二輪め

(3)


 スキュロス島の修練場は広場(アゴラ)の近くにあった。ギリシアでは学問だけでなく体を鍛えることも重視されており、いつも多くの市民でにぎわっていた。アキレウスはすでに負けなしの存在だったが、それでも毎日午前の時間をここで費やしていた。

「アキレウス。先ほどは見事だったな」
 組試合のあと、師範のレイケイオンがアキレウスを呼び止めた。アキレウスはほめられて顔を赤くした。
「いいえあぶないところでした」
「遠慮はよせ。この修練場でおまえに敵うものはいない」
 レイケイオンは隣に座るよう指し示す。この男性は戦場で活躍したあと師範となって一目置かれる存在だった。アキレウスが冷たい石床にすわると、レイケイオンは鍛えられたアキレウスの肉体を見ながら言った。
「そろそろ飽きたのではないか。誰もおまえの体にあざ一つ付けられないのだから」
「いいえ、どうやって勝つか考えれば飽きることはありません」アキレウスは言った。「ただ、戦場に出てみたいと思っています……」
 アキレウスが沈んで答えたのには理由があった。来年15歳になれば兵士に志願できる。しかし母である女神テティスはどうあっても阻止するだろう。アキレウスは戦場に向かう同輩らを見送るしかない。それを想像するたび重い塊が胸に積もるようだった。
 レイケイオンは苦笑して「試合ばかり勝ってもな」とアキレウスの鬱憤を汲みとってくれた。
「せめて王城に勤務できるよう推薦してやろう」
「ありがとうございます」

 師範からのおもいやりがアキレウスには嬉しかった。話が終わると頭を下げて退席し、少し軽くなった足取りで家に向かう。
 日差しは強く、路上の先にはもやが立っていた。歩いているうちにちょうどよい木陰を見つけてアキレウスはほっと息をついた。静かに腰を下ろし、流れる川のせせらぎに手を伸ばす。冷たい水に触れて、午前の組試合の心地よい疲れが彼をおそった。
 ──まだ時間は早い。一休みしたらパトロクロスのところへ寄って王城の勤務に推薦してもらえることを話そう……。


 回り道をして家に帰ったとき、木々の影はだいぶ伸びてきていた。アキレウスが門を潜ると、使用人が待っていたように表へ出てきた。
「今日は遅かったですね。少し前でしたが名前様が訪ねて来られました」
「そうか」
 その名前を聞くのは久しぶりだった。隣家にいけば会えるだろうと踵を返したアキレウスに、使用人は残念そうに言った。
「もう居られません。王城に出仕することになったそうで、出発する前にご挨拶にみえたのですよ」
「王城に?」
「はい。リュコメデス王のご側室にお仕えすることになったそうで……」
 使用人は外をみた。
「そんなに時間が経っていません。ちょっと追いかけられてはいかがですか。すぐに会えるかもしれませんよ」
「そうだな」

 アキレウスは荷物を置いて再び家を飛び出した。居住区をまわり、王城に向かう道をさがす。しかし名前の姿は見当たらなかった。
 それほど遠くには行っていないはずだ。はたと思いついて今度は城壁の外へ出る。名前が連れて行ってほしいとねだった草原。
 走って向かったが、名前の姿はそこになかった。花だけは昔と同じように咲き乱れている。
 ──ここに来ることは無いか。
 名前はもう花摘みをねだるような子どもではないのだ。アキレウスは自分の浅はかな考えに溜息をついた。
 ──名前も大人になったのだな。
 最近は挨拶をするだけの間柄だったのになぜ会いに来てくれたのだろうと思った。近所にも挨拶してまわっただろうか。ならば追いついたはずだろう。これはアキレウスの思いつきだったが、名前は最後にアキレウスの家をたずねたのだ。
 ──きっと、おれに会いに。
 その推測には何の根拠もなかったが、名前が自分に対して特別な思いを抱いているという気がした。もし会っていたらなにを言っただろう。そう思うと、名前に会ってやれなかったことを申し訳なく思うのだった。
 その瞬間、風が強く吹いて、まるで花びらが紙吹雪のようにアキレウスの周りを飛び散った。

