俺とお前じゃ交われない



立香は日本からやってきた留学生だ。はじめて香港に来たときは日本と違う色んな事にとまどったが、すぐ香港独特の文化や雰囲気が大好きになった。
香港はおもちゃ箱のような都市である。現代的な高いビルがそびえる金融街、イギリス統治時代の欧風な街並み、美しい世界一の夜景。いっぽうで郊外に足を延ばすと、伝統的な寺院や暮らしが息づく下町がある。
その多様さはまるでおもちゃがたくさん入った箱のようだ。ひとたび訪れると魅力に取り憑かれてしまう。週末になるたびに同じ留学生の友達と観光地や下町に出かけ、立香は留学生活をエンジョイしていた。


「七夕?」
夏のある日、立香は街中でバラの花束をもった男性をよく見かけた。疑問に思って留学が長い友達に聞くと、今日は旧暦の七夕にあたり、中国ではバレンタインデーのような日だという。
「うん。男性から女性にプレゼントを贈る日なの」
「そうなんだ……短冊に願いごとを書いて笹に飾ったりしないの?」
「お寺で縁結びの願い事だったらするかな」
純粋な疑問だったのに友達は「立香、恋人欲しいの?」とからかってきた。
「欲しくないわけじゃないけど留学中だもん。帰ったあと遠距離になるし」
からかわれて困った顔をする立香に、「でもさあ」と友人は言った。
「せっかくだから全然違うタイプの人と付き合ってみたら?いいじゃん、留学中だけの付き合いで割り切っちゃいなよ。」



太陽が沈み、昼間が夕闇にとけていく。夏の夜のゆったりと漂う雰囲気が立香は好きだった。
「あっ……」
大学の講義が終わって帰り道に就いていた。大通りはバラを持った男女2人組であふれ、みんなカップルなんだと思うと脇道を歩きたくなってしまう。
そこでいつもは通らない裏通りに入って近道をした。ところが道を間違えたらしく、どんどん暗くさびれた通りに進んでしまった。
(…どうしよう…道を聞こうかな……)
人通りは全くない。しかたなく立香は路地にいた柄のよくない男性に話しかけた。普段なら絶対に話しかけないタイプの人種だ。
「唔好意思(すみません)…、」
“道を教えてください”と言うつもりだった。ところが男はぎろりと立香を睨み、早口で何かを怒鳴った。彼女がびくりと震えて怯えると、男はニタニタと口元をゆがめながら近づいてくる。
「――!」
何かをまくしたてられたが動揺して言葉が聞き取れず、足に力が入らない。立香は助けを求めて周りを見渡した。
ふと、さびれた通りにそぐわない若い男性と目が合う。男性は高級そうなスーツを着こなし、非常に整った顔立ちをしていた。
「…イ尓係日本人呀?」
男性の声は不思議と響いて立香の耳に届いた。日本人か?と聞かれて必死に頷く。すると男性は颯爽と歩いてきて、立香の前にいた男を遮った。
「停手(やめろ)」
男がごねると今度は視線だけで黙らせた。男はそそくさと消える。
若い男性は呆然と立っている立香に声をかけた。
「…だいじょうぶか?」
彼の口からでてきた日本語に驚いた。カタコトではなく滑らかではっきりした発音だった。
「は、はい…」
「さっきの男はもう行ったから大丈夫だ。こんな所で何をしていたんだ?」
立香が道に迷ったことを説明すると、男性は心配そうな顔で「表通りまで送ろう」と言ってくれた。
「ありがとうございます、その、ええと…」
「俺の名前は政だ。かしこまらなくていい」
「はい、セイさん」
表通りに戻るまでほんの僅かな時間だったが、隣を歩く男性が見たことないほど整った顔立ちで、危険な所を救ってもらったことで、立香は夢見心地になっていた。聞けば大学で日本語を勉強し日本人の友人も多くいるという。
別れ際、頬をそめながら礼を言った立香に彼はささやいた。
「よかったら連絡先を教えてくれないか。香港の街を案内しよう」
立香は耳まで真っ赤になりながら大きく頷いた。



