『夏の前に』
夏になればアキレウスはギリシア連合軍に加わり戦場へ馳せ参じる。乾いた風がふきつけ太陽が地面を焼く夏の前に、アキレウスにはしておきたいことがあった。
屋敷には彼が少年時代をともに過ごした仲間たちが集まっていた。皆、今か今かと主賓の登場を待ち構えている。アキレウスが奥の扉から現れて広間の中央に進み出た。手をひかれる少女は緊張して顔を上げることができず、祝福の言葉を聞くたびに頬を赤らめてうなずくだけ。
「アキレウス、そちらが名前姫か」
親友のパトロクロスがでかしたというようにアキレウスの肩をこづいた。「王から奪ったと聞いたぞ。噂どおりの美人だな」
アキレウスの友人たちは名前の顔を拝もうと近寄ってきた。嫁入りの前に花婿は花嫁を自分のフラトリア(兄弟団)に紹介する。これから迎える花嫁を正妻としてみとめさせる儀式だ。名前は小さくなって震えていた。
「おいアイアス、それ以上は近づくな。花嫁がおまえの臭いに顔をしかめているぞ」
「そうだ」
友人たちはからかい合いながら名前の緊張を解こうとしていた。
「名前姫のために歌おうじゃないか。おお、愛しき花嫁よ、おまえを何にたとえよう……」
わざと調子はずれに歌ったりしながら、友人たちは名前とアキレウスの周りをぐるぐるとまわった。アキレウスも名前に「だいじょうぶか」とささやいてやる。
王城の奥にいたときは名前様としてかしずかれていたのに。あのときの堂々とした振る舞いは奥に置いてきてしまったようだ。すっかり元の臆病な少女にもどった名前を、アキレウスはやさしく見つめた。
──変わらないな。だが、前よりもずっといい。
こんな臆病な少女が王城の奥でおそろしい目に遭っていたのだ。名前の変貌した姿も美しかったが、今のように本来の姿のままでいてくれたほうが良い。緊張した名前は花婿から離れまいと手をぎゅっと握った。アキレウスも愛おしい少女に頼りにされているのは悪くなかった。
「アキレウス、神前試合の話をしてくれ」
彼を祝福するもの、自分の手柄を自慢するもの、皆さまざまだったがアキレウスとできるだけ話そうとしていた。この婚礼を済ませればアキレウスはスキュロス島を離れる。そういう意味でも一区切りだった。
今になってみるとスキュロス島で過ごした日々にたくさんの意義を見つけられるから不思議なものである。
「ついにアキレウスは本物の英雄になるんだな」
「そうだ。もう肩書きだけじゃない」
パトロクロスがアキレウスの肩に腕を回して言った。
「おれも共に行く。おまえの隣で駆けるのが楽しみだ。英雄の友人で終わるつもりはないからな」
「ああ」
いろいろなものが一区切りを迎えるのだ。急にアキレウスは大人になる実感が湧いてきた。──妻を迎える。戦いにでる。肩書きを背負ったおれの振る舞いが、遠く顔も見たことのない人々に評価されるのだ──未知の舞台にふみこむ想像で、武者震いがした。
握っていた手に力が入って、名前は不思議そうにアキレウスを見上げた。
「すまない、痛かったか」
「いいえ」
そっと握りなおしたが、名前はアキレウスの手がうっすら汗をかいているのに気づいて、驚いたようだった。
「……アキレウスさまも緊張されることがあるのですね」
「おれか? 名前がどう思っているか知らないが、おれは普通の感情をもった男だぞ」
名前が王城にいる間、アキレウスはたびたび自分のことで悩んでいたと明かしていなかった。今後話すかはわからなかったが、夫婦になれば名前に心のうちを明らかにすることもあるだろう。
力だけなら誰にも負けない自信があったが、内面はまだこれからという思いがあった。
「そういえば、すまなかったな。おれが戦に出るまえに婚姻を交わしたいと頼んだせいで」
アキレウスを探しにきたスパルタの使節団は「戦はもうはじまる」と彼を急かした。彼自身もできるだけ早く戦に加わりたかったし、できるなら戦の前に生まれ故郷プティーアに戻って父ペーレウスと賢者ケイローンに報告したかった。
名前には準備する時間がもっと必要だっただろう。だが彼女はすんなりと承諾した。
「あなたはじゅうぶんに戦に出るのを待ったのですから。これ以上戦に出るのが遅くなったら、後世の詩人がうたうギリシア英雄譚が短くなってしまいます」
アキレウスはその返事に目をほそめた。だが残していく彼女にもっと自分の思いを話して欲しかった。そうでなければ彼女のすべてを手に入れたと思えないし、婚姻という形を残してもなお足りないような気がしていた。
「さびしくはないか。長い戦になるかもしれない」
では、と名前は控えめな声で願いを口にした。
「手紙を書きます。どうかアキレウスさまのご活躍を聞かせてください」
「おれが返事をまめにできると思わないでほしいな」
「でも読んではくださるでしょう? 戦場で私を忘れてしまわないよう書きたいのです」
「おまえのことを忘れるものか」
臆病でちいさな名前。花畑に行くのを楽しみにしていた名前。すれ違うときに顔を背けた名前。いちど失って、ふたたび出会えた少女は美しくなってアキレウスの隣に戻った。
だが今度はアキレウスが名前のもとを離れてしまう。定められた運命によって、二人の幸せは今この時だけなのかもしれない。
──この命がみじかく尽きるとも、名前への思いは手放したくない。
英雄としての運命を受け入れたアキレウスは、みじかい命だからこそ、その心を激しく燃やすことを決めていた。
「………」
ところが言葉にして伝えるための経験がアキレウスにはまだない。しかし思いに突き動かされ、愛おしくてじっとしていられなかった。
にぎやかな祝福の声がやまない広間の中央で、アキレウスは名前を抱き寄せた。
<おわり>
33333HITで頂いたリクエストです。大変お待たせしました!
「花の冠」がとても好きで定期的に読み返しにきてはいつも楽しませて頂いております。もしよろしければ「花の冠」のアキレウスとの結婚後的なお話を見てみたいです。
と頂いたのですが、結婚式にしか至りませんでした……2人ともかなりシャイなので思いを昂らせたままです。でもアキレウスは“彼女のすべてを手に入れたい”と思っていて、どうすれば互いの気持ちを伝えあえるだろうと一生懸命考えています。
私自身とても好きな作品で、リクエスト貰えたのが本当に嬉しかったです。定期的に読んで頂けているなら、ぜひ改訂しなければ!と意気込んだものの、すごく時間がかかってしまい申し訳ありませんでした……(猛反省)。
最初に考えた番外案が続編のボリュームになってしまい、それは別にUPしております。今後もこの作品を愛でていただけると幸いです。
名無し様、ありがとうございました!