アキレウスから連絡がきたのは3日後だった。メールの文面は簡素だった。
――例の件について、分かったことがあるから話したい。
どう返すべきか立香は迷った。真実を知りたいという気持ちはある。しかし夫の言いつけを守るなら家から出ることはできない。そこでお手伝いの女性に暇を出し、アキレウスに家まで来てもらうことにした。
「ごめんなさい。忙しいのに、わざわざ来てもらって」
「いいや、気にしなくて良い。先日のこともあったし、わざわざ外に出てもらわなくて正解だったな」
リビングに通されたアキレウスはどこか落ち着かない様子だった。立香はソファに座った彼にコーヒーを出すと、向かい側に座った。
「旦那さんはいつも何時ぐらいに帰ってくるんだ?」
「だいたい夜の10時過ぎかな」
「遅いな。週末はいるのか?」
「ううん、週末は接待でいないよ。だから話すのは夜。彼が帰ってきたあとで、1日30分も話さないかな」
「そうか…」
彼は差し出されたコーヒーを一口飲むと、本題を切り出した。
「例の件について、お前にはショックかも知れないが隠さずに話そうと思う。だがまだ確実な証拠がとれたわけじゃないから、旦那には話さないでくれ」
「分かった」
と立香が言うと、アキレウスはゆっくり話し始めた。
「例の事件で襲われた被害者に話を聞いたんだ。被害者は、お前の夫の会社と取り引きしている会社の社員だった。その男はお前の夫の会社について調べていたらしい。そこで、法律に触れる取引の証拠を見つけてしまったそうだ」
「………」
「男は、それを持ってお前の夫に迫った。どうやら有利な条件を引き出そうと下心が働いたようだな。だがお前の夫は、部下に命じて男を消そうとした。それをお前が目撃したんだ」
「そんな…」
「まだ証言だけだ。だが近々会社にも家宅捜索が入る。そうすれば、証拠はいくらでも出てくるだろう」
アキレウスは一呼吸おき、口調を変えて今度は立香に問いかけた。
「なあ立香、信じたくないかもしれないが考えてくれ。お前の夫は、『黙っているように』と言ったんだろう。本当にやましいことがないなら、警察にすぐ相談するよう言ったはずだ。おかしいと思わないか」
「………」
立香は唇を噛み締めながらアキレウスの話を聞いていた。たしかに彼の言うとおり、なぜ夫が黙っているように言ったのかは疑問だった。被害者の話というのも、彼の警察としての立場から信憑性がある。
――夫は本当に悪事に手を染めていたのだろうか?
そんな風に夫を疑ったことは一度もなかった。だが無口で自分のことを話さない夫が、昼間にどこにいて、何をやっているか。実際のところ立香は知らない。
「…少し考えさせて。まだ、信じられないから…」
アキレウスの返答を求めるまなざしに耐えきれず、立香は顔を背けた。
――もし夫が悪事に手を染めていたというのなら。3日前、車に轢かれそうになった件はどうなのだろう。まさか目撃した私を殺そうとしたのだろうか。妻である自分をためらいなく?
そう思うと、手の震えが止まらなくなった。うつむいた立香の手を、アキレウスがとった。大きくて温かい手だった。
「なあ立香、おまえはまだ若いんだ。これから何度だってやり直せる。もし嫌じゃなかったら……俺のことを、考えてくれないか」
「アキレウス」
立香は手を握っている男の顔を見た。幼なじみとしての表情だけではなかった。アキレウスが自分に向けている感情が、心配だけでないことに立香は気付いている。だが、それにいま応えることは出来なかった。
「ごめんなさい、急に言われてもわからない」
ぎゅっと握られた手が少し痛かった。「私には、夫と過ごしてきた2年間があるの。急に考えを変える事なんてできない。実際にかれと話をしてみないと」
「駄目だ。相手は汚い手段も辞さない男なんだぞ。相手が本気になったらどうなると思う。命の危険だってあるじゃないか」
アキレウスは強い口調で言った。立香はたじろいだ。どうして、こんなにアキレウスは断定するのだろう。
「まだ確実な証拠が無いのに、なんでそんなふうに言うの?」
立香には少しひっかかっていたことがあった。
――3日前に車に轢かれかけたとき、どうしてアキレウスは警察を呼ばなかったのだろう。
彼自身が警察官で、立香も怪我をしたわけではなかった。だが命を狙っていたというほど深刻なら、どうして通報をしなかったのだろう。実際のところ、ちょうど良いタイミングで現れたアキレウスのおかげで、危ない目にあったが車は通り過ぎた。
「ねえ、3日前の車に轢かれかけた件だけど…」