立香と政が付き合いはじめたのはすぐだった。
男気のなかった立香に急に彼氏ができ、友人たちは馴れ初めを聞きたがった。恥じらいながら話すと「映画みたい!」と彼女たちは盛り上がった。
「危ないところを助けてもらうなんて。運命的よね」
「このあとデートなんでしょ。うらやましいなあ」
大学の正門からすこし離れたところに彼の車が停まっていた。立香が歩いてくるのに気づいたのか、車から出て「立香!」と手を振ってくれる。一緒にいた友人たちは政の美しい顔立ちや高級車に悲鳴をあげた。
「すごい。あのルックスでお金持ち…」
「俳優みたい…」
すると一人だけ複雑そうな顔をした友人がいた。留学経験が長く、よく相談に乗ってくれる子だった。
「ねえ立香、本当にあの男の人と付き合ってるの?」
「うん…?」
「こんなこと言うのは嫌だけど、やめた方がいいと思う。なんだか良くない気がするの」
「………」
その子の言葉に周りにいた友人達も固まる。重い空気がながれて耐えきれなくなったのか、「私は行くね」と背を向けて行ってしまった。
「…なにあれ」
「嫉妬じゃない? 立香、気にしなくていいよ」
残った友人たちは口々にその子の発言を非難した。立香はただ呆然として、「うん…」と周りに返しただけだった。


「ごめんね。待たせちゃって」
「気にするな。それより大丈夫か?少し良くない雰囲気だったが……」
「ううん、大丈夫だよ」
立香は気を取り直して微笑んだ。政は顔立ちが整っているだけでなく話も上手で優しかった。彼と一緒にいられるだけで幸せだった。



「――政様」
「李書文か。何の用だ」
「いえ、特別な用などありませぬ。最近は女性に夢中になっておられるようで」
「立香のことか?あれは所詮遊びだ。」
立香とのデートを終え、滞在先のホテルに戻ってきた政を老人が出迎えた。政はジャケットを脱いで首元を緩める。ホテルの窓からみおろす香港の夜景は美しかった。
「組織の息がかかった女は飽きたし、そうでない女は後々面倒だ。中国の女は貞操観念が強いからな。その点、日本人の女はいい。遊びで済ませられるし、向こうも責任を取らせるつもりがない。」
「…お遊びもほどほどに。堅気の女性に手を出すのは初めてでしょう。そろそろ父上から継いだ家業に本気になって欲しいものですな。」
李書文とよばれた老人はおだやかな口調で言った。だがするどく老練な瞳で政を見守っていた。
「心配するな、あと少しで身も心も手に入る。それまでの遊びだ」



▼▼


『香港の街を案内しよう』と言った通り、政は色々な場所に連れて行ってくれた。人気の観光地はもちろん現地の人のみが知る隠れた名所も。どこにいく時も立香が気に入りそうなデートプランを考えてくれて、まるで自分が映画のヒロインになったような錯覚がした。
さらに政は人前でも堂々と熱を帯びた愛情表現をした。中国は一人暮らしの若者が少ないため野外で愛情表現をするのは当たり前なのかもしれない。公園のベンチに座って話をしていたら、近くにいたカップルがキスを交わし始めたので立香は気まずくなった。
政のほうを向くと、彼は「自分たちも…」という風に顔を近づける。慣れない立香は顔を背けてしまった。
「立香?」
「ごめんなさい、嫌じゃないの。でも外だと恥ずかしくて…」
大学生なのに初心すぎると嫌がられるだろうか。それでも政は微笑んでくれた。「日本だと習慣が違うのか。じゃあ今度、2人きりでゆっくりできる場所に行ってみよう」
「うん……」
約束をすると、政はぎゅっと手を握るだけにしてくれた。
そんな付き合いが2ヶ月も続いた頃だった。



