仔馬



アルスターの大英雄、クーフーリンの名前なら誰もが聞いたことがあるだろう。
もし知らないならアイルランド、ウェールズ、スコットランドの友人に聞いてみるといい。きっと軽い気持ちで聞いたことを後悔するほど彼らは熱心に語ってくれるだろうから。

ある者は、華やかな英雄同士の戦いを。美しく壮絶な英雄の最期を。
今からお話しするのはクーフーリンの物語の一端だ。



 はるか昔、アイルランドは五つの小国に分かれていた。アルスター、マンスター、コノート、レンスター、ターラ。クーフーリンの故郷アルスターはもちろん、彼が最後に戦ったコノートの名前はおぼえておくとよい。
 アルスターにコノールという若い王がいた。王の一族にデヒテラという姫がいて、この姫は夏至の日にこつぜんと姿を消した。何日ものあいだコノート王と戦士たちは姫を探したが、一本の金髪すら見つけることができなかった。
 やがて三年の月日が過ぎ、デヒテラ姫のことはすっかり忘れ去られてしまった。だがまたもや夏至の夕べのこと、王の命令で害鳥退治にでかけていたフェルグスは、霧の中に人の形の光をみた。金色に輝く美しい姿で、あまりのまばゆさにフェルグスはこの方こそ太陽神にちがいないと思った。その太陽神に影のようにつきそう女性の姿……。
 フェルグスはその女性が消えたデヒテラ姫であることに気づいた。彼がよびかけると、デヒテラ姫は微笑んだが、彼に仲間のもとへもどるよう伝えるとふたたび霧の中に消えてしまった。
急いでフェルグスは戦士たちのところへ駆け戻り、もういちど姫をさがしたが姿はなかった。しかたなく焚火のまわりに集まって待っているうちにひとり、またひとりと、ぐっすり眠りこんでしまった。
 朝のみずみずしい光と舞い上がる鳥の声で、戦士たちは目を覚ました。そして自分たちのまんなかに置かれたものを見つけて、目を丸くした。柔らかな鹿皮にくるまれ、声をはり上げて泣いているのは生まれたばかりの男子の赤ん坊ではないか。
 これこそデヒテラ姫の贈り物にちがいない。フェルグスは盾を持つ腕に赤ん坊を抱いて、エウィン・ヴィハ(古代アルスターの首都)の城へと連れ帰った。


 命名の日がくると、拾われた赤ん坊はセタンタと名付けられた。母親がいないことなど気にすることなく、王の間の出入り口で、乳兄弟のコナルと猟犬の子犬たちと一緒に転げまわって遊んでいた。
 七つの夏を迎えたころ、セタンタが少年組に入る時がやってきた。アルスターの族長や貴人の息子たちは皆、少年組で学び、戦士になる訓練を受ける。セタンタは生涯を通じて三人の大切な友を持つことになるのだが、そのふたりめの友、ロイグと少年組で出会った。
 ロイグはセタンタより一歳年上で、背が高く赤毛だった。わずか八歳だというのに馬の扱いが並外れてたくみで、どんな馬もロイグが耳元でなにかをささやくだけで大人しくなった。そのロイグには三歳年下の妹がいた。兄と同じく赤毛ですばしっこく、セタンタとロイグが一緒にいるときは自分もいるのが当然、というように二人につきまとった。
「ナマエ、おれたちについてくるな。男同士の遊びができないんだ」ロイグが言った。
「気にしないでやってくれよ。お前がおれにとられて悔しいんだろう」
 セタンタは兄がとられて悔しいのだと思ったが、それはまったくの勘違いだった。妹は兄にセタンタをとられて悔しかったのだ。それに気づかないままセタンタはナマエに接し、彼女が自分と剣を交えたがるのも兄が恋しいからだと思っていた。
「さあ勝負よ。セタンタ、手加減なんかしないでね」
「女に剣が使えるか。お前、足が生まれたての仔馬みたいに震えてるじゃないか」
 せかされてしぶしぶセタンタは剣をかまえたが、小さな女の子に剣をふりおろすほど子供ではなかった。めちゃくちゃな剣さばきを受け流すと、ナマエの剣をはじいた。すると彼女はやけになってセタンタの腰にしがみつき、彼を地面に押したおそうとした。今度はセタンタがナマエを片手で地面におしつける。彼女は「女に手をあげるなんて卑怯だわ」と言った。
「まったくお前は……調子の良い時だけ、女と男を使い分ける。いいかげん、どちらかにしたらどうだ」セタンタはナマエを解放した。
「私は、男でも女でもなくナマエよ。セタンタ、あなたの負け!」
 彼女は走って剣を拾うと、彼の喉元に剣をつきつけた。セタンタはしかたなく両手をあげた。すると彼女はほこらしげに胸を張るのだった。


