそこに姫をいかせて蛍狩りをさせるのはいかがじゃ」
「それはすばらしい。きっと姫さまもお喜びになるでしょう」
「しかし婚前の女子(おなご)が京を離れて、悪いうわさを立てられては困る。忍んで行くならば供(とも)の者も限らねばな。
……道満をこれへ。陰陽道の実力者がそばにあれば、百人の供がつくのと同じぐらい心強いじゃろう」
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数人の供を連れて、摂津の邸(やしき)に向かう貴族の一行があった。中心に牛車があり、横にぴったりと立派な体躯の陰陽師がつきそっている。
蘆屋道満はボディーガードを任され、気を張りながら街道を進んでいた。一方、顕光どのの娘は、堅苦しい京から解放されていつもより口数が多かった。牛車の中からあかるい声で道満に話しかける。
「道満どの、街道の様子はいかがでしょう。中から外の様子が分かりにくいわ。簾(すだれ)を上げてはいけないかしら」
「なりません、姫さま。街道はたくさんの人の目についてしまいます」
「まあ」
まるで「やってはいけない」ことをわざと尋ね、道満が返答に困るのを楽しむ……そんな子どもじみた無邪気さが、まだその頃の彼女にはあった。
ぶじ邸にたどり着き、道満は邸に仕えている者に蛍のことを聞いた。
曰く、蛍がもっとも美しく見えるのは、風のないおだやかな夕べという。しかし屋敷周辺もじゅうぶん美しいが、もうすこし行った先の渓谷でみえる蛍の群集は、言葉を失うほど素晴らしい光景なのだという。
姫さまの耳に入ってはやっかいだ……道満はすみやかに休息所に戻った。だが、時すでに遅し。侍女が楽しげに話している声が聞こえる。
「いかがでしょう、姫さま。こんなとおくまで来たのです。お忍びですから、一度お願いしても良いのではないでしょうか」
「そうねえ」
彼女は街道での様子と違ってためらっていた。
「でも、ここまで来られただけでも無理を言ったのです。これ以上のことをお願いしては、父上と道満どのを困らせてしまうわ」
道満は足をとめて彼女たちの会話を聞いていた。
──街道ではあのように振る舞っていたのに。
女子の気持ちはわからない、と道満は思った。どちらが本心なのかわからない。だが顕光どのの娘は道満に対して、あかるく無邪気に接していることは明らかだ。
──その姿はきっと京では見せにくいものだろう。
数日すれば京へ戻る。無邪気な姿を出せるのはわずかな間だけ。こう考えて、道満は頭をめぐらせ始めた。
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「ほんとうによろしいのですか」
「ええ、ですからほんの少しだけ。蛍を見たらすぐに戻りましょうぞ」
暗く静かで、蛍狩りにふさわしい宵の夜がやってくると、道満は顕光どのの娘のもとにやってきた。
「父上がいらっしゃったら絶対にできませんでしたよ。でもせっかく摂津にいらしたのです。今夜だけ特別に許して頂きましょう」
だから牛車は使いません、と道満はみずからの背を差し出した。──私が車となって姫さまをお連れしますから。
顕光どのの娘はおそるおそる、長身でりっぱな体躯の陰陽師の背にからだを預け、首に手を回した。ふわりと甘い香の匂いがただよった。あたたかい夜闇に溶け込んでいく。
しっかり背負えたことを確認すると、道満はゆっくりと邸を出て、涼やかな水がせせらぐ渓谷へと向かった。
しばらくのあいだ、顕光どのの娘は無口だった。──京でもめったに邸の外へ出ないのだ。ましてや摂津の見慣れない風景を目にして、緊張しない方が不自然というものだろう。
しだいに落ち着いてくると、道満にだけ向ける、あの無邪気な態度でかれに問いかけた。
「道満どの。まるで、伊勢物語の芥川※のようですね」