「ああ、お前を狙ったものに違いない。車のナンバーを覚えていたらすぐに判明したのに」
その言葉に違和感をおぼえた立香は、鎌をかけてみることにした。
「…その、車のナンバー。うろ覚えだけれど記憶しているよ」
「覚えているのか?」
アキレウスは驚いた表情で言った。立香は、なぜ驚いたのだろうと思った。本当に証拠が欲しいと思っていたのなら喜ぶはずではないか。
「うん。今からすぐ警察に電話してナンバーを調べてもらおう」
立ち上がった立香を、アキレウスは腕をつかんで引き留めた。「分かった。俺が警察署に帰ったら調べておこう」
「どうして今では駄目なの?」
立香はまっすぐな瞳でアキレウスを見つめた。「それに、被害者の人は話を聞ける状態だったの? 夫は重症だと言っていたけれど」
「………」
アキレウスは黙った。立香が自分の言葉をうたがっているのに気付いて、気分を害してしまったのだろうか。立香は申し訳なく思った。
「心配してくれるのは有り難いよ。でも、あの人は私の夫だから一度話をしたいの」
「どうしてだ」
アキレウスは唸った。腕を掴む手の力が強い。「考えてくれ、立香。これは俺に与えられた最後のチャンスなんだ」
「話がすれ違っているよ、アキレウス」
立香は手を振り解こうとした。だがそれは阻まれ、両腕を掴まれる。アキレウスの身体が、熱が伝わってくるほど近くに迫っていた。
「立香、昔はずっと側にいてくれたじゃないか。俺の言葉を疑ったりなんかしなかった。
俺がどんな思いで、お前の結婚式に参加したと思う? 綺麗になったお前が他の男の隣で笑っているのを見てどんな思いになったか」
「やめて……アキレウス」
立香はもう言わざるをえなかった。「――私はあの人の妻なの。あなたのことは幼なじみとしか思っていない」
「いやだ」
そう言って、アキレウスは立香を力づくで抱きしめようとした。ソファが軋んだ。そのとき、リビングに冷ややかな笑い声が響いた。
「誰だ」
アキレウスがきっとなって声の方を向いた。入り口に立っていたのは、会社にいるはずのギルガメッシュ本人だった。
「……っ」
「本心を露わにしたようだな、盗人」
とギルガメッシュは言った。「家にいる妻が男を連れこんで不貞行為を働いたと思ったが、そうではないらしい。その汚らしい手を我の妻から離せ」
「あなた」
立香が彼に手を伸ばそうとすると、アキレウスはその手を掴んだ。「行っては駄目だ、立香」
「“駄目”だと?」
ギルガメッシュの笑いはもう消えて、刺すような目つきだった。
「どの口が言う。他人の家で人妻を無理やり押さえつけて。自分のやっていることが分かっているだろうな」
蔑むような目線で睨みつける。
「それにしても、よく口が回るものだ。夫を犯罪者に仕立てあげなければ、人妻を口説けないか。それで“警察官”とは笑い草だな」
「お前…!」
「立香、その男が話したことはすべて事実無根だ。我は例の事件に関与していないし、お前が目撃した男は警察に突き出した。車で轢こうとしたのもこの男の友人だ。車のナンバーを押さえてある。
その男は嘘をでっちあげて、我とお前の仲を引き裂こうとしたのだ」
「………」
立香は黙っている幼なじみの顔をみた。反論があるなら何か言うはずだ。だがアキレウスの表情はゆがむばかりで、何も言おうとしない。
「アキレウス……どうして黙っているの?あなた、私に『隠さずに話す』って言ったじゃない。正直に言ってよ…」
それでも、アキレウスは何も言わなかった。
力を失った腕からするりと立香は抜け出て、ギルガメッシュのもとへ歩み寄った。たったの一瞬で、近くに感じた幼なじみとの距離が遠くなってしまった。そして、それは二度と戻らない。
ギルガメッシュは立香の頬に手をやりそっとなでた。よくぞ踏み止まった、と褒めてくれているようだった。ふとギルガメッシュは立香の背後に厳しい視線をやり、噛み付くような声で言った。
「――いつまで、そこにいるつもりだ。貴様は疾く消えろ。妻の幼なじみでなければ無事では済まさないところだ」
「っ……」
アキレウスは立ち上がると、立香を一瞥して部屋から出ていく。不安そうに背中をみつめた妻を、ギルガメッシュは顎に手を添えて自分の方に向かせた。
「お前は、こちらだろう。家に男を連れ込んで襲われかけた不手際を謝るつもりはないのか」
「あなた…」
申し訳ありませんでした、と静かに言った立香を見下ろすまなざしは血の通ったものだった。温かく、自分を心配して見ているのが分かる。かれの長い睫毛が近づいたと思ったとき、背後から女性が現れた。
