コノートの女王



 クーフーリンの結婚から1年がたった。クーフーリンは生まれ持った戦いの才覚と、スカサハのもとで学んだ武芸を発揮し、アルスターを越えてその名を知られるようになっていた。
 かれの武勇の一つが、御者ロイグの操るいなずまのような戦車の疾走だ。戦車を引くのは黒い雄馬セイングレンドと、灰色の雌馬マハ――五年前にナマエとクーフーリンが救った――の二頭だった。
 ナマエも馬をあやつる能力を認められ、十五歳になると戦士の一員として受け入れられた。また彼女はマハの世話役としてだけでなく、それ以外にもクーフーリンにとって心強い味方になっていた。
 若く血気盛んなクーフーリンには冒険の機会が多く訪れた。その冒険の中で、美しい女性に出会って恋に発展するのは自然の流れだった。だがクーフーリンはすぐ恋に落ちるかわりに、じきにその新しい恋人を忘れてしまい、エウェルのところへ戻ってきた。そんなとき、ともすれば対立しかねないクーフーリンと女たちの間をとりもつのがナマエだった。
「まったく女の側におれの仲間がいてよかったよ」
 クーフーリンの言葉にナマエは苦笑した。こういうことに慣れっこになってしまい、ナマエは数えるのすらやめていた。
「だったら大事な仲間をわずらわせないように気をつかって欲しいものだわ」
 ナマエがすねたように言うと、クーフーリンは機嫌をとるために必ずこう言った。「まったく、ナマエなしでは、おれはやっていけないな」
 嬉しい言葉だった。ナマエは、女としてひと時で彼に忘れ去られてしまうよりも、仲間として側にいることを選んだのだ。だがその言葉を聞くたびに、ナマエの心には冷たい風が吹き込むのだった。


 そのころアルスターの隣国コノートでは争いの火種がくすぶっていた。
 コノートでは伝統的に王権は母から娘へとゆずられ、王は影の薄い存在だった。女王メイヴは、高貴な女性の例にたがわず、背が高く、気性は激しく、色白で金髪、自分の激しい意志のほかには何も意に介さなかった。そのメイヴ女王とアリル王が、どちらがより多くの財産をもっているかで、激しく言い争っていたのだ。結局ふたりの財産は互角で、ただひとつの違いは巨大な白い雄牛だった。この雄牛は、はじめは女王が所有していたのだが、あるとき自ら女王の群れを去って、アリル王の群れに入ってしまった。王は、雄牛は女に所有されるのを嫌ったのだと、メイヴをあざけった。メイヴは怒り狂って近習に命令した。アイルランドじゅうの草の根を分けても、同じくらい立派な雄牛を見つけてまいれ、と。
 その雄牛はすぐ見つかった。だが雄牛の住みかはコノートの国境からずっと遠く、近くにはクーフーリンが砦を構えていた。そこでメイヴがどう手に入れようか考えあぐねていたとき、フェルグスが城門に立っているという報告が飛びこんできた。フェルグスはアルスターの赤枝戦士団の一員だったが、あることをきっかけにコノール王と仲違いし、コノートの女王メイヴに仕えようと彼女の城にやってきたのだ。
 フェルグスとメイヴ女王とアリル王は手を組んで、何日何夜もしないうちに、アルスターに牛を強奪に行く計画を立てた。メイヴ女王にとっては戦争と危険ほど、好もしいものはなかった。戦争と、胸の高鳴る危険とは、七年物の蜜酒のように、メイヴを酔わせてくれるのだ。

 黒ヤギが生贄にされ、ハシバミの枝の一方の端がその血に浸され、もう一方の端は火で焼かれた。この枝をコノートの各地に回し、部族を召集するのだ。コノートじゅうから戦士や族長が自分の手勢を率いて集まってきた。かつてクーフーリンと兄弟の契りを交わしたフェルディアも、コノートの貴族の義務として、自分の手勢を連れてやってきた。だが戦士になったばかりの若い日に交わした、クーフーリンとの熱い誓いを思って心を痛めていた。
 刀鍛冶の鉄床では一日中、武器を打つ音が響き、コノート全体がスズメバチの巣のように低くうなりをあげていた。戦車は西の海からシャノン川まで、コノート全土を轟音を響かせて走った。

