分かれ道



 十五歳になるころには、クーフーリンは自力で、戦士たちのあいだに地位を築いていた。年かさの戦士たちも、文句のつけようがなかった。髪は黒く、細身の身体で華奢だったが、女たちは彼に熱をあげた。クーフーリンが行くところ、娘たちばかりか夫のいる女たちの目までが追いかけるので、アルスターの戦士や族長たちは気が気ではなく、クーフーリンに早くどこかの家の炉ばたから娘を連れだして、妻にするようにとせきたてた。
 クーフーリンも十分その気だった。ある日のこと……。ターラで三年に一度の大祭典に参加した折りに、クーフーリンはひとりの娘をとらえた。その娘はセグロカモメにまじった、たった一羽の白鳥のように、ほかの娘たちとはちがって見えた。
 クーフーリンは隣に座っているフェルグスの手首をつかみ、小声で尋ねた。「あの娘はだれです?」
 フェルグスは彼の視線の先を見て、答えた。「あれはエウェル姫だな。ルスカの領主フォルガルの娘だ」
「きれいだな」
「フム、たしかに美人だ。だがあれはやめておけ。あれの父親は力のあるドルイド(祭司)でな、娘を欲しいとやってくる男たちを、かたっぱしからひどい目にあわすので有名だぞ」
 クーフーリンはそれ以上何も言わなかったが、娘のことが頭から離れなかった。
 もしエウェルが簡単に手に入る女だったなら、クーフーリンは簡単にわすれてしまったかもしれない。しかし彼女を得るのは難しく、危険と知ったとたんに、アイルランドじゅうにどれほどの女がいようと、他の女は欲しくなくなった。自分に生きる喜びを与えてくれるのは、あの娘のほかにいない……。その夜じゅう、混み合った席のあいだを行き来する娘の姿を、じっと見つめていた。

 ターラで大祭典がおわった三日後のこと。フォルガルの館で、エウェル姫はリンゴの木立の下に座っていた。父の広間に飾るための絢爛とした壁掛けに、せっせと刺繍をしているところだった。
 そこに、遠くから轟音が響いてきた。侍女の一人がすばやく顔を上げて「雷かしら?」と言った。ところが空は晴れあがっており、りんごの枝の影がくっきりと色鮮やかな刺繍の上に落ちている。エウェルは言った。「早とちりだこと!あの音は、全速力で走る戦車の音だと思うけれど。クリーナ、防壁に登って、誰が来るのか見ておくれ」
 クリーナはさっと立ち上がり、手をかざして北をながめた。そのあいだにも雷鳴のような音はどんどんと近づき、馬のひづめと、戦車のガラガラという響きだとわかるようになった。
「確かに戦車です!アルスターの王の馬に似た、二頭のまだら馬が引いています」
「誰が乗っているのかみておくれ」エウェルが言った。
「わかりません――背の高い、赤毛の男です。――いっしょにいるのは――」
「だれ?」
「華奢な人――少年、いえ男です。暗い悲しそうな顔。でもアイルランドじゅうを探しても、これほど美しい男はおりますまい。深紅のマントを、肩のところで金のブローチで留めています。ああ、マントが風になびいて、まるで炎みたい。盾は銀の縁取りがあって金色の動物の絵が描いてある……」
「どうやら、アルスターのクーフーリンらしい。ターラの大広間で見かけたことがある。笑うとき以外は、いつも心のなかの悲しい音楽に耳をすませているようだった。……さあ、行って出迎えなければ。父上はお留守なのだから」