「お取り込み中のところ、申し訳ありません。でもこのままではご挨拶することができないと思い、声をかけさせていただきました」
「………」
ギルガメッシュはぎろりと女性に目をやった。彼が連れてきた女性は、お手伝いさん以外では初めてだったので立香は表情を硬くする。妙齢の美しい女性だった。
「第一秘書のシドゥリと申します、奥様」
「シドゥリさん…」
秘書と名乗った女性はやわらかい笑みを浮かべて答えた。
「ええ。社長は、いつもあなたを気にかけておいででしたよ。貴女が今日、手伝いの女性に帰るよう言ったのでずっと社内から監視カメラで家の中を見られていたのです。
今日だけではないのですよ。一日に数回、あなたがどこで何をされているか確認されています」
「え……」
立香は黙っている夫をみた。夫は、仕事をしているときは一切私を考えないのではないのだろうか。秘書の言うことが正しければ、仕事中も気にしていることになる。
「だからそれは良くないと申し上げています。自分で、今日はなにをしていたのか聞いた方がいいと。奥様も今の話を聞いて、少しひかれたでしょう」
「は、はい…」
秘書は堂々と意見をのべた。だが立香は、顔がこわばっている夫が気の毒になった。2対1だ。プライドの高い彼は内心穏やかでないに違いない。
「でも」
と立香は言った。「それを聞いて、…私は嬉しいです。ギルガメッシュは、私に一切の興味がないと思っていたので」
「………」
ギルガメッシュは、無言のまま顔を彼方に向けた。秘書が「優しい奥様で良かったですね」と言う。彼女は続けた。
「大切だと思うなら、出て行かないように閉じこめてしまうのはやめた方がいいですよ。きっといつの間にか消えてしまいます。もし大切にしたいなら…他の誰かに盗まれないように、ずっと側に離さないでおくことです」
秘書が出て行ったあと、ギルガメッシュと立香が家に取り残された。もともと二人の住まいなのだ。だが、いつもと微かに雰囲気が違っていることに立香は気付いていた。それは、幼なじみに感じていたような浮ついた気持ちではなかったが、しっとりと和むような優しい空気だった。
「「……」」
二人同時に口を開いたが、立香が「先にどうぞ」と譲った。ギルガメッシュは咳払いをしたあと言った。
「…お前は、いつだったか『子供ができるまでは働きたい』と言っていたな。どうだ、我の会社で秘書補助としてなら働かせてやっても良いが」
「いいの?」
立香は言ってから口を押さえた。「あっ……。い、いいのでしょうか」
恐る恐るギルガメッシュを見たが、特に気にしていないようだった。立香はふっと心が軽くなるのを感じた。
――この人なりに、私の考えを汲もうとしてくれているのだ。
まるで蕾のような人だと思った。ほころぶのが遅く、それでもなかに美しい花を備えている。まだ私はかれを知らない。
「お前も何かを言おうとしたのではないか?」
ギルガメッシュは言った。立香は心が軽くなったのに乗じて、ずっと聞きたかったことを口にした。「あなたは、どうして私を妻にしたのですか?」
「知っているだろう。お前の親に紹介してもらった」
今日の夫はいつもより饒舌だった。「だが、以前からお前のことは知っていた。一度話をしてみたいと思って紹介を頼んだのだ」
「そうだったんですね」
「だが、お前は我のことを知らなかっただろう。よく知らない男との結婚に同意したな」
「ええ。でもお見合いは親の勧めですが、貴方と会ってから結婚を決めたんです」
「親に言われて結婚を承諾したのではないのか」
彼ははじめて聞くような顔をした。私からそんな言葉を聞けると思っていなかったように。うっすらと、仏頂面の口元があがっているのに気づいた。
「嬉しいのですか?」
「なにを」
彼ははぐらかしたが、こうやって構えずに近くで表情を見ると感情がずっと分かりやすいことに気づいた。立香は言った。
「あなたが、どんなときにどんな風に喜ぶのか分からなければ夫婦としてやっていけません。嬉しいときは嬉しいと、怒っているときは怒っていると教えてください」
「そんなことを急に言われても。
お前がおれに会ってから結婚を承諾したのだと、今知ったばかりなのだ」
立香はおどろいて顔をあげた。この男は、今まで自分が親の言いつけで妻になったと思っていたのだろうか。
「だから少し待っていてくれ。…そうだ。仕事がひと段落して、暫し休暇が取れそうだ。どこか行きたいところはあるか?」
しどろもどろだが、はじめての夫からの誘いに、立香は頬をゆるませた。
<おわり>