ある夜、レストランで食事し外に出たあとで、政が「忘れ物をしたかもしれない」と言った。立香は「ここで待ってるね」と微笑んだ。
待っている間に明日の授業を確認しよう。そう思って携帯をいじっていたときだった。
「お嬢さん、すみませんがこの男性を知っていますか?」
顔をあげると地味な背広を着た2人の男性がいた。彼らは写真をかかげて立香に確認するよう求める。どこからか隠し撮りしたような政の横顔の写真だった。
「ええ…知っていますが…」
「本当に? ではこの人物の居場所をご存知ですか。我々はずっと彼を探していて…」
知っている、と言うと男たちは食らいつく様に迫ってきた。普通ではない反応に立香は動揺する。
いったい政は、彼らと何があったのだろうか?
「――少し宜しいかな」
立香が戸惑っていると後ろから老人が声をかけてきた。その老人とは初対面だった、しかし立香は老人が政と一緒に歩いているのを見かけたことがあった。
「お嬢さんは私の連れでね。先を急ぐので後にしてもらえないだろうか」
「っ…お前は、李書文…!」
男たちは過剰な反応をする。立香から見ると老人は穏やかな表情をしていた。だが引き締まった強靭な体格は老体にはみえなかった。
「さて」
老人のひと睨みで男たちは態度を変え、急いでその場から去る。彼らが消えると老人は立香の方へ向き直った。「貴女は“立香さん”かな。政様から話を伺っております。」
「………」
老人から名前を言い当てられ、さらに立香は困惑した。“政様”?お金持ちだとは思っていたが、世話役の使用人までいるのだろうか。
「あまり長く話す時間はないので手短に言いましょう。…どうかお嬢さん、政様から離れて欲しい」
「――!」
立香はとつぜん冷たく言い放れて目を見開いた。初対面の老人にこんなことを言われるとは。どういう意味か説明されなければ分からない。
「どういう意味でしょうか…? 政さんは私の恋人です。」
「いかにも。だが貴女と住んでいる世界が違う。傷つく前に離れるべきだ。」
理解が追いつかず立ち尽くしていると、政が戻ってくるのが見えた。老人は「では」と短く言って去っていく。
政は老人に気付いて、急いで立香のもとに駆け寄ってきた。
「立香!……何があった?あの男と話したのか?」
「っ……」
立香は手短に話した。まず政が離れている間に、2人組の男が写真を見せて居場所を聞いてきたこと。そして李書文とよばれた老人に「政様から離れて欲しい」と言われたことを。
 すると政は、困ったような表情で立香に言った。
「2人組の男のほうは人違いだろう。」
「でも貴方の写真を持ってた」
「前も同じことがあったんだ。そっくりな男性が揉め事を起こしたらしくてね。同じことがまたあったら、知らないと言って欲しい」
「じゃあおじいさんは?」
「李書文は……あれは俺の世話役だ。小さい頃から側にいて心配性なだけだ。気にしなくて良い」
「………」
立香の瞳が不安そうに揺れる。その瞳は政を信じきれないと雄弁に語っていた。政は立香の手を握った。「信じてくれ。せっかく君と一緒になれたのに、これで別れるなんて嫌だ。」
「それは私も…」
熱っぽく囁かれ、立香は政への想いで胸がいっぱいになった。怪しいと思う心はまだ残っている。でも、彼の手を振り払うことはできなかった。
「俺の誠意を見せよう」
政は手をひいて、立香を一般人が立ち入れないような高級店に連れていった。
しばらくして店から出てきた立香の首元には水滴のような宝石が光っていた。
「こんな高価なもの…」
「誠意だと言っただろう。ダイアモンド――宝石言葉は変わらぬ愛、清浄無垢だ。どうか君に貰って欲しい。」
駄目だろうか?と聞かれて、首を横に振れるわけがない。
立香はネックレスの冷たさを感じながら政の手をとった。月が見えない新月の夜だった。




