3 魔女の籠絡
ライダーが校内に結界を張る数日前。名前は本を開きながら悩んでいた。
ギリシア三大悲劇詩人エウリピデスの書いた『メディア』。
あらすじはこうだ。
コルキスの王女メディアは、アルゴー号に乗ってきたイアルコスの王子イアソンに恋をする。彼を助けるためメディアは父を裏切り、追手から逃れようと弟をも犠牲にした。苦難の末イアソンとイアルコスにやってきたメディアだが、彼を王にするため更に罪を重ねていく。
しかし以前よりメディアの愛情の激しさに戦慄していたイアソンは、彼女と別れコリントの王女グラウケーと結婚しようと考える。それを知ったメディアはグラウケーに花嫁衣装を贈るが、グラウケーがそれを着た途端に紅蓮の炎と化し、娘を助けようと駆け寄った父王もろとも焼け死んだ。そしてメディアはイアソンとの間に生まれた自分の子供まで殺し、 龍の引く戦車に乗ってイアルコスを去る……。
魔女と名高いメディアだが、これはどう考えてもイアソンが悪いと名前は思った。
彼女が聖杯にかける望みは何だろう。
――イアソンへの復讐。
でも彼女は結婚相手と子供を殺すことで復讐を果たしている。最終的に彼には手を下さず去った。
――すべてをなかったことにすることだろうか。
ありうる。
――もしくは、生前手に入らなかったもの。
……誠実な相手からの想い。
名前がルーラーとして対処しなければならないサーヴァントのなかで最も優先度が高かったのはキャスターだ。冬木市で頻発しているガス漏れ事故。その犯人がキャスターであることを『知覚能力』で把握していたが、うかつに手を出せば瞬殺されてしまう。
だからこそ強さ勝負ではない方法で手を打つ必要があった。
「葛木先生。お願いされていた本が図書館に届いていますよ」
「ああ、名字さん。早くて助かる。」
社会科教師の葛木宗一郎。実直と寡黙を絵に描いたような彼がキャスターのマスターである。そして聖杯戦争で亡くなる人物だ。
彼が魔術回路を持たない一般人であり、真っ当な生き方をしていないことに名前は気づいていた。
「あつかましいですがこちらの本もお勧めです」
「それは以前読んでいた本の続編だ。よく知っているな」
「たまたまですよ」
過去の貸出歴から調べたことは黙っておく。少しだけ表情をゆるめた宗一郎を名前は笑顔で見送った。本の中に小細工をしこんで。
「キャスター、お前が興味を持ちそうな本を借りてきた」
「ありがとうございます、宗一郎様」
キャスターは本を受け取ると嬉しそうに微笑んだ。宗一郎はそれを目にすると満足げに部屋を出ていく。
彼女がゆっくり本をめくっていると、可愛らしい押し花のしおりが挟まれていた。「これは……?」
スーツを脱いで部屋に戻ってきた宗一郎にキャスターは尋ねた。
「宗一郎様、このようなしおりが挟まれていたのですけれど」
「ああ…司書の名字さんのものだろう。この本を勧めてくれたんだ」
「そうなんですか…」
ずいぶん仲がよろしいんですこと、という言葉をキャスターは呑み込んだ。
宗一郎との会話に女性が出てくることは無い。初めて出てきた女性らしき人物に心がざわつくのを感じた。
……宗一郎は、私に同情してくれているだけなのだから。
「そういえば、名字さんからこのようなものを貰ったな」
宗一郎がとりだしたのは水族館のチケットだった。「仲の良い異性と行くといいと勧めてくれたのだが…」
あいにくと私には居ない。そっぽを向きながら言った彼を、キャスターは控えめな声で呼び止めた。
「あのう…」
「………」
黙ったまま宗一郎の手に握られたチケットに、キャスターは俯きながらそっと触れた。
「偵察に参りましょう。そ、宗一郎様にお時間があればですが。」
宗一郎はふだん血の気の少ない頬を染めて頷いた。キャスターは“名字さん”という女性に好意を抱いた。
「葛木先生、おはようございます」
「ああ、名字さんおはよう」
廊下ですれ違った宗一郎に名前は言った。「先日お渡しした水族館、今週末にイベントがあるそうですよ」
「そうか、ちょうど今週末に連れ合いと行くことにした」
「良かった。日曜日の午後がお勧めですよ」
“良かった”と言ったのは、名前の小細工に2人がのったからだ。イルカショーやペンギンのお散歩についての情報を差し込み、名前はお辞儀して図書館へ戻る。
カウンターに座ると館内に誰も居ないことを確認し、電話の受話器に耳に当てた。
「…急にごめんね。今度の日曜日、少し付き合ってくれないかな」
日曜日。一般人の服装を着たキャスターと宗一郎は人混みの中を歩いていた。はぐれないよう並んで歩く姿は初々しく、とても戦いの最中にいるようには見えなかった。
すると、後ろから「葛木先生」と声が聞こえる。先生と呼ばれて宗一郎が振り返ると、黒髪でメガネの小柄な女性がにっこり笑って立っていた。
「…名字くんも水族館に来ていたのか」
「こんなところで奇遇ですね。」
「ああ。世間は狭いな」
来るように仕向けたのは自分なのだが。しれっと言った名前は、隣で静かにしている女性にお辞儀をした。『真名看破』の力で女性がキャスターであることを確認する。
「こんにちは、同僚の名字です。葛木先生にはいつもお世話になっています」
「ええ、こちらこそ……」
名前は明らかに気落ちしている女性を見ながら言った。
「友達と来たんですけどはぐれてしまって。よかったら一緒に回ってもいいですか?」
「……!」
(ごめんキャスター。はやく葛木先生とくっついてもらわないといけないから…)
名前は大きな賭けに出ていた。
力でキャスターを止めることができないなら、彼女が聖杯に願うかもしれない望みに期待をかける。
生前は得られなかった“誠実な相手からの思い”に。
そんな無謀な作戦をとった理由は、ガス漏れ事故で死者が出ていないこと、『メディア』で語られた彼女の引き際の潔さからだった。
……キャスターは冷静な部分がある。望みが叶えば、戦う目的を失ったキャスターは説得に応じるかもしれない。
この短期間で難しかったが、葛木宗一郎のまんざらではない反応をみて賭けに出た。自分が女性かつ同僚であることを生かし、気配遮断で一般人のふりをして2人を直接近づけようと考えたのだ。
( 正体がバレる危険性があるけれど……)
せっかくの強みを捨ててしまうかもしれなかった。でも手駒がない名前には他の手段が思いつかなかった。
――気配遮断の能力はどれぐらい正体を隠してくれるのだろう。
――戦闘になったら逃げられないかもしれない。
不安と嫉妬の眼差しを感じながら、名前は宗一郎のとなりを陣取った。