偽りのカレンデュラ 



「ウソだ」

「これが月乃さんです」

「ウソ」

「もう、なにもいわない」

「嘘」

「何度も何度も」

「ウ」

「呼びかけたのに」

「そんなの」

「呼びかけても呼びかけても」

「そんな、ウ」

 ぜんぜん、意味、わかんない。

「なんにもこたえてくれないんだ……!」

「ウソつくなぁッ!!」

 仁王立ちの敦子の唸り声に、

「ウソ。ウソだウソ。ウソウソウソ!」

 頭の中のなにかが切れた。





月 乃
Section 6
胡 蝶コチョウ





「ウソだよ。ウソつくなウソつくな!!」

 両腕をファイティングポーズにして、

「ウあッ!!」

 背中を丸めて、

「うがぁッ!! ウソッ!! ウあぁッ!!」

 ぴょんぴょんと、

「しぃ、し、しし、信じないからね!」

 ウサギみたいに飛び跳ねて、

「信じない! そんなの信じない!!」

 駄々っ子みたいに、

「しぃぃぃぃぃ、し、ししし、し、し」

 玩具を買いあたえられなかった、

「信、しぃ、ぃいい、ウ、ぐ、ふ、ウ」

 子供みたいに、

「ウぅぅぅ、ウ、ゥソ。ウソ。ウ、ソ」

 強張って、

「ウソウソウソウソウソウソウソウソ」

 ぶるぶると震えて、

「ウぅぅソだぁぁぁ!!」

 解放するように仰け反って、

「ぁ」

 ひっくりかえって、

「ぁあ、あ、あ」

 すぐに起きあがって、

「あ、な、あ、な、なん」

 屈伸運動みたいに上下しながら、

「なんでよ。なんで。なんで」

 敦子の周りを、

「なんで!? なんでなんでなんで!?」

 ぐるぐるとまわって、

「なんでなんでだんで!?」

 懇願して、

「だぁんでよぉぉぉ!?」

 でも敦子は答えてくれなくて、

「はぁっ。あぁっ。はぁっ」

 だからあたしは、

「づ、月乃、月゙乃さ、月乃ざん」

 微動だにしない寝姿のほうを向いて、

「月乃さん? 月乃さん?」

 その顔にかかっているものを、

「違うでしょ? んなワケ……」

 隠しているものを、

「なんでもつくれるから、今の時代」

 めくって、

「どうせニセ、偽物。ニセモン」

 見たら、

「偽……」

 弛緩した寝顔があった。

 目の醒めるようなオレンジの髪。アップだった束は今は解かれ、さらさらのロングヘアとなって背中に吸いこまれている。

 わずかなカーヴを帯びたバングス。隙間なく額を埋めていたパッツンの几帳面さは今は解かれ、まっ2つにまん中でわかれ、白い額を露にしている。

 鋭角な眉。でも、肝心の眉尻がどこかに置き忘れられ、コミカルな神秘性の秘訣を滲ませた疎らな模様となっている。鋭角のつもりなのだろうと読ませる、屈辱的な、決して表には出せない“支度”の模様。

 涙袋のぷっくらと膨れあがった、きっと大きいと思わせるのだろう目。シャドーは落とされ、ツケ睫毛の類いも今はないが、好奇心を見張る神経質な目なのだろうと、瞑っていてもまだわかる。

 小さな丸い鼻。トップがほんのわずかに上向きで、正面から見ると、細い鼻の穴をとらえることができたっけ。だからか少し悪戯っ子っぽい印象も受けたっけ。そしてその印象は、今も変わらずにここにある。

 下唇の分厚い、大きな口。グミのような弾力というか、ゼリーのような滑らかさというか、触れずとも、確かめずとも味蕾に訴えかける、躍動感のある唇。でも、顎の筋肉を失ったように、ぽっかりと、力なく口は開かれ、要の躍動感が半減したように感じる。

 丸い頬。丸い顎。削ることで女らしさを試みるモード界では禁じ手だろうライン。でも、生まれつきであれ生活習慣の乱れによるものであれ、女らしいと感じてしまう可愛いライン。

 ぽつぽつと、細かな面皰の浮きでた肌。どれもが重症とまではいえないながらも、却ってケアを難しいと思わせる丘疹の数。凝らせば鳥肌の立ちそうな細かさ。まるで蕁麻疹のよう。