それからというもの、立香はたびたび誰かに付けられている気がした。
出歩くのを怖く感じるようになり、夜寝ていてもきちんと鍵が閉まっているか気になって何度も起きるようになった。落ち着いて過ごせるのは大学で友人達といる時だけだ。
ある日、大学の教室で口論になった友人と再会した。立香を見てどこかに行こうとしたが、彼女はとっさに友人を呼び止めた。
「待って!ねえ、話したいことがあるの」
「何? 次の授業に行きたいんだけど」
「あのう……このまえの貴方の言葉、正しかったかもしれない」
立香は『やめた方がいい』と言った友人の言葉を思い出して言った。「私に忠告してくれたでしょ。付き合わない方がいい相手だったかもしれない。」
すると友人はホッとしたような表情をした。「…ううん、私こそ急に言ってごめんね。」
「大丈夫だよ。でも、なんでそう言ったのか聞かせて欲しいの」

立香はその子から過去にひどい目にあったという留学生の話を聞いた。政とは違う男性だったが、留学生に体目的で近づく人もいるという。
「彼氏さんのことを疑って申し訳ないんだけど、あまりにも話がうまく行き過ぎだと思って」
「…確かにそうだよね…」
「でも、大丈夫だったんだよね。もう別れたんでしょう?」
「……うん。」
立香は服の下にあるネックレスにそっと触れた。
まだ付き合っている、とは言えなくて、どうしてか嘘をついてしまっていた。



『立香、元気か? 仕事が忙しくて会えなくてすまない』
「平気だよ。ひと段落ついたの?」
その夜、数日ぶりにかかってきた政からの電話に立香はつとめて明るく応えた。不安な気持ちを伝えたくなかった。
『ああ、出張から帰ってきたら会おう。そのときは……夜を共に過ごしたいが、駄目か。』
「…良いよ。」
立香の声はすこしだけ震えた。久しぶりに政とゆっくり会える。今度こそきちんと聞こう。
部屋で直接落ち合う約束をして、ホテル名と部屋番号を聞いた。




▼▼


約束の日、立香はいつもより大人びた化粧と肌が露出したドレスを着た。時間の余裕はたっぷりあった。
上着を羽織り家を出ると……しばらくして、背後に誰かがいるのを感じた。前も同じようなことがあったが、いつもより近くに気配を感じる。しばらく前に「早めにホテルへ行く」とメールしておいたから政かもしれない。
勇気を出して振り返ると、そこに立っていたのは白い服に身を包んだ若い女性だった。
「………」
政ではないが女性だったことにホッとして、何事もなかったように再び立香は歩き出した。
「あのう、すみません」
今度は立香が女性に呼び止められる。「道に迷ったのですが、教えてもらえませんか?」
「いいですよ」
立香は二つ返事でこたえて女性の近くに寄った。手に持っている地図を覗き込んで、それが白紙であることに驚く。気付けば喉元にナイフが添えられていた。日本語で話しかけられた時点で怪しむべきだったのだ。
「貴様があの男の情婦か。連絡先を知っているだろう。すぐに呼び出せ」
「っ……」
掴まれた腕は女性から想像できないほど強い力だった。立香は震える手で電話をかける。ワンコールで政が出て、立香の代わりに女性が話した。
『女を捕まえた。迎えに来い』
それだけ言うと電話を切ってしまう。女性は血の気の引いた立香にナイフを向けたまま、近くに停めてあった黒いバンに彼女を乗せた。
「…男が来るまで静かにしろ。大人しくしなければ殺す。」