「そのような雅な物語は存じ上げません。私は無骨ものでございますから」
※伊勢物語は平安中期に書かれた歌物語。在原業平がモデルといわれている。
『芥川・白玉』の段は、藤原高子と結ばれるために業平が彼女を背負って逃げる。
彼女は笑い声をもらした。「…ええ。わたくしの独り言だと思って、聞き逃してくださいませ。でも、こんなふうに戯れるのは生涯に一度きりでございましょう。舞い上がって、おしゃべりになってしまうのをお許しくださいね」
「はあ」
せせらぎの音が近づくと、あたりは人の気配がなく他に虫の音だけが聞こえていた。
蛍が一匹、木立をぬって通り過ぎた。その先をたどると、無数の蛍が、水面をただよう細い糸のような光の筋を残しながら舞い踊る。
「姫さま、ご覧くださいませ」
「………!」
言葉を失う光景とはまさにその通りだった。道満は幼いころに故郷で蛍の群集を見たが、これほど美しくなかった、と思った。
蛍のあやなす錦の川。水がきらめき草はそよぐ。たった一瞬の生のために輝くすがたは、無骨ものの目にも美しく映った。
道満の背で、顕光どのの娘は感服のため息をついた。じっと見入った後、「本当に美しいです。有難う、道満どの」とため息をこぼした。
「こんなに美しいものはもう見られないでしょう。忘れたくないものです」
「それはよかった」
いくら見ていても飽きない光景だった。しばらく佇んでいると、彼女はまた、道満に話しかけた。
「先ほど物語の話をしましたね。当世の流行りは、清少納言という女性の書いた『源氏物語』です」
「はあ」
道満はまったく知識のない話題に、申し訳ない程度のあいづちを打った。
──なぜ、女子というのは男にこんな話をするのだろう。
洒落たことを言わないし、反応も面白くないだろうに。顕光どのの娘がどうしてこんな話題を自分に振るのか分かりかねた。
「『源氏物語』のなかに蛍≠ニいう帖があります。この物語は、光源氏という殿方が主役で……この方が玉鬘(たまかずら)という女性と思いを交わしあう帖なのです」
その口調は、先ほど『独り言だと思って聞き逃してくださいませ』と言ったときと同じだった。道満は黙った。
「玉鬘は……光源氏の養女です。ですが光源氏は、彼女に思いを寄せていると告げます。その一方で、玉鬘に思いをよせる蛍兵部卿宮という男がいるのですけれど、光源氏はその男に良い返事をするよう玉鬘に勧めるのです」
「………」
「光源氏が玉鬘に良い返事を書かせたので、蛍兵部卿宮は喜び勇んで彼女の部屋にやってきます。彼は、光源氏が隠れているとも知らず、几帳をへだてた玉鬘と対面します」
「…………」
「暗闇の中でしたが、玉鬘のゆかしい振る舞いや香の匂いは、この上なく蛍兵部卿宮を魅了しました。
そこへ好機をうかがっていた光源氏が、袋に入れて隠していたほたるを解き放ちます。暗闇のなか、一斉に飛び交うほたるの光……その一瞬、蛍兵部卿宮は玉鬘の横顔を見てしまって、その美しさにますます夢中になってしまうのですわ」
顕光どのの娘はここで一旦、言葉を切った。気になって道満が振り向くと、ちょうど蛍が彼女のほほを掠めて横顔を照らした。
──なるほど、美しい。
道満は物語のことはよく分からなかったが、女を美しいと思う蛍兵部卿宮の気持ちは分かる気がした。
「……さて、道満どの。玉鬘の美しさに見惚れた蛍兵部卿宮は彼女に歌を贈ります。どんな歌を詠んだと思いますか?」
顕光どのの娘はとつぜん、道満に問いかけた。まったく理解の追いつかない話題に彼は唸った。
「はあ……残念ですが私は無骨ものです。歌を詠むような風流は備えておりません」
「ただの戯れでございますのに」
彼女はつまらなさそうに言った。だが、その声は寂しそうな色をしていた。
では、と彼女は言った。
「歌ではなくお言葉で。そうであれば、どんな言葉を贈って差しあげますの?」