 そして、蝋燭のような皮膚の色。いや、蝋に黄粉を少し練りこんだような、お世辞にも美しいとはいえない肌色。また、額・コメカミ・耳たぶ寄りの頬には、か細い、群青色に似た色の線が幾筋にも走っているのが見て取れた。乾いた糸のような、もうなにも流れていないとわかる血管。

 月乃さんだった。

 そして、月乃さんじゃなかった。

 精巧な、臘人形のようだった。

 瞑ろうと思って瞑っている瞼じゃない。

 開こうと思って開いている口じゃない。

 落とそうと思って落とした色じゃない。

 意思がない。

 意志もない。

 まるで細胞のすべてが弛緩した、抜け殻みたいなフォルムしかない。

“それ”しか残っていない。

「これじゃあ……」

 月乃さんなのかどうか、

「わかんないよ」

 本物なのかどうか、

「わかんない」

 あたしにはわからない。

 震える右手で、ゆっくりと、恐る恐る、その丸い頬に、

「知ってるもん」

 触れた。

「あたし、知ってるもん」

 月乃さんの体温、知ってるもん。



 



 虫が、涌かなかった。

 這わなかった。

 触れたからには涌き、這うだろうとする“習慣の予感”が、一瞬にして途絶えた。

 思った以上に冷たい。

 でも、きんきんには冷えていない。

 クーラーによって整えられた図書館の、少し高価なハードカバーの冷たさ。または化粧品売場の、安価な乳液のプラスチック容器のような冷たさ。CDのジャケットの冷たさ。夏に感じる、気休め程度の、でも休まらないでもない冷たさ。

 体温じゃない。

 あたしの知ってる体温じゃない。

 あの日、抱き抱えた月乃さんの、燃えるような、壊されてしまいそうな、嘔吐するほどの体温じゃない。

 温度だ。

 そう、これは“物の温度”。

「ふふ。ふふふ」

 ヘの字の口から、息がこぼれる。

「ないじゃん」

 触れたまま、首だけを背後に向けた。

「体温」

 赤い白目の敦子。真一文字に唇を結び、チークを強張らせている。

「冷たいじゃん」

 切れ長のラインが表面張力で潤んでる。

「ね?」

 なにかをいいたげで、

「ぜんぜん冷たい」

 でもなにもいわない。

「これのどこが」

 なにかいってほしい。

「月乃さんなの?」

 嘘はもういいから、

「どこがよ?」

 ホントのことを。

「どこがよッ!?」

 潰れかけの声を絞りだした直後だった。

 敦子の背後のドア、その曇りガラスに、人影が映った。そして勢いよく開かれる。

 小太りな白衣の男があらわれた。そして彼につづき、同じほどにふくよかな男と、小柄な女が、競いあうように入ってきた。ともに白髪に覆われ、顔には皺が刻まれ、老年であるとすぐにわかる。

 男のほうは目が大きく、女のほうは唇が厚ぼったい。どちらも初対面ながら、男女一対として見てみると、誰かに似てる。

 あたしのすぐ脇、ベッドの上に目をやるなり、男はさらに目を見開き、女は右手で口を覆い隠した。そして、白衣の男を押しのけて、2人同時に、

「陽子……!」

 気の抜けた声をあげながら、敦子をすり抜けて、あたしのほうに向かって勢いよく駆けてきた。

 思わず飛びのく。

 殺されるかと思った。

「ああ……あぁ、陽子!」

 男女はベッドの“顔”を覗きこむ。肩を寄せて、4つの手で、額を、頬を、顎を、囲いこむ。

 ……ヨウコ?

 陽子。陽子。陽子!……霧のような唾を散らして男が叫ぶ。女は、それでは却って見えないのではないかと思うほどの距離にまで顔を近づける。

「ああ、陽子。陽子。陽子ぉ」

 崩れ落ちそうな女の嗚咽にあわせ、引きずるような声で男がいった。

「颯斗のいるところに行ったのか? 待ちきれなかったのか? 俺たちではおまえの支えになれなかったのか?」

 彼の語尾は震え、吐ききれずに潰れた。そして、女は耐えきれずに頽れた。

 ……ハヤト?

