10 命乞いの選択


亡き妻クラウディアは病弱で信仰心に厚く、綺礼のような歪んだ人物を癒そうとした聖女だった。
23歳の綺礼は、平穏な家庭を持てば一般的な幸せを手に入れられるかもしれないと思った。彼女とは2年連れ添い子供も生まれた。それでも綺礼は幸せを実感することができなかった。
絶望した綺礼は彼女を呼んで謝罪した。自分は幸せを、救いを、得られるような人間ではなかった。私のような人間に付き合わせたことを申し訳なく思う、と。
――私が綺礼を救ってあげる。
自分の命が永くないことを悟っていたからだろう。優しく言った彼女は、綺礼の前でためらうことなく命を絶った。
私は貴方のために命をかけられる。そして、貴方が私の死に少しでも胸を痛めたなら私を愛していた証拠なのだと。
綺礼が人を愛せる、生きる価値のある人だと証明するために。


妻の亡骸を目にした綺礼は確かに悲しくなった。だが胸は浮かんだのは「どうせ死ぬなら自分の手で殺したかった」という全く違った考えだった。
そのとき、綺礼は真に絶望した。
――自分の本質はゆがんでいる。妻の死すら自分を変えることはできないのだ。
これでは彼女の死が無駄なものになってしまう。綺礼は妻の死について考えないようにした。そして聖杯戦争に参加し、ギルガメッシュに愉悦について問われるまで、彼の仮面は生きていたのだ。
ギルガメッシュから「お前は自分の本当の姿を理解していないから、愉悦の心に気付かないだけだ」と諭されるまで。

――自分を偽って生きてきた日々は何だったのだろう。他の人と同じように感情を得られると期待して生きていた自分は、なんと愚かだったのだろう。
仮面を脱ぎ捨て不幸に愉悦をおぼえる自分を受け入れたとき、綺礼ははじめて深く息を吸うことができた。




今、まさに。
黒鍵を突きつけている女性は、綺礼を“救おう”とする人だった。自分を救おうとする人間は死んでしまう。なぜこんな皮肉なことを繰り返すのか。
――しかし今日は違う。自分の手で殺すことが叶うのだから。
綺礼の胸は奇妙に高揚していた。これで愚かだった頃に自分を戻そうとする人間はいなくなる。過去の自分と決別し、これまでと違う人生を歩むことになるのだ。
――殺せ。お前の生きる悦びは、愉悦を求めることなのだから。


「綺礼」
名前の声は不思議なほど響いて聞こえた。
「私が死んだら貴方は救われるの?」


一瞬、亡き妻クラウディアが重なってみえた。父璃正の姿も蘇った。
綺礼は思った。
――そうだ。私を救うために、解放するために死んでくれ。
黒鍵を握る手に力が入る。ところが、名前の言葉は綺礼の脳裏をかき乱した。

「私を殺しても、貴方は救われないわ。」
「…名前…っ」

喉元を刃にさらした女性ははっきりと否定をする。綺礼は腹立たしいと思った。
――同じ言葉。同じ思い。それなのに意図は全く違う。この女はクラウディアと違い、生きて私を救おうとしているのだ。

「無駄だ。私を救うことなどできない」
「どうして無駄だと思うの?」名前は真っ直ぐに問うた。
「私自身が救われたいと思っていないからだ」

綺礼は冷たく言い返す。
――なぜ、彼女はそこまでして自分を救おうとするのだろう。
醜い姿を目にして、命を奪われかけて。どうしてこの状況で、彼女はまだ私を救おうとしているのだ。
「名前……貴様は偽善的だ。どうして私が望んでいない救いを与えようとする?とっくの昔にそんな思いは捨てた。今の私をみて、どうして救いたいなどと思うのだ。」
気付くとそんな言葉が綺麗の口からこぼれていた。その問いの相手は名前だけでなく、亡き妻や父に言ったのかもしれなかった。
――醜い自分を救う理由などない。聖人のような彼らが救う存在ではない。
さあ、絶望して命を差し出せ。
すると名前は小さく微笑みを浮かべた。弱々しく、簡単につぶせそうな笑顔。それでも瞳は綺礼に向けられていた。

「だって……私はずっと貴方が本当の気持ちを隠していることを知っていたから」
彼女の頬に一筋のしずくがこぼれた。「だから今の貴方を見ても、気持ちは変わらない。あなたが好きなの」
それは黒鍵の刃に落ちた。「ずっと気付いていたと言うのか」
「ええ、たぶん璃正さんもね」

