詩帆さん 第1集 〜 Killer Queen
局地的に雨が降る──天気予報を神のお告げとすれば、ここ、練馬は完全に見放された大地である。恵みの雨はなく、誰かを犠牲にしてその涙を飲まねばならぬほどの切羽つまった日々である。比喩がグロテスクに感じるほどの酷暑なのである。
連日、空は霞んでいる。雨雲ではない。光化学オキシダントと練馬区からのお報せを降らせている。熱中症の警戒情報が稲妻のようにテレビで輝き、油蝉が落雷のように泣き喚き、それから、ええと……比喩の泉が枯渇するほどの酷暑なのである。
冷凍庫で幸福という麻薬を買うより他に術のない今、
「んんんんん!」
幸福を露にして、少女は悶絶している。
「んんんんん!」
麻薬ではない。
「んんんんん!」
握り飯である。
いちいち肩をすくめ、小柄な身体をさらに小さくして、少女は悶えている。円らなタレ目をきゅとつむり、口をガチョウのように弓なりに尖らせ、斜めに首を傾げ、両の脚をばたばたと泳がせ、オルゴールの声を鳴らして、少女は幸せそうに悶絶しているのである。
その可愛らしさと言ったら。
ゆえに、ただでさえご飯を食べるのが遅い弓削茜は、少女からすっかりと目を離せなくなってなおさらに遅くなってしまう。
妨害と言ってもよい可愛らしさ。
「んんんんん!」
握り飯を左手に、少女は天真爛漫で可憐きわまりない悶絶に明け暮れている。言うまでもなくクラスの注目の的。
昼食時間がいつもこんな状態かと言えばそうでなく、少女の謎の閃きが手作り弁当をこさえさせた時にかぎるのだが、それでも週に1度の頻度ではあるだろうか。
「んんんんん!」
梅干し入りの握り飯である。これを少女は、週に1度、閃いたようにこさえてくる。そして昼食時間、ちびちびと口にし、梅干しの酸味を舌にするたび、いちいち悶絶するのである。至福を露にするのである。
今日、弓削は幸運なことに、クラスの盛りあげ役である河田映美のおかげで少女と同じ輪の中に入ることがゆるされた。もともと河田は少女のことを病的なまでに崇拝しており、なにかと少女を輪の主軸に据えたがる。しかし少女は本能で行動する猛禽類のような性格であり、河田の本願成就をなかなかゆるさない。連戦連敗、盛りあげ役の河田をもってして2週間に1度の勝率となっていた。本日がまさにその日なのであり、当の河田にとっても幸運な日だったのである。
本願成就と悶絶──フランク・プランプトン・ラムゼイにも解明できないダブルミラクルのおこぼれに与ったのが、弓削と椎名未森である。
教室の最前に合わせられた4つの席。ひとつは少女の席だが、残る3つは他人の席。おこぼれに与る身として他人の席を拝借するのはいささか恐縮だが、だからこそ弓削はこの幸運を噛みしめて憚らない。羨望と嫉妬のまなざしを背後に感じ取りながらも、彼らのぶんまで楽しむ所存──まるで日の丸を背負ったかのような万里一空の境地なのである。
「んーんんんんん!」
ふたたび梅干しにヒットしたらしい。
それにしてもなぜ、なぜ少女は、巨大な握り飯を8つも握り、しかもそのすべての具材に梅干しを選ぶのだろうか。少女のセレクトセンスに、弓削はもはや絶頂を禁じ得なかった。
安直な表現ながら、ツボと言えばそういうことになる。弓削のみならず、河田にとっても椎名にとっても、少女の一挙手一投足はまさに快楽の種だった。なにをやっても可愛らしく、美しく、また新鮮な文学でもあった。ツボというか、秘孔である。
弓削はもはや餓死寸前。
すると──、
「んんんんん……」
おもむろに少女は、弓削の夢想だにしていなかったことを口にした。
「……すっぱいね?」
なななんと、キューピッドの微笑みで同意を求めてきたのである。普段の声のおよそ7度も高いトーンで、甘えるようなトーンで、なぜか舌っ足らずに、
「うめぼし、すっぱいね?」
きっと平仮名であろう台詞を口にしてきたのである。
弓削のハートは黄金の矢で射貫かれた。とたん、彼女の脳内には黙示録の天使があらわれ、舞い躍り、7つのラッパでファンキーなジャズをアドリブ、0コンマ6秒後には見事な終末と相成った。
神に選ばれなかった人々が死に絶えた後、弓削・河田・椎名という大地に芽生えたのは、未知なる母性。
「そ、そうだね。酸っぱいね?」
男性経験が豊富と噂される河田ですら、戸惑いの母性を発揮する始末。たまたま出会した号泣の迷子をあやす女学生のような、見様見真似の母性である。
そう、いつもは闘気をむき出しにする世紀末覇者のような少女なのだが、梅干しを口にしたとたん、なぜか幼児化するのである。
すっぱいなぁ、うめぼし、しゅっぱいなぁ──ひとりごちる姿は何度か見てきた。しかし、まさか同意を求められる日が来ようとは、さすがに夢想だにしていなかった。
空腹以外の理由で弓削が垂涎した瞬間である。
「詩帆さんはぁ、梅干し、好きなのぅ?」
河田よりは男性経験の浅いだろう椎名が、その浅さを証明するがごとくの拙い母性で尋ねた。
ところが少女、急に真顔になって答える。
「そうでもないよ?」
(そうでもない……?)
(そうでもない……?)
(そうでもない……?)
3人の頭上に、まさに絵に描いたようなクエスチョンマークが浮かぶ。
「じゃ、じゃあ、ええと、どう、して……?」
男性経験のない弓削に果たして母性の発露は不可能。
代わりに、
「嫌いなわけでは、ないんでしょう?」
さすがの河田が引き継ぐと、
「苦手なほうかな?」
(苦手なほう……?)
(苦手なほう……?)
(苦手なほう……?)
クエスチョンマークの遥か彼方、最果ての宇宙が頭上に浮かんだ。
「に、苦手、なのに、オニギリに……なぜ?」
もはや母性では対処できないと大悟したか、河田がありのままの日本語で追求。
すると少女、とびきりの笑顔となり、
「ぞッくぞくするよね、うめぼし!」
光あれ──神の最初の言葉を放った。
宇宙がまだ原初神の母胎だった時代を、この3人の女子高校生は練馬区でVR体験していたのである。
「ぞ……く……」
そう、母とは、実は少女のほうだった。弓削たちは母胎にすがる赤児であった。がゆえに、まさか母性を発揮できるわけもなかった。河田や椎名の見様見真似の母性もまた、しょせんはオママゴトの延長線上──詭弁に過ぎなかった。
それが証拠に、弓削は今、宇宙に包まれている。あまりにも壮大な、あまりにも不可思議な、まだ引き算するもののないコレカラの宇宙である。
「んんんんん!」
母なる少女はふたたび悶絶の途に就いた。弓削たちは、いや、クラスのすべては、花を花とおぼえる前の赤児のように目を丸くして見入っている。学ぶという観念もなく、ただおぼえる瞬間を待っている。いわんや、待つという観念もないのであるからして、ただ見入ることしかできないのである。仮に、他にできることがあるとすれば、
「すっぱいね?」
愛する──赤児の本能に身を委ねることのみ。神の垂れ賜うた「愛す可し」とする恩恵に浴することのみ。
「うめぼし、しゅっぱいね?」
なんと可愛らしい──酷暑も忘れて羨慕するのみ。それを、誰も幸福と悟らぬままに。