「なんなの?」

 ワケがわからない。

 だって、これは月乃さんを模した物で、つまり「陽子」じゃないわけで、でも月乃さんの息子さんも「颯斗」という名前で、ということは……、

「どゆこと?」

 ワケがわからない。

 混乱する頭を敦子にふりかえらせると、それにはおよばず、いつの間にか、隣りに彼女が立っていた。そして小声でいう。

「高梨陽子」

「え?」

「太陽の子と書いて、陽子」

「え? え?」

「それが、偽りのない月乃さんの名前」

 タカナシヨウコ?

 月乃さんの名前?

 偽りのない?

「大城舞彩が“雨音シトト”であり、小池敦子が“夏”であるように、高梨陽子にも“月乃”である理由がある」

 月乃である理由?

 あたしには「雨音シトト」である理由、相応しい理由、正当な理由がある。

『雨音……しとしと』

 入手ルートこそ安易なものだったけど、ちゃんとした理由があってあたしは新しい仮面を手に入れた。

「雨音シトト」という仮面を。

 触れたくないから。

 触れられたくないから。

 感じたくないから。

 感じられたくないから。

 体温を。

 おぞましい体温を。

 だから仮面を創ったんだ。

 あたしには仮面を創らなければならない理由があった。

「月乃さん……も?」

「彼女は幼いころ」

 いまだに臘人形にぼそぼそと語りかけている男か、それとも、頽れたまま微動だにしない女を見つめながら、重そうに敦子が口を開いた。

「イジメられっ子で」

「え?」

「いつもみんなからシカトされてたって。ウェットな明るさをウザがられてたって。でも、明るいわけだから、めげずに学校に通ってたんだって。したらある日、クラスメートの女子のひとりに、冷たく、こんなことをいわれたんだって」

 切れ長の瞳が、蒼白く潤んでる。

「あんたに太陽の才能はない。ないくせに明るくするなんて意味がない。意味がないくせに“陽子”なんて価値がない。価値のないあんたにはなにもない。あんたの人生には意味がなく価値もない。そんなあんたなんか誰からも好かれないし嫌われない。誰の心にも残らない。あんたが死んだって誰も胸を痛めないって」

 すん。鼻で息を吸うと、

「どうして、どこでそう思われたのかは、わからない。持って生まれた、絵本を読み聞かせるような保育士的な性格が、明るいだけの綺麗事を嫌う思春期の目には、押しつけがましく映ったのかも知れないって。少年にとって、教育者が宿敵だとすれば、教育者の言葉を借りたような綺麗な言葉で明るさを仄めかす高梨陽子という少女は、宿敵に媚びる卑怯な輩だと思われたのかも知れないって。だから太陽なわけがなく、恵みにならず、単なる名前負けで、だからシカトされたのかも知れないって」

 そこで敦子は、シャープな顎をあげた。ベッドの上、壁と天井の境目をぼんやりと見つめる。

「陽子という名前を、嫌いになったって。でも今さら名前も性格も変えられるはずがなくて、自分を嫌いながら学校に通うしか方法がなかったって。いつもどおりを守るしか知恵がなかったって。シカトの毎日を繰りかえすしか道はなかったって。せめてもの慰めは“月”だったって。夜空に輝く月を探すことが、唯一の救済だったって」

「月」

「絶望と救済のギャップが知らず知らずに心を蝕んでて、ウェットな明るさに脆さが付加されてたって。高校には行けて彼氏もできたけど、昔のような純粋な明るさではつきあえなかったって。どこかで明るさを偽ってたって。それから、自分で生活するようになった途端に買物依存症に陥って、消費者金融に手を出して、陽向の仕事では返済できないぐらいに地に堕ちて、だから月乃さんは」

「ホステスに?」

 源氏名を、

「“月乃”に?」

「いち早く性格を見抜いた美園さんから、確かにあなたの役柄は太陽じゃないワって指摘されたって。それでも、だったら月になりなさいって。夜に太陽が燃えていると証明できるのは月の輝きだけだからって。だからあなたは、ちゃんと太陽が存在していると証明してあげられる月に、そして、活かしてもらえる月になりなさいって」