その事実に綺礼の心は震えた。自分がかぶっていた仮面は透けていたのだ。醜い姿は見えていたのに、それでもなお彼女は。

「小さい頃から気づいていた。それでも精一杯接してくれる貴方を好きになったの」
「は…っ、わかった上で、と言うのか……」
「ええ、側にいる。そばにいて貴方を救う」

醜い自分を知った上で手を差し伸べる人間。
それでもそばにいると言う人。
綺礼の手は震えた。彼女を殺せば、自分は本当に救いから決別することになる。
――これで、いいのだろうか。
おそらくそれは綺礼が愉悦を受け入れて以来、初めて生じた迷いだった。愉悦のみを求めて生きた十年で、はじめて立ち止まった。
――この戦争が終わった後、お前はどうするつもりだ?
ギルガメッシュに聞かれた問いが急に思い出された。聖杯戦争のあとに生きることなど考えていなかった。そのとき、自分はどうやって生きていくのか――…

彼女を失うことは正しい選択なのか。
綺礼の手が震えた。

「……名前、お前が気付いていたと言うのなら、」
綺礼は深く息を吸い込むと、言った。「私の苦しみにも気づいていたのではないか?希望を持って生きることは苦しかった。わたしは希望を捨て、他人の不幸を愉悦だと感じる自分を受け入れて楽になったのだ。」
それが彼にできる精一杯の返答だった。名前の告白に対しての。
「綺礼…」
名前は瞳に彼を映しながら言った。
「それでも、どうか信じて欲しいの。希望を持って生きることは、苦しくても不幸ではないわ。
 私は、貴方が他人の不幸を愉悦だと感じるのは自分の苦しみを忘れたいからじゃないかと思う。でも今度は違う。私が側にいて苦しみをもらってあげるから……」

「そんなもの…所詮、理想論だ……」
彼女の願いと美しい理想は、確かに醜い男の心を揺さぶった。しかし綺礼は目を閉じた。そして、耳も、心も閉じようとした。
――さあ、殺せ。
彼女を殺すことで、過去の自分と決別する。喉元を裂くだけで彼女は何も言わなくなる。
黒鍵の刃が切り裂いた。



「そこまでだ、言峰!!」
現実の世界に引き戻したのは衛宮士郎の声だった。黒鍵の刃が乱れ、名前の黒髪がいくつか地面に散る。
綺礼は名前を地面に突き飛ばした。決断できなかった自分に怒り、邪魔をした衛宮士郎を睨む。そして、聖杯を守るために背を向けて去っていく。
「待て!」
男を追うべきか、女性を助けるべきか。動揺する士郎に、ことの成り行きをつまらなさそうに見ていたアーチャーが言葉を発した。
「雑種――もし言峰に用があるなら、早々に消えろ。聖杯にも穴が空いたころだぞ。」
「っ……」
士郎は周囲に視線を走らせセイバーに目で合図すると、綺礼を追って走り出した。


士郎が走り出したと同時に、突き飛ばされた名前の元にキャスターが駆け寄った。地面に膝をついた彼女が大きな怪我をしていないことを確認し、ほっと安堵する。
無事を確認すると、キャスターは表情をひきしめ剣を構えているセイバーの横に立った。
目の前には強大な敵。だが、迎え撃つのはセイバーとキャスターの2騎。キャスターはふたたび魔法陣を空中に浮かび上がらせた。
「アーチャー…この状況は貴方でも余裕が無いのではないかしら?」
キャスターは額に汗を浮かべながらも不敵に言った。



衛宮士郎は言峰綺礼を追って寺内を走った。まがまがしい邪気を放つ黒点が天に浮かび、どこに向かって走るかは明白だ。
やがて黒点の真下にたどり着く。黒点は大きな口をひろげ、その中央にイリヤスフィールが縛られて浮かんでいる。
「イリヤを下ろせ!」
「それは出来ない相談だな。聖杯は現れたがその穴は不安定だ。接点となる彼女には、命のある限り耐えてもらわねば私の願いが叶わない。」
綺礼は冷笑を浮かべながら前へ進み出た。
「なぜそんなことをする?」士郎は怒りに満ちた目で睨む。
綺礼は冷ややかに返した。
「…強いて言えば娯楽だよ。お前たちが平穏を糧とするように、この身は命の光を食べて生きている。十年前の火災は悪くなかった。あのような地獄にこそ魂はきらめく。
いびつな形であるが、私ほど人間を愛しているものはいない。ゆえに私ほど聖杯にふさわしい人間は居まい。」
「そうか……よく分かった。お前は俺たちとは違うんだってな…!」

士郎は一心不乱に走り、綺礼との距離をつめた。聖杯からあふれた泥が彼の疾走を阻む。士郎が、自分を破壊しようとしていることを分かっているかのように。



サーヴァント同士の戦いも幕が切って落とされていた。
「ほお…これでは前回の焼き直しだな。よもや無策というわけではあるまい?」
キャスターからの攻撃を防ぎつつも、アーチャーはセイバーの攻撃を受け流す。セイバーは体格差のある敵に苦戦しながら彼を剣術で追い詰め、アーチャーの剣を吹き飛ばした。
「ふん」
彼女たちの必死の戦いをあざわらうかのように、アーチャーは武器を無尽蔵に取り出した。