 馬の引く戦車が前庭に飛びこんできた。エウェルは杯を手に、前に進みでた。なみなみと飲み物を注いで、エウェルはにこやかにクーフーリンに差しだした。
「父はこの館を留守にしております。父に代わってわたしが、飲み物を差し上げましょう。ようこそおいでくださいました」
 エウェルは客に飲み物を出したものの、館のなかに入るようには言わなかった。
 ついにクーフーリンが言った。「なかに入れてはくれないのですか?」
「父は留守です。いつ帰るのか、わかりません」
「おれが会いたいのは、お父上ではありません。少なくとも今は、ちがう」
「ではだれに?」エウェルはなでしこの花のように頬をそめたが、クーフーリンから目をそらしはしなかった。
「あなたのほかに誰だと言うんです、エウェル?」
クーフーリンの暗い悲しそうな顔が突然明るくなって、笑いだした。「そのうえこの戦士は、美しい姫エウェルを、わが炉ばたに連れて帰りたいと願っています」
 エウェルは彫刻のある柱を後ろ手でさぐった。息が止まりそうで苦しかった。「その美しい姫とやらが、なにか自分自身で言いたいことがあるかもしれません」
 クーフーリンは彼女をはさむように、壁の両手に手をついた。こうして娘に触れることなく、娘を捕まえてから聞いた。「なんです?なにを言いたいんですか、エウェル」
 エウェルはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。「お聞きください、クーフーリン様。父はそう簡単には、わたしを手放しはしないでしょう。この館の戦士のなかには、あなたをひざで折れるほど手練れの者がおります。
 そう言っていいのは一人前の男だけで、まだ戦ったことのない少年が言うべきことではありませんわ。このエウェルの心を捕らえ、自分の炉ばたに連れて行こうという者は、それに見あうだけの強い戦士でなければなりません。そうなったら、またおいでくださいな、小さな猛犬さん」
 クーフーリンは壁から手を離し、彼女を自由にしてやった。それから一言も言わずに後ろを向き、戦車にもどった。

『炎の戦士クーフリン』より抜粋
(名前の表記は本編と統一)



 太陽が真上にあがる時刻だった。カッ、カッ、カッと蹄(ひづめ)で地面をかく音が厩舎に響く。マハが「腹がへった」と催促しているのだ。ナマエは口笛でこたえてやり、飼い葉桶に水とまぐさを入れてやった。
「お昼はこれだけよ。よく噛んでから飲みこんでね」
 ナマエが瀕死寸前の仔馬をすくってから約四年――小さな体で産まれたマハは、周りの心配をよそに立派な雌馬へと成長していた。いたずら好きで、かれを押して馬房のはじに寄せて掃除しようとするナマエにちょっかいを出す。水に濡れた鼻で彼女の腰のあたりをさぐり、りんごを持っていないか確認した。くすぐったい感触にナマエは笑った。
「やめて、マハ。また後であげるから」
 その日、ナマエは朝から少し熱っぽかった。兄のロイグと手分けして馬房の掃除をおわらせると腰を下ろす。ロイグは妹に声をかけた。
「今日は馬の運動を他の者に手伝ってもらって、休んだらどうだ」
「うん……そうする」
 兄の勧めに従い、ナマエは日の高いうちから炉ばたへ戻って休むことにした。厩舎のある丘を降り、館々のまえを通りかかると、女たちが館の中で刺繍をしているところが見え、はた織りの音もきこえてきた。
 同い年の女の子はせっせと母親を手伝っている。ナマエだってできないわけではない。ただ、とても退屈なのだ。母親のいない彼女を心配して、クーフーリンの養母であるフィンコム姫が刺繍を教えてくれたが、ちっとも上達しなかった。面白いと思わないから集中がもたないのだ。兄の手伝いを理由にやりかけの刺繍を放り出し、ナマエの心と身体は、いつも高い丘の上にあった。
 自分の館にたどり着くと、ナマエはブーツを脱いだだけで敷物のうえに重い体を投げ出した。これまでにないほどの倦怠感と深い眠りがおそってくる――…。


 夢の中で、ナマエは兄と馬に乗って戦車競走をしていた。どちらの育てた馬が速いか言いあっている。でも、兄は戦士のなかで一番といわれるほど馬の扱いに長けているのだ。彼は戦士になってすぐクーフーリンの御者になった。自分は、とうてい及ばない。
 クーフーリンの事をかんがえていると、兄の戦車にクーフーリンも乗っているのに気づいた。そのままナマエを突き放し、2人の戦車は遠くへ行ってしまう……。