「名前……」
 花の影は彼女の白さを思い起こさせた。
 ──名前はなにを言いにきたのだろう。



(4)

 秋になると紫色のセージの花が城内の隅々に咲いた。修練場のかたわらにも鮮やかな花が咲き、さわやかな香りが空気に混じった。レイケイオンが取り計らってくれた王城勤務の返事もその頃で、アキレウスが15歳になればすぐ登城してよいという。戦場ではないが武器を持って勤められることにアキレウスは喜んだ。
 さっそく鍛錬に熱が入り、朝から晩までパンクラッチオンのことが頭を占めていた。だからといって名前のことを忘れたわけではない。しかし王城に勤務するようになれば話す機会もあるだろうと思い、アキレウスはあえてそれを意識の外に置いた。
 しかし心の中は晴れなかった。アキレウスが修練に打ち込めば打ち込むほど、行き場のない思いが生まれる。パトロクロスは軍事訓練が本格的になってから修練場に来ない。親友はもうすぐ遠い戦場で勇名を馳せるのだろう。ついに練習してくれる相手がいなくなり、アキレウスは無言で水を飲みに行った。


 井戸から汲み上げた水で喉を潤した後、アキレウスは木陰に腰を下ろした。力を出し切れないせいか修練にも没頭できなかった。心を落ち着けるためにセージを摘んで口元に持っていく。すがすがしい香りが鼻をくすぐり幾分さっぱりしたが、胸の奥はまだくすぶったままだった。
 と、背後にひとが立っていた。アキレウスがすばやく立ち上がり、一二歩下がると、陽のもとに老人が出てきた。この修練場の主人をつとめるパトロクルだった。
「精が出るな、アキレウス」
「はい先生」
 アキレウスは頭を下げた。この御仁は戦場から離れて久しいが、いまだに衰えない闘志と荘厳さを持っていた。直接師事したことはなく、言葉を交わすのも初めてである。
「なに、緊張せずとも良い。お前をみていて思ったことがあるのだ」
「はい」
 パトロクルの口調は軽かったが動きには一分の隙もなかった。白髪で小柄な体は背筋がまっすぐ伸び、鋼のような筋肉が全身を覆っている。目はしっかりとアキレウスをとらえていた。
「おまえは修練場の誰よりも強い。パンクラッチオンを心から好いておるのが分かる」
 パトロクルは静かな声で言った。「だがな、ペーレウスの息子アキレウスよ。わしにはお前が退屈しているように見える」
「………」
「おまえはここで得られるものはないと思っているのだ。実際、この島でおまえより強い者はいない。おまえに強さを教えられる者もない。だが、母君の制約によって島から出ることはできないのだろう」
 アキレウスは小さく頷いた。このところ組試合で勝っても嬉しくなかった。勝ち方を研究しても虚しく思えてくる。いったい、自分は何のために力を得たのか。修練することに何の意味があるのか。
 ──王城勤務といっても所詮は島のなかだ。
 母の制約に縛られた自分には未来がないように思われた。その思いは暗い塊となってアキレウスの心を蝕んでいた。
 老人は言葉を続けた。
「おまえは強い。勝つだけなら敵はいないが、満たされもしない」
「………」
「勝つことだけに執着すれば、神聖な競技も弱者への暴力となる。過ぎたる力はおのれの身を滅ぼすだろう。狂気に囚われ、友や自分の子供を殺してしまったヘラクレスのように」
 狂気。じわじわと心を蝕む塊にはっきりと名前を与えられた。ヘラクレスはアキレウスと同じ半神半人で賢者ケイローンに師事した大英雄だ。彼は自らの子供を殺め、償いの最中にあった。
 そう言われてもアキレウスは心をもっていく先がなかった。外への憧れと力はどんどん強くなっていく。でも制約をまもらなければ母を不幸にしてしまう。アキレウスはうろたえた。
「先生。わたしは狂気にとらわれるしかないのでしょうか」
「救いはある。アキレウス、強さ≠ニは武力だけではないと分かるな?」
 パトロクルは問いかけた。
「はい。武力だけでなく、知恵や審美眼、人との付き合いの中にもそれぞれ異なる強さが存在します」
「よかろう。では、異なる強さ≠ノ共通することはなんだと考える」
 アキレウスは答えた。
「強さとは、相手に勝つことだと考えます。負けている人が『自分は強い』と主張するのは矛盾しますから」
「なるほど。たしかに強ければ相手に勝つことができるだろう。だがもし卑劣な方法で相手に勝ったものがいたら、それは強さ≠セろうか?」
「いいえ。正々堂々と勝つことが強さだと思います」
「ならば、おまえの考える強さ≠ヘ勝つだけでなく正しさ≠ェ内包されなければならないことになる」
「おっしゃる通りです」
「では正しさ≠ニはなんだろうか。ただ勝つことだけが正しくないとするならば」
 老人は青年の言葉を肯定しつつ鋭い指摘をした。アキレウスは少し考えてから答えた。
「正当な目的か信念が必要だと思います」
「そうか。では、その目的や信念というのはどうやって生まれるものだろう。他人から教えられるものか? それとも自分が作り出すものか?」
 アキレウスは老人の目を見つめて答えを探ろうとした。だが正解を期待するのではなく、問いかけ自体を楽しんでいる輝きが御仁の目にはあった。そこで、アキレウスはもう一段階深く考えてから答えた。
「……どちらとも言えません。正しさ≠ニは誰が定めたかではなく、多くの知識や状況から判断されるものだからです。正しいかどうかは人によって違いますから」
「ではアキレウスよ。今のおまえはどうやって正しさ≠判断しているのだ」
「わかりません」
 青年の正直な言葉に老人は微笑んだ。御仁はこの言葉を待っていたのか、とアキレウスは眉をしかめた。
「そろそろ若者をからかうのはおやめください。先生が考える強さ≠竍正しさ≠ニはなんですか。教えてください」
「それがな、アキレウス。わしも知らぬのだ」
 老人の返答は拍子抜けするものだった。が、表情は真剣そのものだった。
「しかしおのれが強さ≠熈正しさ≠熬mらぬことを理解している。だから教えることはできない。しかし答えを知らずとも追求することはできる。追求すればするほど正しさ≠ノ近づき、強さ≠手にするのだ。
 初めの問いに戻ろう、アキレウス。この島にはおまえより強い者も、強さを教えてくれる者もいない。だがおまえが強くなりたいなら、ここで学ぶものはまだあるのではないかね」

