偽りのカレンデュラ 



「現実、都内で葬儀といえば、斎場で執りおこなうのが普通なんだけど」

 JR駒込駅の脇にある、小ぢんまりとしたロータリー。オーバルの中央に設けられる憩いのスペースで、歩道との区切りである銀色の鉄柵に座っている来瞳。

「きっと可愛い女の子だったんだろうね、月乃さんって人」

 目の前に立つ、桜の木を見あげている。風に騒いで明滅する、若い緑たちを。

「家の中に、柔らかい思い出を残した人」





敦 子
Section 6
無 力ムリョク





 彼女から3メートルほどの距離を置き、あたしたちに背を向け、石畳にまっすぐと立つ敦子。喪服のワンピース、腰の左右に手をあて、薄らとミルクの混ざった青空を見あげている。

「話してみたかったなぁって、思ったよ」

 葬儀前のやり取り以来、固く口を噤んだままで、これまでの強気な雰囲気は微塵も感じられない。プライドの塊のようだった痩身も、今はただ枯れてみえる。

「舞彩と、アッちゃんの心を、こんなにも揺らがせる人なんだし」

 あたしもまたあたしで、2人から均一の距離を置いている。石畳にしゃがみこみ、1匹の蟻を目で追っている。

「あたしの心も揺らいだかしらん?」

 石畳の目地につまった、パンだろうか、クッキーだろうか、欠片とも呼べないほど小粒な塊に悪戦苦闘している蟻。働き蟻にしては彼もまた小粒、その貧弱な顎では、餌が引っこ抜ける予感さえも芽生えない。しかし彼は、諦めることをせず、しつこくトライアルに挑みつづけている。

 その“個”のなさが羨ましい。


同日 ── 2010/07/03 [土] 12:16
豊島区駒込2丁目
JR駒込駅前


 都内の斎場に向けて、月乃さんを乗せた霊柩車と、高梨家の親族を乗せたマイクロバスが発ってから約30分が経過している。

 渋滞がなければ、もう火葬ははじまっているかも知れない。最後のお別れがあり、親族の昼食の間に火葬が進められ、休憩を挟んだのちに納骨がおこなわれるらしい。だから正午を回り、もしや月乃さんは今、焼かれているところなのかも知れない。

 いずれにせよ、月乃さんは無くなる。

 正真正銘、今日、無くなってしまう。

 おばあちゃんの時は、ただ自分を見失うばかりだった。でも、頭デッカチになってしまった現在、逆に心の整理がつかない。

 壊れたり停まったりしてしまうことは、人体の構造上、やむをえないことだと解釈できる。文字どおりの「運命」だと。

 でも……“無くなる”って、なに?

 確かに、もう亡くなったはずなのにまだ無くなっていない数日間があるというのも奇妙な話。でも、それは遺族の心を癒し、戒め、再起動させる宗教儀礼があるから。短期間ながらも、天下に遺体を存在させておくことは形式として必要なんだ。奇妙な話だけど、ケアとして解釈できる。

 そののちに無くなってしまう。焼かれて無くなり、あるいは還って無くなる。無になってしまう。

 もちろん、それは当然のことだし自然なこと。道理として、摂理としては、むしろ存在させることのほうよりも解釈が適う。

 でも、あの月乃さんが、無くなる。

 フォルムが無くなる、プロポーションが無くなる。アーキテクチャが無くなる。

 月乃さんを形成する方法論が無くなる。

 この世から、まったく存在しなくなる。

 理屈も主義も学力もない小学生でさえ、おばあちゃんの無くなってしまうリアルが受け入れられなかった。とても心に整理のつくものではなかった。

 理屈に塗れ、主義が萌え、学力の育った今、あのころより整理できると思いきや、まるでできない。むしろ、あのころ以上に散らかっている感覚すらもおぼえる。もう取り乱すことはないけど、心はまだ雑然としてる。混沌としている。

 ロジックが邪魔臭い。

 もしも月乃さんと西新宿で待ちあわせをせず、あくまでもネット上での交流のみに始終していたら、こんなにもカオシックな気持ちになっただろうか。

 この腕にはまだ、あの日の、月乃さんの熱い体温がこびりついたまま。いや、体温だけじゃない、柔らかな感触・ミルキーな声・さめざめと落とされる涙が、あたしの脳内に宿ったまま。刻骨されたまま。

 心臓も、声帯も、涙腺も、今日をもって無くなる。まだあたしの脳内にインプットされてあるのに、もう無くなってしまう。

 会わなければよかったんだろうか。

 そう思わせるロジックが邪魔臭い。

「他人の匂いがしたなぁ」

 ぼそりと敦子がつぶやいた。取り立てて誰に聞かせるでもない、独り言のトーン。

「月乃さん家」

 あたしはふりかえらない。まなざしは、まだ蟻の骨折り損。

「でも月乃さんの匂いはしなかった」

 いわれてみればそうだったかなぁ……と思ってみる。それから、月乃さんの匂いを思いだそうとしてみる。

「そりゃそうか。ひとり暮らしして何年も経ってる」

 どんな匂いだったっけ。思いだせない。

「匂いって、運ばれるもんなぁ」

 肩を抱えたほどなのに、思いだせない。

「するわけがないんだ、匂いなんて」

 ミルキーな匂いだったような気がする。いやいや、んなワケない。どんな匂いだ、ミルキーな匂いって。飴の匂いってか?