 目が覚めると、足のあいだに気持ちの悪い感触があった。下履をめくったナマエは驚いて顔を赤くした。年上の女たちから聞いていたが、初めてのことだった。起き上がって乳母を呼ぶ。うろたえるナマエを見て、乳母はすぐに状況を理解した。
「ナマエ様、おめでとうございます。さっそくフィンコム様にお知らせしないと。さ、汚れたものは脱いでください。そのあいだに伝えて参りますから」
 人から人へ話が細波のように広がっていく事を、ナマエは他人事のように感じていた。同時にとても恐ろしかった。周りに知られてしまっては、もう後戻りできなくなってしまう。母親のように接してくれるフィンコム姫は、夕暮れにドルイドを連れてあらわれた。ドルイドから祝福をさずけられ、ナマエは居心地がわるそうに身動ぎした。
「ナマエ、おめでとう。これであなたも大人の女性の仲間入りです」
「………」
フィンコムはゆっくりとナマエに手を伸ばして髪をなでた。「艶やかで美しいこと。背中にひろげれば炎のように誇らかにかがやくでしょう。男たちは皆、あなたに注目するわ」
「でも、フィンコム様……私は宴の席で男たちに酒をそそいでまわる自分が想像できないわ。炉ばたに腰掛けて長いあいだ刺繍をすることも苦手だし」
「はじめは誰だって女性としての自覚はないわ」フィンコムは言った。「ねえ、ナマエ……もう馬の世話に行くのはやめたらどうかしら」
「どうして?マハは、私でないとなかなか馬房から外へ出てこないのよ」
 とまどいつつも、ナマエはいつかこんな話をされると分かっていた。
「あなたのような女の子がやることではないわ」
「アルスターの戦士には女の人もいたでしょう? 私がなってもおかしくないわ」
 自分の娘のように慈しんできた少女をフィンコムは優しく見つめる。しばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「……よくお聞きなさい、ナマエ。女の戦士として生きるのも悪くないと思うわ。でも戦士になるなら、男達と同じように振舞わなければならない。同じように怒り、奪い、王が命じれば従わなければならない。何より誇りのためなら自分を犠牲にしても戦わなければならないのよ。そうなったら、女の幸せは二の次になる。
 女の幸せとは、自分の大切なものを大事にできること。男達が帰ってくる家を守り、日常のささいな変化を楽しむ。平凡でもそれが女の幸せなの。それを捨ててまで、男達と一緒に戦う必要があるとは思わないわ」
「でも、私は刺繍や布を織るより、剣の練習や馬の世話のほうが楽しい」ナマエは言った。
「今はそうでしょう。いつかあなたにも女の幸せが分かるようになるわ」
 フィンコムの声は柔らかく、それでいて岩のように動かない真実を語っているようだった。ナマエは納得がいかなかったが、気迫におされおずおずと頷いた。裾の長いドレスのなかで足をそっと動かす。馬の世話をしているときに履くズボンよりも、ずっと動かしづらい。だがこの感触にも慣れていかなければならないのだ。


 夜になると兄のロイグが戻ってきた。食事をとりながら、何かあったのか興奮して頬があからんでいた。「午後にフォルガルの館に行ったんだ」
「どうして?何の用があったの?」
「俺じゃない。クーフーリンだよ」ロイグはこたえた。「エウェル姫に会いにいったんだ」
「エウェル姫……」

 ナマエは意図を理解して口をつぐんだ。息が苦しくなって、新鮮な空気を吸おうと外へ出た。
 館の外に出ると焚き火があって、クーフーリンその人が腰を下ろして火を囲んでいた。声をかけようとしたが、何かを考えているのか、横顔は悲しげで黙って炎をみつめている。何を考えているのか……ナマエは聞くのが怖くなって、何も見なかったというように焚き火のそばを通り過ぎた。

――置いていかれる。昼間の夢がまだ続いているようで、ナマエは闇雲に、館のまわりをさまよった。



※この物語にかかれる女性観は当時の感覚を想像して書いたものです。作者や現代の考えとは異なります。




灰色の馬

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