 ある日のこと、おだやかではない表情でナマエが少年組の練習場へ駆けこんできた。兄のロイグを呼んで「産馬が落ち着かないから早く来てほしい」とせがむ。彼と取組みをしていたセタンタも共に厩舎へ足をはこぶと、大きな雌馬が横たわっていた。足元にはまだ羊膜につつまれた仔馬の姿があった。
 ロイグが耳元でささやきかけたが、雌馬は不安そうな目でいななく。よく見ると股からはもう一組の足が出ていた。母馬の身にやどったのは双子だった。介助しようと進み出たナマエを、大人が止めて首を振った。
「双子の出産はむずかしい。無事に一頭産まれただけでも幸運だ。二頭目は死産か未熟児の可能性が高い」
「だったら余計に助けてあげなきゃ」
「駄目だ。胎盤が子宮から自然とはがれるように、人間が手を出してはいけないんだよ」
 雌馬は力をふりしぼってもう一頭を押しだそうとした。仔馬の頭、前足から肩まで、外気にふれた。だがそこで力尽きて首を地面に横たえる。何度か息もうとしたが、それ以上出ていかない。
 そのまま半刻も過ぎただろうか。見守っていたセタンタはとても長く感じた。兄の腕にしがみついて泣いていたナマエが、弱々しい声で言った。
「お母さんのお腹から出られないままだと、仔馬のお腹が締め付けられて死んじゃうんでしょ。だったら手伝ってもいいじゃない。せめてお腹から出してあげたいの」
 大人たちはナマエの進む先をそっと開けた。彼女は馬が暴れないようにゆっくり近づき、外に出ている仔馬の足をつかむ。母体に負担をかけないよう、介助はすばやく終わらせなくてはならない。だがナマエは命の責任を前にして足が震えていた。それに気づいたセタンタは自然とナマエに近付いて、彼女の肩に手を置いた。
「おれも手伝うよ」
 仔馬の足をつかんだナマエの手に、セタンタは手を重ねた。二人で呼吸をあわせて一気に足を引く。ずるりと生々しい感触が腕に伝わり、暖かい仔馬が産み落とされた。
 人々は産まれたばかりの仔馬を見守る。ふつうなら、数十秒も経たないうちに仔馬は自力で羊膜をやぶり呼吸を開始するのだ。だが、ぴくりとも動かない。
 するとナマエは仔馬のもとにしゃがみこみ、鼻孔から羊膜を指でかき出すと口をあてて、息を吹きこんだ。何度も、何度も、ふいごのように懸命に息を吸い込んでは送りこむ。小さな体は耳まで真っ赤になっていた。やがて仔馬の胸がふくらみ、ぴくりと震えた。ぶるぶると震え、仔馬は息を吐き返す。
「ナマエ、よくやった。お腹をさすってあげなさい」
 馬房に明るい声が満ちた。セタンタは清潔なわらを差し出し、ナマエはそれで仔馬の腹をさすった。呼吸をうながすためだ。少しすると仔馬は目をひらき、はじめてみた光をぼんやりと見つめた。弱々しい動きで、前脚をたぐる。
 ナマエが離れると仔馬はいななきながら前脚をうごかし、羊膜から自力ででた。ほっとしてよろめいた彼女を、兄のロイグが支えた。

 こうして仔馬は無事に産まれたが、体は小さくてか弱く、体重も兄馬の半分ほどしかなかった。ナマエは仔馬の世話役をかってでて半月ほど馬房の中で寝た。その間、仔馬が母馬の乳房にありつけるよう前脚をもちあげて支えたり、体が冷えないよう何度も腹をさすった。
 すると彼女の思いが届いたように仔馬は日に日に強くなった。半年もすると、兄馬と一緒に離乳できるほど健康にそだち、母馬のうしろで尻尾をふり軽やかな足取りで草原を走っていた。
「マハ」
 ナマエの呼びかけに、灰色の若馬は跳ね上がりながらそばに歩み寄ってくる。彼女が首すじをなでると目を細めながら頭を上に伸ばし、短くいなないた。
「無事に大きくなったようだな」
 緑のふちの向こうから歩いてきたセタンタ――もうその頃にはクーフーリンという名で呼ばれるようになっていたが……を目の端にとめて、ナマエはお辞儀した。
「今日は勝負しようと言ってこないのか」
「あなたは一人前の戦士になったのだもの」彼女は言った。「お礼を言っていなかったわ。この子を一緒に助けてくれてありがとう」
「ああ」
クーフーリンは頭ひとつぶん小さい少女を見下ろして言った。「見事だった。あのとき、おれはお前に負けてしまった」
「最初からあなたに勝てるだなんて思ってないわ」

 ナマエは微笑んだ。その前からずっと、彼女の心はクーフーリンのものだった。


※厩舎… 馬や牛を飼う小屋のこと。一頭ずつの部屋を“馬房”という。




灰色の馬

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