道満は口をつぐんだ。こんな問いかけをされて、真剣に答えるべきか戯れに答えるべきか、困ってしまった。とにかく都人の雅な遊びのことは全く分からない。降参して黙ることにした。
「………」
「………」
「………」
「……ふふ、困らせてしまいましたね」
顕光どのの娘はまったく気にしないようで、いつものようにあかるく言った。
「蛍兵部卿宮はこう歌うのですわ。
鳴く声も聞こえぬ虫の思ひだに 人の消つには消ゆるものかは
(恋心を語らない蛍だけれど、この恋の炎は人が消そうとしても消せません)」
貴族らしい雅な恋歌を聞かされて、道満はさらに困ってしまった。美しい歌ですね、という言葉ぐらいしか返せない。
「でも、玉鬘はね。贈られた歌につれない返事をするのですよ。
声はせで身をのみ焦がす蛍こそ 言ふよりまさる思ひなるらめ
(声は出さずにひたすら身を焦がしている蛍の方が、声に出して愛を語るよりも想いの深さは勝っているのでしょうね)」
道満は何を言うべきか悩み、けっきょく風流もなにも解さない返事になってしまった。
「私に理解できる内容ではありませんが、美しい物語なのでしょうね」
「……ええ、そうでしょう」
顕光どのの娘はずっと同じ口調だった。ただ道満に聞かせたかっただけ、というかのように。
──きっと私が理解しないと分かっていたのだろう。
ならば、なぜ物語を聞かせたのだろう?
思いをめぐらせる道満の前で、蛍は飛び交う。
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( …道満どの。彼女は、蛍兵部卿宮というより、光源氏に対して歌を贈ったのです )
顕光どのの娘──、立香は心の中で付け足した。
これは、恋に苦しむ少女の物語だ。
玉鬘(たまかずら)は、口では「あなたを好いている」と言いながらも、他の男に興味を持たせようとする光源氏の真意を理解できないでいる。
一方で彼女は、養父である光源氏に惹かれながらも禁断の関係になることを恐れ「あなたが好きです」とは言えない……。
声はせで身をのみ焦がす蛍こそ 言ふよりまさる思ひなるらめ
──声は出さずにひたすら身を焦がしている蛍の方が、声に出して愛を語るよりも想いの深さは勝っているのでしょうね。
「姫さま……」
立香を背負っている道満は「あまりにも風流を欠いた返事をしてしまった」と思ったのか、何か言葉を返そうとした。
だが立香はそっと手を伸ばし、その口を覆った。
「──ただの戯れでございます。道満どの、困らせてしまって申し訳ありませんでした。
でも、私の言って欲しいことを言ってくださらないなら、いっそ黙っていただいている方が良いのでございます」
「………」
静かな宵の夜。言葉を失うほどの美しい光景を、二人はただ、ただ、共に見つめた。
蛍は何も言わない。夜闇はかなく舞う光は、お互いを探しあっている。
<おわり>
2周年御礼企画リクエスト
『道満と顕光殿の娘夢主のお話が一番好きです、この二人で夏らしく蛍を見る話が見てみたいです』
リクエストいただき有難うございます。夏らしく蛍を見る……見てるけれど、ちょっと悲しい物語になりました。ハッピーなお話を期待されていたらすみません。
蛍≠題材にした平安時代の物語といえば『源氏物語』。紫式部も道満とゆかりがある人なので。歴史的には『源氏物語』が書かれた頃より、数年ほど早いのですが、ご容赦ください。
源氏物語の蛍はちょっと複雑な話です。よかったら、あらすじを調べてみてください(光源氏が〇〇です)。伊勢物語の『芥川・白玉』は33333HITで書いた「背負って逃げる」部分の補足として書きました。
歴史好きの私はとても楽しく書かせていただきました! 暑い夏ですが、少しでも涼やかな気持ちになっていただけますように。