 涙が落ちる。

 胸が悲しい。

 月乃さんの悲しみが、悲しい。

「私は生まれ変わったんだ……って」

 知っていた。

 そのヒント。

 あたしはとっくに、つかんでた。



月から生まれた太陽よ
私の道を照らしておくれ
永く険しい最果てで
ようやく生きたと眠れるように



「颯斗こそが、陽子の太陽でした」

 囁くような声で、ベッドを覆ったまま、年老いた男が口を開いた。まるで、敦子の回顧を引き継いだように。

「太陽のように生きてほしいと願われて、そう名づけられた陽子が、イジメられて、太陽にはなれないと諦めて、明るさを偽るようになって、日陰を歩くようになって、いつの間にか、太陽ではなく月になって、自分から輝くことをやめて……」

 独白が熱を帯び、愛娘に体温を映す。

「颯斗といる時、陽子は、いちばん太陽のように輝いてたんだ。自分からは輝こうとしないが、太陽と同じまぶしさで、輝いていたんだ。こんなにも生きているんだと、照らされる輝きで、陽子は、愛する颯斗に教えていたんだ。その命の輝きを、教えていたんだ。教えていたかったんだ。それが陽子の、生き甲斐だったんだッ!!」

 そして男は、蒼白くなってしまった頬を優しく撫でてやると、

「陽子ぉ。生きたか? おまえはちゃんと生きたのか? 幸せだったか? 颯斗にはもう会えたか? また、輝かせてもらっているか? 輝いているか……?」

 涙で語りかけ、ついに語尾が途絶えた。声にならない嗚咽で、娘を抱きしめる。

 あたしはもう、悟るしかなかった。

 月乃さんが、眠ってしまったこと。

 もう、否定できなくなった。

 天井を仰ぎ、笑ったような顔で、流れる涙を拭うこともできず、声をあげることもできず、喉の奥に誤嚥した狂おしい塊を、悲しい塊を、痙攣のように打ちあげるしか術がなくなった。

 だって月乃さんは、

『たとえ恋だとしても、それでもいいと、私は胸を張れるんです』

 息子さんを、あんなにも、

『この世のすべてが美しいというのなら、私はそのすべてを息子と比べるでしょう』

 愛してた。

『ご飯、ちゃんと、食べてるもん』

 輝いてた。

『悪いこと、してないですよね?』

 照らされてた。

『颯斗はしっかり者だから、怒られるのは私なんだからね!?』

 じゃあ、あとはもう、

『颯斗を見て、気持ちを奮い立たせながら自己完結してきたんです。ちゃんとここに生きてるじゃん……って』

 眠るしかない。



ようやく生きたと眠れるように



 眠ってしまった。

『あの、よかった……出会えて』

 こんなにも早く、

『本名で、あの、いや、本名だとやっぱ、なんかこう、色々とありますよねやっぱりプライバシー的にひ』

 こんなにも若く、

『もう絶対に触れませんから、とりあえず行きましょう』

 こんなにも呆気なく、

『恐怖症なのに、犠牲にして、私の身体を支えてくれたことのほうが嬉しいんです』

 眠るだなんて思わなかった。

『ここにも味方がいたんだって、なんだか安心してしまいました』

 別れの時がくるだなんて思わなかった。

『あの日から、新しく電話をかけてくる人なんて、いなかった。遠ざけてた』

 あたし、まだ、なんにもしてない。月乃さんに、まだなんにもしてない。照らしてもらうばっかりで、月乃さんを、ちゃんと照らしてあげられてない。

「ありがとう」もいえてない。

『あの、あの……ありがとう』



 ──雨宿りの日。

 美園ママの部屋をあとにし、新宿駅前に到着したあたしと月乃さんは、スタジオ・アルタの目の前、東口の階段をおりた。

 独り言の気づかいを忙しく口にする月乃さんと、気づかいの言葉を諦めてひたすら無言を貫いたあたし。誰が解散を提案したわけでもないのに、運命に導かれるように着々と解散へと向かう両足に、あたしも、たぶん月乃さんも、焦りを隠せなかった。だから、ますます月乃さんは口数を増し、ますますあたしは無言になった。