 コノートの戦闘準備は、ざわめき、うなり、そして青銅がぶつかる音となって、アルスターまで響いてきた。その響きは、遠くの丘で鳴る暗い雷鳴のようであり、暗い運命の予兆のようでもあった。それというのも何年も前のことだが、アルスターで、ある不吉な事件が起こった。人間の農夫と結婚した神族の女がいたのだが、その女性は出産間際で事件に巻き込まれ死んでしまった。死にぎわにこの女は、アルスターの男たちに呪いをかけたのだ。
「おまえたちがわたしに与えた苦しみを、おまえたち自身にふりかからせてやる。敵に襲われ、もっとも力を必要とするときに、おまえたちはまったく無力となるだろう」
 女の言葉どおり、アルスターの男たちは呪いにかかって衰弱していた。今、コノール王だけでなく息子、高名な戦士たち、農夫の男たちにいたるまで、槍を持ち上げることさえできずに、床でうめいていた。だがたったひとり、それに当てはまらない者がいた。その例外とはクーフーリンだ。なぜならクーフーリンは『太陽神』である父の血を受けついでおり、その血は、どんな呪いもはねのけたからだ。
 男たちを『大衰弱』が襲い、同時にアイルランドの四王国の軍勢が南に集結する地鳴りも聞こえてきた。クーフーリンはなにが起こったのかを察知した。男たちは寝床でうなっており、給仕する女たちはおろおろしている。
 クーフーリンは、御者のロイグの目を見つめた。ロイグはアルスターの生まれではなかったため(父が死んだあと、妹ナマエとともに人質としてアルスターに連れてこられた)、こちらもアルスターの呪いとは無縁だった。
「どうやら敵の軍勢が数日のうちに、攻めてくるらしい。その前にアルスターの全土へ警告を送らねば。開けた土地にいては危険だ。『大衰弱』にかかった戦士たちは、牛のようにただ殺されるのを待つばかりとなろう。
 戦士たちを深い森か峡谷へ逃し、敵の大軍をくいとめなければならない。わが友ロイグよ、今夜は忙しくなるぞ。 ナマエ、お前は女たちをまとめて、アルスターじゅうに警告を伝えてほしい」
 兄の後ろにいたナマエは、「分かっている」というように前へ進み出た。クーフーリンの指示を待つまでもなかった。赤い髪をゆらして部屋をでていく彼女の背に、「頼むぞ」とクーフーリンは短く言った。


 それは長い、長い夜だった。ナマエは女たちと一緒に、誰をどこに送るか決め、馬に乗れるものには遠くへ警告しに行ってもらった。いちばん遠くまで警告に行ったのはやはりナマエだった。夜闇にまぎれて森を走り抜け、狼や盗賊に遭遇する危険をかえりみずに彼女は走った。クーフーリンたちは時間をかせぐためにメイヴ軍が通りそうな場所に罠をしかけ、見事に一晩じゅうかれらを翻弄した。
 明け方、館に無事もどってきた三人は安堵の表情でたがいを抱きしめた。だがここからが、戦の本当の始まりだと三人とも分かっていた。
「アルスターの戦士で戦えるものは我々しかいない。できるだけ時を稼いで、戦士たちが戦えるようになるまで持ち堪えよう」クーフーリンが言った。「ナマエ、お前はここに残れ。戦いにはロイグとおれだけで行く」
「どうして? 戦士はひとりでも多い方がいいでしょう」
 ナマエはすっかり戦うつもりでいた。クーフーリンの言葉に動揺を隠せず、かれに向かって声を荒げる。クーフーリンは悲しげな表情でナマエを見た。
「いや。おまえが行ったら、誰がエウィン・ヴィハ(アルスターの首都)を守る? ここが落ちてしまったら、戦っている意味はなくなるんだ」
「だったらみんなで残ればいいわ」ナマエは言い返した。
「駄目だ。ここで戦えば、被害がかならず出る。ここにいる人たちを一切傷つけないために、おれとロイグは行くんだ」クーフーリンはじっとナマエをみつめた。
「いいか、ナマエ、ここには王や仲間、家族、おれのかけがえのないものがたくさんある。だが、おれは行かねばらならない。ナマエには、おれが直接守りたくてもまもれないものを守って欲しいんだ」
 まるでクーフーリンは、傷ついて倒れている人々が映っているような目をしていた。それでいてかれは強い意志をこめてナマエを見た。ナマエは何も言えなくなって、かれを見上げた。「……わかったわ」
 クーフーリンは安堵したように微笑む。彼の守りたいもののなかには、当然ナマエも入っていた。ともに連れて行かないことをこの少女はずっと気に病むだろう。だからいつものように、ナマエの機嫌をとるときのように言った。
「まったく、ナマエなしでは、おれはやっていけないな。…ありがとう」
 クーフーリンはこう言って、頭一つぶん低いナマエの頭に手をおいた。ナマエにはじんわりと彼の手の熱がつたわってきた。そっと赤毛の髪をなで、クーフーリンは兄のロイグとともに戦車の方へあるいていく。