 黙りこんだアキレウスをパトロクルは「まだ早かったか」と笑った。そして言いたいことだけ言うと、老人は現れた時と同じように木立の中へ消えて行った。



(5)

 アキレウスは修練場に戻らず家路についた。真上にのぼった太陽が路上を強く照らしていた。
 ──勝つだけなら敵はいないが、満たされもしない。
 老人の言葉を反芻した。
 ──おまえが強くなりたいなら、ここで学ぶものはまだあるのではないかね。
 自分も知らないと言いながら考えさせるなんてひねくれた御仁だ、とアキレウスは思った。答えのない問題を若者に投げかけ、若者を困らせることを老人は楽しんでいるのだ。
「やっかいな御仁だな」
 と言いつつも、アキレウスの唇の端はすこし上がっていた。未知への渇望が心の中に湧き上がってきていた。
 自分はほとんど無敵の力を持っている。しかしその力をどう使うか学ぶ前にケイローン先生から離されてしまった。先生はなにを教えてくれるだろう。老人の問いかけはアキレウスの退屈を消し去っていた。
 いつもの家路がちがって見えた。通りがかる広場で人々は哲学や評議を大いに楽しんでいる。答えはどこにもないが、追求にも終わりはないのだ。
 ──それはきっとスキュロス島の中にいても可能なことだ。
 先ほどまで灰色だった未来がすこしあかるく思えた。