 そして改札を前にしたあたりで、ふと、月乃さんがようやく足を止めた。

 おもむろに上半身だけをふりかえらせ、唇をはにかませ、なにかをいおうとして、だけどやめてしまった。

 逡巡の口を半開きに、そして目を細かく左右に泳がせ、忙しく瞬き、きゅっと唾を飲みこんでから月乃さんは、

『あの、もしよかったら、電話番号、交換しませんか?』

 閃いたような、でも諦めたようでもある早口で、

『もしよかったらの話で、ぜんぜんいいんですけど。だってあの、プライバシー的に色いろとある人だっているわけですしひ』

 語尾を自嘲させながら捲し立てる。

 本来は、あたしのほうが先に立てるべき提案だった。先手を打たれ、

『いえ。それは、ぜんぜん。あの、むしろあたしのほうこそ』

 ひさびさの発言に吃りながらも、語尾を霞ませながらもあたしなりに捲し立てた。

 すると月乃さん、

『ホントですか!? ああ、よかった!』

 涙袋をぷっくらとさせ、慌ただしくカゴバッグを探って、

『なんかごめんなさい勝手に駅に向かってしまって勝手にお開きみたいな雰囲気に、そんな雰囲気に勝手にしちゃってたのが、なんかもう罪悪感だったんでへへへ』

 携帯電話を取りだす。

 釣られてあたしも携帯電話を取りだす。お互いにわずかに逡巡しつつも、リーダーシップに勝る月乃さんが空で自分の番号を読みあげ、あたしは必死に入力して発信、間もなく、月乃さんの左手から西野カナの澄んだ歌声が流れた。

 曲名は確か「Best Friend」だったか。

 9が多いですね……あたしの電話番号を大切に見守りながら、月乃さんは笑った。

『必ず、また電話しますね』

 登録し、それから、あたしだけが改札を抜けた。月乃さんは東京メトロの丸ノ内線らしく、Uターンでアルタの真下に向かうことに。オープンカフェでの雑談の時に、あたしが山手線を利用して新宿にまできた旨は伝えていたから、つまり月乃さんは、あたしを見送るためだけに改札まで導いてくれたのだった。人種の坩堝である新宿の体温にあたしが苦しんでしまわないよう、率先してSPの役を買ってくれたのだ。

 のこのこと、甘えて導かれてしまった。

 と、改札を抜け、ちらちらとふりかえりながらホームに向かうあたしの目に、踊るように走りだす月乃さんがあった。躊躇に躊躇を重ね、たまらず駆けた様子だった。

 彼女が目指したのは、改札の脇にある、駅と街とを分かつ鉄柵。

『あの、雨音さん!』

 ミルキーなフルートに呼び止められた。いや、呼び止められるよりも前にあたしも月乃さんのほうに引きかえしていた。それほどまでに突発的な彼女の行動だったし、だから、なにか忘れ物でもしただろうかと訝かってのことだった。

『ど、あの、月乃さん、なにか?』

 ドギマギして問いかけ、鉄柵の前にまで駆け寄ると、月乃さんは自分の携帯電話をあたしに掲げて、

『このケータイ、颯斗のことがあってからずっと、誰の電話番号も新しく登録させてこなかったんです』

 弾けるような声で、

『もう新しい友達なんかつくれないって、手つかずにしてきたケータイなんです』

 感極まった声で、

『ひさびさに耳にしたんです、西野カナ。どんな人が友達になるかわからないって、そんな意味もこめて、一般の着信音に設定していたんです…… “Best Friend”っていう、大好きな曲なんですけど』

 上擦った声で、

『あの日から、新しく電話をかけてくる人なんて、いなかった。遠ざけてた』

 潤んだ瞳をはにかませながら、

『ごめんなさい呼び止めちゃって。でも、どうしても雨音さんに伝えたくて』

 月乃さんは、

『雨音さんのこの電話番号……またひとつ宝物が増えたみたいで、嬉しい。ドキドキするんです。ワクワクするんです。なんかひさしぶりに生きかえった感じなんです』

 本当に笑ってたんだ。

『雨音さん、あの』

 太陽みたいに、まぶしかったんだ。

『あの、あの……ありがとう』



 また、先手を打たれた。

 いや、あたしが後手を打ったのか。

「ぁ、あぁ、ぁ……」

 天井を仰ぎ、震えながら、声にならない枯れた号泣を打ちあげながら、あたしは、踵をかえして霊安室の出入口に向かった。牛歩の手でドアを開けて、部屋を抜けて、廊下を進んで、階段をのぼり、何度も段を踏み違えて、立っちしたばかりの赤ちゃんみたいに、余命を縮める食卓に向かうあの日のおばあちゃんみたいに、よちよちと、あてもなく往路を引きかえした。

