栞

徳慈郎の幻




 時おり火加減の調節に追われながらも、果てしない待ち時間の大半を食卓でぼうとすごした。これでも料理なのかと疑うが、いつだったか「料理とは理をはかること」と妻が語り聞かせてくれたし、ならば、自然や宇宙と融和してようやく料理と相成るのやも知れぬ。無論、理など、徳慈郎には万年を経ても達せぬ境地に違いあるまいが。

(できぬことだらけよ)

 諦観の青息吐息を卓上へと滑らせ、やにわに椅子を立った。かたわらの窓を開放。立ちこめる腑甲斐ない香りに三半規管が酔っているらしい。とうとう換気扇だけでは耐えづらくなった。

 煌煌と照る午後の白陽を浴び、庭では、息子夫婦の築いた菜園が次なる収穫の時期を静かに狙っている。畝に、蔓を支える緑の柱に、重ねられたプラスチックの花壇──豊穣を司る景影が、縮こまるほどではない東京の真冬に充分な沈黙を楽しんでいる。徳慈郎にとっても、妻との穏やかな時間を刻んだまばゆい庭面である。

 微風を軒にし、素心蝋梅の花が揺れている。柔らかな蜜色の花たちが悠然と弾け、まるで無限の太陽でも落としたかのよう。あれを肴に甘酒を試したことはあったが、実は、徳慈郎を酔わせたのはいつも「美美しいですね」と酌をする横顔であった。

(できぬことだらけよ)

 もうできぬ。

 もう叶わぬ。

 もう次の世代に譲った。

 もう。

(もう?)

 では、今、己はなにをしているのか。突発の料理なんぞをして、誰に、なにを譲ろうというのか。それとも、いまだに次の世代を気取っているとでもいうのか。

(なにを莫迦な!)

 そんなものは極地に置いてきた。御国の期待に応えられもせず、むざむざと。

(ええい莫迦莫迦しい!)

 鼻息で唾棄すると、勢いよく窓を閉め、逃げるようにして厨の様子を窺った。

 鉄鍋は底になっていた。うっすらと茶色の皮膜をこびりつかせてはいるが、どこからどう見てもただの鍋である。使いこまれた鍋であるのならば洗われている状態でもだいたいこんな色艶をしている。

(これでよいのか?)

 完成図がわからないので見当もつかぬ。だが、思い出せるかぎりのことをしたまで。後の祭と思わぬでもなかったが、ゆめゆめ思わなかったことにした。

 包丁よりも軽くなった鍋を手にすると、しばしの逡巡の末、濡れ布巾に鍋底を浸す。ぢゅ。小気味よい音色とともに、乾いたアスファルトに落ちた雨のような、湿気た塵埃の匂いが立ちのぼる。まともに喰らった徳慈郎、たちまちのうちに眩暈を起こす。

(で? これを?)

 記憶の片隅に「氷」という蘊蓄が宿って止まないのだが、使い道がわからないので省くことにした。およそ省いてはならぬ原動力なのであろうが、すでに胸突き八丁へとさしかかってしまったのだから省かざるを得ぬもやむなし。いや、最後に控えている最大級の謎とどう折りあいをつければよいのか、末恐ろしくて蹈鞴を踏んでいる気配もする。

 がりがり──一枚、白い皿を敷くと、ひとまず菜箸で茶色の皮膜を掻き集めてみることにした。いわずもがな、なにかが決定的に異なると確信しながらである。

 がりがり──上手く削れぬ。菜箸の先にちんまりと、耳垢よりも存在感の稀薄な塊がこびりつくのみである。捗捗しさの欠片もなく、これでは埒が明かぬ。たったの四削り目にしてすでに悲愴も吝かではない。

 がりがり──鍋底に流星のような線がつくだけで爆発的な手応えは微塵もない。料理人とは斯くも気怠い修行をせねばならぬのかと、これぞ実りし稲穂の心地である。

 がりが──箸を止めた。理どころか、これではただの因果である。理とは、もっと個人から離れている概念に違いあるまい。仮に修行であったとしても、自己満足で終えてよいものでもあるまい。少なくとも広い視野は必携であろう。

 直角になった腰を無理矢理に正し、強く眼窩を押さえると、徳慈郎は包丁のあった下台を探る。するとすぐ、まさに理に適う調理器具を発掘。牛乳の色をする、プラスチックの杓文字である。

 ごわり、ごわり──さっそく、光沢のある杓文字を皮膜へと滑らせる。相変わらず手応えは皆無だが、なんとなし皿に塗される茶色の量が冴えて見える。

(なるほど。広い視野か)

 いうまでもなく錯覚だが、落胆を毛嫌いして悦に入ってみる。いくつになっても発見というものは斬新である──などと。

 あらかた鍋底を本来の色へと戻す。とはいえ、その労力に反して皿に塗される茶色の粉はやはり雀の涙。これではまだ箪笥の背に隠れる小晦日の芥のほうが多いような感触もする。せっかくの広い視野も形無しとわかり、ここでようやく徳慈郎は落胆。

(しかし、まぁよい)

 ついに後の祭かと開きなおる。そして、それ以上の気懸かりを念じてみる。

 最上級の謎のお出ましである。

……とかいう奴だ)




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Nanase Nio
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