「あなたが帰ってくるまで、ここは守り抜くわ。でも、あなたが負ければ私が勝てるはずがない――だから、必要であれば呼んで。すぐにそこへ行くから」

ナマエは聞こえるかどうか分からない声で呟いた。
……クーフーリンは分かっているのだろうか。ナマエにとっても、クーフーリンは失うことのできない人だということを。



――クーフーリンは御者ロイグ、セイングレンドとマハの二頭とともにコノート軍と戦い続けた――
 たった一台の戦車に、全軍が震えた。クーフーリンはそら恐ろしい闘争心に燃え、額からは英雄光を発し、黒い血が空に向かって噴きあがって、迫りくるような暗闇を頭上に作っていた。クーフーリンが神速の戦車に乗って迫ってくるその姿、その形相を見ただけで、あるときなどメイヴ軍の一部隊がそっくり、恐怖に凍りついて死んでしまったと言われている。
 そのあいだに冬のはじめだった季節は緑の季節へと変わりかけていた。メイヴ女王は絶望的になり、『休戦の枝』の名のもとに、クーフーリンに次々と使いを送った。ときには買収を試みた。だがクーフーリンは使者の面前で一笑に付し、新たな攻撃を御者ロイグに命じたのだった。
 ついにメイヴ女王とクーフーリンは、直接対面することになった。まるで剣で切ったような暗い暗い峡谷をはさんで、ふたりは向かいあった。幾度も条件を出し合い、取引を繰り返した。そして、クーフーリンがメイヴ軍にこれ以上危害をあたえないことを条件に、一日一人ずつ、クーフーリンのもとへ一騎打ちをする戦士を送ることを決めた。一騎打ちのあいだはメイヴ軍がアルスターに侵攻してもよい。だが一騎打ちが終わったら、その場で止まって次の日まで待たなければならない。メイヴは一日に戦士を百人失うよりは、ひとり失ったほうがましと考え、クーフーリンの条件を受け入れた。これが『浅瀬の攻防』のはじまりであった。
 攻防は、さらに数ヶ月にわたって続いた。浅瀬にはメイヴの息子をはじめフェルグスやおおぜいの戦士が送り込まれたが、クーフーリンはたった一人で戦い続けた。しだいにメイヴはたった一人のせいでこれほど動きがとれないでいることに、だんだん腹がたってきて、誓約をやぶって十人も二十人も送りこむようになった。おかげでクーフーリンはびっしりと包囲され、傷を負い、体力を使い果たして弱っていた。
 そして、最後に浅瀬にやってきた戦士は、すべての戦いのなかでもっとも苛酷な相手だった。
「フェルディア」
 クーフーリンはいつか『血の兄弟』の証をたてた友の名をよんだ。二人はそれぞれの側の土手に立って、たがいに相手を見た。「とうとう来たか、フェルディア。兄と信じたおまえなのに」クーフーリンの声が悲哀に満ちていた。「毎日、もしかしたら、と心配はしていた。だが心のうちでは、おまえは来ないだろうと望みをかけていた」
「来ないわけがない。おれは、ほかの者と同じコノートの戦士だぞ」フェルディアは乱暴に言い返した。
「ああ――だがスカサハのところで武芸を学んでいたときは、おれたちはどんなときも肩を並べて、ともに戦った。いっしょに狩りをし、ともに食事し、杯を分けあい、ひとつ寝床で眠りを分けあった。ちがうか?」
 フェルディアは泣いているような声をだした。「おれたちの友情のことは、もう言うな。ぜんぶ忘れるんだ! そんなものは、もう無用だ。聞こえたか、『アルスターの猛犬』?もう、無用だ!」