 いつもより早く家に着くと、隣家の奥さんがめずらしく家の前に出ていた。子どものころにアキレウスを待ち構えていた以来だ。
「まあ、アキレウス様。ずいぶんと背が伸びられましたね」
 奥さんはアキレウスの日に焼けた顔を見上げながら言った。彼女の歳は30を超えたところだろう。
「今日はどうされたのですか。家の中でおおぜいの気配がしますね」
 アキレウスは立ち止まって中の様子をうかがった。荷物を運び出している奴隷の姿がみえた。
「実は引っ越しをするのです。王城のちかくに住居をいただきまして、息子も王様の近衛兵に加わることになりました」
「それは、すばらしい出世ですね。よほど戦いで手柄を上げられて……」
 どの戦だろうとアキレウスは考えた。近衛兵には優れた人物しか加われない。
「息子ではないんですよ」
 隣家の奥さんは、声を落として恥ずかしそうに言った。だが顔には話したくて仕方がないと書いてある。アキレウスは小さな声を聞き取ろうと一歩近寄った。
「名前が王城の女官に出仕したことはご存知でしょう」
「はい、聞いています」
 名前の名前を聞いてアキレウスはすこし心がはやった。元気にしているだろうと聞こうとしたとき、奥さんはもう少し先のことなのですけど、と前置きしてから言った。
「名前がリュコメデス王のお目にとまったのです」
「………」
「春の祭事のとき側に上がります。そうなれば母親の私も手が届かない存在になるのですよ」

 その言葉をアキレウスが理解するまで間があった。しかし次の瞬間には彼の頭の中で音を立ててはじけた。名前が王の側に上がる。目の前がまっしろになった気がした。
 ──もう少し先と言ってもすぐだ。アキレウスは今度は頭に血が昇ってくるのを感じた。怒りとも戸惑いともつかない感情で顔が赤くなる。
 ではお元気で、といった奥さんの声が遠くに聞こえた。


 アキレウスは家の前に着いても中に入らず路上を歩き続けた。歩いていくうちに気持ちは落ち着いてきたが、かわりに心の底から湧いてきた別の感情があった。
 ──そうか。
 名前とはまた会ったときに話せると思っていた。もう言葉を交わすこともないのだろう。突如として湧き上がってきた思いはアキレウスを押し流さんばかりだった。
 それは小さな世界の終わりだった。おんぶや手つなぎをねだる名前。草原に行くのを楽しみにしていた名前。すれ違うときうつむいた名前。終わったのは、そういう世界だ。突如として奪われ二度と戻ってこない。
 そのことを理解したとき、アキレウスの胸にこみ上げてきたのは自分でも驚くほど激しい名前への思いだった。彼女の面影が浮かんでくるしいほど愛おしかった。
 ──あのとき、名前は分かっていたのだろうか。
 自分をたずねたとき二度と会えなくなることを予感していたのだろうか。だとしたらどんな思いで会いにきたのだろう。どうしてもっと彼女を探さなかったのだろう。深い後悔がアキレウスを襲った。
 ──しかし……。
 アキレウスは悟っていた。この思いが表に出たのは、名前が手の届かない存在になると分かったからだ。そうでなければ自分は気づかないままだった。今さら気づいてどうすることもできない。
 さっき強さ≠竍正しさ≠ノついて学ぼうと決めたばかりじゃないか。いま必要なのは後悔することではない。名前への思いはお互いの幸せのためにならない。
 アキレウスは心の平穏を取り戻した。そして、かけ離れてしまった彼女と自分のために、この禁忌を胸の中に閉まっておくことを決めた。胸に閉まってしまえば何もなかったことにできる。感情を抑制することには慣れていた。
 だが家路を戻る前に、アキレウスは一度だけ暗い気持ちで見上げた。名前がいる王城の方向を。
 ──名前とのことは、何事もなかったように振る舞うのだ。
 もうすぐ15歳になろうとしていた。
 王城への勤務が迫っていた。


<つづく>

参考図書『メノン』プラトン著



  
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