月を見ていた
かろ。
彼の代名詞が、頬に鳴る。
まぁるい月。甘酸っぱい、陽向の濃縮。
今日も彼は、太陽の染みる校舎の屋上ですっかり仰向けになって、貼りつけられた青いディスプレイを、すみからすみまで眺めている。
だから、今日もあたしは、屋上に屹立する階段フロアの塔屋、その箱の扉を開けっ放しにして、しばらく、彼の逆さになったおでこを眺めている。
かろ。いつものように、彼の頬は鳴っている。
珍しく、風は息を潜めている。
不意に、
「あん?」
仰ぐようにして、彼があたしを睨んだ。
「いたのかよ」
「いたよ?」
「なんだよ?」
「アメちょうだい?」
精一杯、強請りながら歩み寄る。
ぱとぱと。スリッパの底からは粘着質な音。よくこんなところに横たわれる。
枕もとに立つ。膝を屈める。今度は真上から、逆さの彼を覗きこむ。あたしの影が彼を覆う。おでこに秘密のキス。
かろ。
彼の代名詞が、頬に鳴る。
まぁるい月。甘酸っぱい、日陰の濃縮。
「飴」
「ない」
「ある」
「ないから」
「あるから」
ち。舌打ちをしてポケットを探る。そして、砲丸を投げるポーズで右手を差し出した。
透明なビニルに包まれる、2種類のアメ。
赤と青。どちらもリンゴ。あの夜のリンゴ。
「イチゴのがいい」
「ない」
「ある」
「ねぇよ」
「いま舐めてるヤツ」
「これメロン」
「うそ」
くしゃっとグーにすると、ち、また舌打ち。
腹筋だけで上半身を起こす彼。水色のシャツの背中が煤けてる。膝を屈めたままで払ってあげる。
かろ。
「で?」
その背中が問いかける。
「なんか用?」
「なんか用がないとダメ?」
彼の右隣りに両膝をつき、爪先立ちの正座。
直方体だらけの地平線を眺める。どこもかしこも箱だらけ。
「ダメなの?」
すぐに飽きて、彼を見た。
直後、強い風が全身を叩いた。容赦ない春の風。髪が顔にまとわりつき、彼の横顔が上手に見えなくなった。
髪を鬱陶しがっていると、かろ、目と鼻の先に彼の目と鼻があった。
唇には、やわらかい、あったかい感触。
鼻を焦がす、蕩ける香り。
そして、舌先に甘酸っぱい月が浮かんで、照らした。
思わずバランスを崩し、後ろ手をつく。両手がねばねばする。
そのすきに、彼は素早く立ちあがり、ポケットに手を突っこんで背中を向けた。
でも、もうあたしにはつき従うことを許さない。春の風で、ついてくるなと突き放す壁をこさえてる。
ぱとぱと。開けっ放しの通用口をくぐると、彼は、簡単そうに塔屋の蓋を閉じた。
黄ばんだ箱の中に、消えてしまった。
かろ。
彼の代名詞が、頬に鳴る。
溶けはじめた月。甘酸っぱい、約束の濃縮。
だから、あたしは月を探した。膜が解け、ようやく広がりはじめた、あの夜の月を。
「……メロンだ」