時計が半周しないうちに政は現れた。急いで来たのか息を切らしていた。数人の部下を引き連れてバンを取り囲む。
『――まさか本人が現れるとはな。この女がよほど大事とみえる。』
女性は立香の喉にナイフを突きつけながら車から降り立った。反対側のドアからも仲間が降りる。
政と女性、2つの陣営が睨み合った。
『女のために姿をさらすとは愚かな男だ。撃つなら撃て。女が蜂の巣になってもいいならな』
『…俺が狙いだろう。彼女を離せ。』
政は息を切らしていたが、その表情は驚くほど冷静だった。
『では解放するかわりに銃はすべて下させろ。武器を置いて、お前だけこちらへ来い』
彼は躊躇せず女性の指示を聞き入れた。武器を地面に置き、背後にいる部下にも降すよう言うと、ゆっくりこちらへ来る。目はじっと立香を見つめたまま。
『いいぞ…そのままこっちへ来い。ハ、こんな簡単に行くとは……』

政と立香の距離が数歩に近づいたときだった。
とつぜん、耳元で乾いた音がした。短く破裂するような音のあと、生暖かいものが立香の首筋にながれる。
振り返ると女のこめかみから血が流れていた。ナイフがからんと落ち、ずしりと重みが背中にのしかかる。
「――っ!」
悲鳴をあげた立香に政が覆いかぶさった。破裂音が重複し、誘拐犯たちに四方八方から弾丸が飛ぶ。一瞬の出来事。生臭い匂いに立香はくらりと目眩がした。


『…遅かったな、李書文』
恐ろしい音が止むと老人が物陰から姿をあらわした。同じく数人の男達があらわれ、銃口からは薄く煙がでている。
『政様がこんなに早く来られるとは。私が制圧したのを確認してから来るものとばかり。いやはや、女人とは恐ろしいですな』
『よくやった』
政が労いの言葉をかける。そして、しゃがんで小さくなっている立香に手を差し伸べた。
「立香、もう大丈夫だ」
「………」
立香は肩で息をしながら政の顔を見上げた。その瞳には戸惑いだけでなく、悲しみと疑いが滲んでいた。
「せ、い……どういうこと? 貴方は一体何者なの?」
地面に遺体が幾つもころがっていた。「どうしてこんなに冷静なの? 彼女…死んだのよね…」
「………。」
政の表情はうごかない。立香は恐ろしくなって後ずさった。まるで彼の手から逃げるように。
それを見ながら政は静かに息を吸い込んで言った。
「ああ、そうだ。――俺の正体は、今見た通りだ。」
立香が息をのむ。
政は思った。今の言葉で決定的に彼女の心は離れた。彼女のとった一連の言動を“拒絶”と受け取った。
「……騙してすまなかった。今日のことは忘れろ。」
「――…っ」
立香の口からは何の言葉も出てこない。
「二度と俺に近づくな。俺のことは全部忘れるんだ。」

立香に怪我がないことを確認すると政は立ち上がった。そのまま背を向けて歩いていく。
これ以上交わす言葉は無いというように。



▼▼


ホテルに帰ってから後始末を終えたという報告が入り、けだるい表情で政はソファに寝そべった。
やり場のない苛立ちが心の中で渦巻く。立香の体が手に入らなかったからではない。自分はマフィアの若頭なのに、軽率にも姿をさらして危険な交渉に応じた。李書文が間に合わなければ無傷ではなかったかもしれない。自分の行動に苛立っていた。
――お遊びもほどほどに。
李書文はずっと前から自分を諫めていた。うるさいと聞き流していたが命の危険と隣り合ってようやく理解する。
( なんという甘い行動をとったのだろう… )
ナイフを突きつけられた立香を見て冷静でいられなかった。それに、自分と関わった彼女が危険な目に合うことなど想定できたはずだ。
( 彼女には最初から手を出すべきではなかった… )
最後に見た彼女の表情を思い出す。戸惑い、悲しみ、拒絶。遊びで手を出すような女性ではなかった。
立香は遊びを知らなさすぎた。一途に想いを捧げられ、自分もそれが嫌ではなかった。いつの間にか真剣に応えていた。
( いつからそうなっていたのか )
おそらく、恋人のふりを始めたときから。最初から遊びになっていなかった。
( しかしこんな目に遭ったのだからもう懲り懲りだろう。恋も冷めるだろう )