聖杯の泥は空を切り、士郎を狙って飛んでくる。いっこうに綺礼との間合いは縮まらなかった。
「お前の生きた年数と私の年数では大きな開きがある。何かで掛け算しない限り、埋められる差ではあるまい!」
士郎は必死に泥を避けたが、無数の泥が縦横無尽に飛び散り体についた。とたんに泥の触れた場所から激しい痛みが生じ士郎は叫ぶ。焼けつくような痛みに意識が朦朧とし、士郎の手足にも泥がまとわりついて身動きできなくなる。
身動きできなくなった彼を、綺礼は嘲笑った。
「貴様も衛宮切嗣と同じような末路を辿るといい!」
綺礼はその手で聖杯の泥を受け止めると、呪いの言葉とともに士郎へ泥を投げつけた。



柳洞寺内ではアーチャーの宝具『エヌマ・エリシュ』によって、セイバーは大傷を負い立ち上がれなくなっていた。周囲は焼け焦げて廃墟となってしまっている。
「…向こうの戦いも決着がついたようだ。言峰は極大の呪いを聖杯から直接呼び出した。お前のマスターはもはやこの世に居まい。」
いいや、とセイバーは力を振り絞って彼を睨みつけた。
「士郎はまだ生きている。私は貴様になど負けぬし、士郎はあのような男に負けはしない。…私は誰のものにもならない!私は女である前に、王であるのだから…!」
セイバーの気迫にアーチャーは口元をゆがめた。ふたたび乖離剣エアを構え直し、息絶え絶えになっている彼女に向ける。
「…どうやら決定的な敗北でないと納得がいかないとみえる。覚悟しろ。」
圧倒的な力の差に敗北がみえかけたときだった。
「――覚悟するのはあなたの方よ、アーチャー!」
アーチャーの足元に魔法陣が出現する。エヌマ・エリシュの破壊で姿を消したキャスターが、彼の意識がセイバーへ逸れている間に強力な捕縛の魔術を組み上げていたのだ。
エアは弾き飛ばされ地面に落ち、彼の手足に糸がからまる。

「おのれっ…邪魔立てするとは……」
「セイバー、立てる?貴方の宝具でアーチャーを始末するのよ」
「ああ…っ」
セイバーは立ち上がった。アーチャーへの怒りで最後の力をかき集め、聖剣に力がゆきわたる。黄金のまぶしい煌きが夜闇を照らす。

「英雄王よ、覚悟するがいい」
「待て……!」

彼はキャスターの後ろにひそんでいる名前に目をやると、低い声でこう言った。
「女、いいことを教えてやろうか。貴様が救おうとしている言峰綺礼は十年前、セイバーのマスターであった男に心臓を撃たれて死んでいるのだ」
「………?」
「死んだはずの男がなぜ生きているか分かるか。サーヴァントだった我が聖杯の泥で受肉し、現存しているからだ。我が居なくなれば綺礼は死ぬぞ。」
その場にいた全員が息を呑んだ。名前はアーチャーの言葉に目を見開き、セイバーに本当かと視線をやる。セイバーは分からない、というふうに首を振ったが、否定はしなかった。
アーチャーは名前達の戸惑いに笑みを浮かべた。
「…嘘だと思うなら、我を殺せ。その場合はお前が救おうとした男も死ぬがな。」

――冷徹に、残酷に。
その言葉は名前の願いと理想を打ち砕いた。
アーチャーを殺さなければセイバーとキャスターの命が危うくなる。だが綺礼を救うことは叶わなくなる。
ぎゅっと拳を握った名前に、アーチャーは追い討ちをかけるような交渉を持ちかけた。

「聖杯で願いを叶えるにはサーヴァントの魂が6つ必要だ。今は1つ足らぬ。もし貴様がキャスターの魂を差し出すというのなら、聖杯の力で綺礼の命を救ってやろう。」
セイバーが我慢ならないというように声を上げた。
「そんな……名前、聞いてはいけません!ただの世迷言だ!」
「黙れ。女に話しているのだ。」
手足を縛められた状態にもかかわらず彼の態度は横柄だった。その態度が言葉に真実味をおびさせる。
「――さあ選ばせてやろう。むろんセイバーは我の物になるゆえ対象外だ。
慕う男の命か、共に戦ったサーヴァントか。
おのれの欲望のまま選ぶが良い。」

名前は唇を噛んだが、戸惑いつつもセイバーに合図しようとした。
が、その前を遮り、キャスターが前に進み出た。



<次回 最終話>

アニメの台詞を分かりやすくするために一部変えています。







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