「でも」

 でも、

「しててほしかった」

 それももう、無い。

「ちょっとぐらいは」

 2度と、永遠に。

 ふうんと来瞳。素っ気ない。あたり前。だって彼女は月乃さんと話したことさえもない。匂いなんて知るよしもない。

 あたしは、知るよしがあった。星の数もあって、なのに忘れてる。というよりも、嗅覚の印象に残ってない。

 なぜだろう。

 声質や、爪や、面皰は憶えているのに、なぜか匂いだけが綺麗に抜け落ちてる。

 なぜ、憶えようとしなかったんだろう。憶えるように努力しなかったんだろう。

 もう、永遠に無いのに。

 煮詰めなくてはならない問題は山積している。特に、カレンデュラの呪いの問題。今のあたしを象徴している大問題であり、これがなければ、月乃さんに会うことも、敦子に会うこともなかった。平々凡々と、こともなげに、来瞳やナオとの変わらない毎日を継続しているはずだった。

 あふれるほどの情報に織りなされている大問題。なのに、依然として全容の見えてこない大問題。なのに、どうやらあたしの命を脅かしているらしい死活問題。

 本来なら、優先的に煮詰めていなくてはならない。こんなところでぼんやりとしている暇はないはず。一刻を争うはず。

 やる気が出てくれない。

 興味すらも薄れている。

 ゲームのよう。しかもクソゲー。買って損したと思いつつも、もとを取るつもりで熱中してみて、でもやっぱり興味が失せ、多くの謎を諦めたまま埃に塗れていくのを看過しているかのよう。

『カレンデュラの呪い』

 そんなクソゲーが、あった気がする。

 でも今は、攻略する気力がない。

「月乃さんの“先”を見る」って、なにを悠長にヒロインぶってたんだろう。

 月乃さんは、もう、無いんだ。

 存在しないんだ。

 打ちのめされてる。

 香苗の“暴発”の、想像を超えた威力に心が畏縮しているというのもある。人体を破裂させるほどの圧倒的なパワーになにをどう臨ませればいいのかと、太刀打ちなどできるわけがないと、手も足も出ないと、打ちのめされて諦めているという側面も。

 そして、人生で2度目の鯨幕。その色のない世界にもまた圧倒的なパワーがあり、手も足も出せず、見送るしか方法がなく、無力で、すっかりと打ちのめされている。

 これで前向きになれるほうが、異常だ。そんなの、人間の神経じゃない。

 敦子も、来瞳も、もう黙っている。立ちあがろうと叫ぶ気配もない。仮に叫ぶ者があれば、黙ってろと怒鳴る気配がある。

 故人を偲べ?

 そういうのも違う気がする。

 ただ、無力であるしかない。

 なんにもできず、なんにもならず、今、月乃さんは無くなってて、無くなることに対して、かけられる力がない。

 0は、なにをかけても、0なんだ。

 無力って、そういうこと。

 と……不意に、

「アッちゃん?」

 ひくひくという過呼吸。思わず見れば、怒り肩で、うつむき、上半身を痙攣させ、少年のような、でも弱々しい敦子の背中。

 顔から不規則に落ちる、きらめき。

 それから、うぅ……と唸り、次いで顔を両手で覆うと、彼女はそのまま、すりむくほどの勢いで石畳に両膝をつく。ぱたんと正座に落ちつき、長い背骨を小さく丸め、あとはオーボエの嗚咽を絞りだすだけ。

「づぎどざん……」

 台詞は、それだけ。

 ゆっくりと敦子に歩み寄る来瞳。そしてしゃがみこむと、おもむろに、その華奢な背を抱きしめた。両の腕をすっかりと胸に回し、項に額を添えて、まるで祈りを補助しているかのよう。

 祈る?

 なにを祈る?

 あたしにはもう、落とす涙がなかった。傅かせる膝も拝ませる掌もない。だって、一昨日の夜、月乃さんを蝶々に見立てた。あれこそ、最初で最後の“お別れの儀式”だった。唯一の幻想だった。魔法だった。奇蹟だった。

 儀式はすんだ。あとは、理に則して還るのみ。焼かれて、無くなるのみ。

 無に対しては、無力でいるしかない。

 だからあたしは祈らない。

 祈ったって、そこに神はいないんだ。





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Nanase Nio




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