彼女は自分より簡単に恋から抜け出せる。そう思って目を閉じようとしたとき、唐突にドアをノックする音が聞こえた。
わずかな期待に政はゆっくりと起き上がった。ドアの覗き穴から外を見る。そして、おぼつかない手でドアを開けた。


「……何故だ。どうして来た。」
最も会いたくて会うべきではない女性が立っていた。
「――政」
唇が自分の名をつむぐ。「部屋に入れて」

それは麻薬のような痺れをもたらす言葉だった。離れようとしたばかりだというのに。
「帰れ」 
政は声をふり絞った。
廊下に立っている立香は首を横にふる。不安げに瞳は揺れたが、彼から離そうとはしない。真っ直ぐな恋心が現れていた。
「忘れろと言っただろう。俺とお前じゃ交われない、住む世界が違うんだ。」
また、首を横にふった。
「……どうしてだ。普通、あんな目にあえば諦めるだろう。」
今度は愚かだというように立香を睨みつけた。見たことがない怖い表情に、彼女は震えながらも答えた。
「あのとき…貴方は危険をかえりみず、私を助けに来てくれたから。遊びで手を出したのではないと思ったから。」
「あのときは……」
政は口をつぐむ。そうだ、あの時は命がけで守ろうとした。だがその前は? 始めは体目的だったとは言えなかった。
彼女を突き離すためには言うべきだ。しかし傷つけたくないという思いが理性を上回る。信じようとする立香を、政は払い退けられない。
「もっと前であれば」
彼女は言った。
「貴方の本当の姿を知って離れることができた。…でも、もう無理だよ。貴方を好きになってしまったから」
「っ……」
震える首元にはダイアモンドが光っていた。
宝石言葉は――変わらぬ愛。政はすでに立香に想いを捧げていた。

政はとまどった。ここで彼女を抱き寄せてしまえば、自分はまた甘い行動をとってしまう。
だが彼の中で、かちりと何かが固まった気がした。政は強い瞳で立香をみつめた。
「いいのか?せっかく大学で勉強したのに、まっとうな人生は送れなくなるぞ」
「…うん。」
「こちらへ踏み込めば、戻ってこれないんだぞ」
「……うん。」
政は片手を差し出して、彼女を招き入れた。そしてゆっくりと引き寄せて唇を重ねる。腕を首にまわし、彼女の頭が逃げられないように捕らえた。

「お前が、自分の全てを俺にささげるなら、俺はお前が望むものをすべて与える。」

立香は微笑んでうなずいた。
政は仮面を脱ぎ捨て、支配者としての顔をあらわにした。





おぼろげな薄明が夜を溶かし始める頃。床には衣服が散らばり、ほどけた黒髪が白いシーツに広がっていた。政はゆっくりと上下する胸を見つめながら髪を一房すくい、唇をおとす。そして音を立てずに入ってきた老人にはっきりと言った。
「……李書文、俺は全土を手に入れるぞ。」
老人は「ほう」と片眉を上げる。
「ようやく本気になられましたか。香港一帯をおさめるというのですな」
「いいや、香港だけでは手ぬるい」政は李書文の言葉を否定した。
「彼女がこの世界で生きていけるよう、小競り合いを必要としない広大な支配圏を手に入れる。
 俺は“中国全土”に手を伸ばす。」
「カカ、それはけったいな野望だ。この老体も久しぶりに腕がなりますわい!」

――“住む世界が違う”?
だったら、俺の世界を変えてやろうじゃないか。


老人は青年の大きな野望に声を立てて笑った。



<俺とお前じゃ交われない>


不夜城企画への参加作品です。始皇帝の本名は(えいせい)。
頑張って広東語で書いたセリフが文字化けしたので、泣く泣く削りました。




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