――フェルディアとクーフーリンは五日間戦った――
 その五日間、戦いが終わると、ふたりは浅瀬のまんなかに走り寄り、たがいの肩に腕をまわして抱き合った。そしていっしょにアルスター側の土手にもどった。夜、ふたりの戦士はたがいに傷の手当てをし、食糧を分けあい、ふたつの戦車の間に敷物を広げて、いっしょに眠った。彼らの御者もともにひとつの焚火で暖をとり、馬もともに冬のわずかな草を食んでいた。
 フェルディアはクーフーリンに、女王メイヴから誇りをかけて戦うようおどされたと明かした。戦わなければ、名誉永劫かれの名誉をおとしめてやると脅されたのだという。


 五日目の明け方、フェルディアは目を覚ましたときに、きょうが最後の戦いになるだろう、と予感した。クーフーリンが今日こそは魔の槍、ゲイ・ボルグを使うだろうと考えたからだ。武装し、浅瀬を渡ってコノートの陣地側に渡ると、突然、気分が高揚してきた。フェルディアは槍をかまえた。
 クーフーリンはフェルディアを浅瀬の自分の陣地でみていた。それから肩ごしに、御者のロイグに言った。「ロイグ、ひとつ頼みがある。もしおれが劣勢になったら、おれを馬鹿にして、怒らせてくれ。カッとすれば、おれは奮い立って死力を尽くすから」そういえば、初めて『跳躍の橋』を跳んだときに、フェルディアはまさにそうやって、自分に力を発揮させてくれたのだ。そう思うと、クーフーリンは女のように泣きたかった。

 そして二人は、すばらしい戦いぶりを互いに見せた。やがてクーフーリンは深い傷を負い、それ以上持ちこたえられなくなった。ついに、魔の槍『ゲイ・ボルグ』を投げろ、とロイグに叫んだ。
 フェルディアはすばやく槍を下ろして自分の胴体を守ろうとしたが、防げるものではなかった。クーフーリンはロイグが投げた魔の槍をつかむと、飛びあがって、フェルディアの盾の上側から、下に向かって突き刺した。槍は、フェルディアの腹の石を砕き、鎧を突き破って、腹と胸の間を深くえぐった。ついにフェルディアの偉大な心臓は破れ、その命が外へほとばしった。
「終わった」フェルディアは絶えだえに言った。「無念だ! おれの死はおまえのものだ、クーフーリン、おれの弟。おまえの勝ちだ!」
 クーフーリンはフェルディアが倒れたのを受けとめ、土手に運び――憎いコノートの岸で死なせないよう、アルスターの岸に――横たえた。海がいくつも押しよせてくるかのように耳がとどろき、目の前は闇となった。クーフーリンは、友の身体を両腕に抱いたまま、その上におおいかぶさった。
 クーフーリンはそのまま暗闇に沈んだ。メイヴ女王の軍勢がアルスターの谷間になだれこんでくる、ひづめの音も、勝利の戦歌をどなる声も、いっさい聞こえはしなかった。


――『炎の戦士クーフリン』より抜粋。一部省略の
   ため改変(名前の表記は本編と統一)




灰色の馬

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