 誰とすれ違ったかはわからない。誰ともすれ違わなかったのかも知れない。単に、病院ならではの光景と気づかわれ、あえて放っておかれただけかも知れない。敦子の追手もなく、ぼやけた視界とよちよち歩きだけが唯一の障害で、白いのに蒼い、眩い院内の、その出口を目指した。

 月乃さんのそばには、もういられない。

 いられる理由がなく、赦しがなかった。

 罪悪感しかなかった。

 号泣で自動ドアを抜け、風除室を抜け、静かな新宿に出た。

 気圧が変わったように鼓膜が痛む。

「ぁ……」

 仰がれた視界のちょうどまん中に、霞む月が、浮かんでいた。

 白くて、円い月。涙さえなければ、満月なのかも知れない。

 嗚咽の誤嚥が、急速に晴れていく。

 だって、月は、あたしにとっても救済。

「づぎのざん」

 幼いころにあたしが見ていた月は、月乃さんの見ていた月と同じだったろうか。

 月乃さんは、イジメが原因だったけど。

 あたしは、仔猫の死が原因だったけど。

 だけど、同じ救済を、わかちあっていただろうか。祈りあっていただろうか。心を通わせていただろうか。あの月がそうなのだろうか。今もまだ、そうなのだろうか。そうであっていいのだろうか。

「月乃さ」

 と……仰いだ鼻の下を、右から左に、



 ひ ら ひ ら



 まばゆいなにかが、揺れながら、とおりすぎていった。

 小さな、500円玉ぐらいの、なにか。

 ゆっくりと目で追うと、

「あ、あ……!」

 小さなそれは、蝶々だった。

 病院の灯か、新宿の灯か、それとも月の灯かはわからないけど、自分から発光しているかのように、蝶々は、白いまばゆさを宿して輝いていた。まるで、夢の中の恩田病院、廊下を満たしていた太陽のような、胸を引き寄せる、暖かい茜色の混じった、白いまばゆさを。



 ひ ら ひ ら



 右に。

 左に。

 縦に。

 横に。

 たどたどしく揺れながらも、弧を描いて蝶々は、少しずつ、少しずつ、空を、月を目指しているようだった。

「待って」



 う ま れ る ま え は
 あ た し は
 い も む し だ っ た




「待って!」



 う ま れ て す ぐ に
 あ た し は
 さ な ぎ に な っ た




「おねがい待って!」



 ふ じ ゆ う な の は
 た ぶ ん
 あ た り ま え だ っ た




「行かないで!」



 な み だ も え み も
 す べ て が
 さ な ぎ の な か だ




「待って!」



 そ ら た か く ま う
 ち ょ う ち ょ に
 な る た め だ っ た




「待って月乃さん!」



 あ か ね の は ね の
 ち ょ う ち ょ に
 な る た め だ っ た




「ヤだぁ!」



 り り し く
 し ね た ら い い




「行がだいで月乃ざん……!」



 あ な た は
 な い て て い い




 月を目指す、蝶々。

 咄嗟に追いかけ、呼びかけ、無我夢中で両手を伸ばした。頑張れば届きそうな気がした。今ならばまだ取りかえせそうな気がした。まだ、やりなおせそうな気がした。ちゃんと支えてあげられそうな気がした。大城舞彩という人間を偽りなく打ち明け、高梨陽子という「月乃さん」を、ちゃんと支えてあげられそうな気がした。今ならばまだ、間にあうような気がした。

 でも、

「月乃さん。月乃さん。月乃さん……」

 手は届かなかった。

 そのうちに蝶々は、月乃さんは、もっともっと小さくなって、月の光と重なって、月の輝き、そのものになって、それから、ついに消えて、無くなった。

 無くなってしまった。

『あの、あの……ありがとう』

 なんで。

 なんであたしは、昨日、月乃さんからの電話に出なかった?

 あたしの番号に、あんなに喜んでくれた月乃さんに、なんで応えなかった?

 それどころじゃなかった?

 その結果が、これなのに?

 間にあう?

 ふざけんなあたし。

 ふざけんな。

 ふざけんな。

 ふざけんな。

 月は輝く。この世界のどこかでちゃんと太陽が燃えていると証明するために、月は静かに輝いている。我が子を見守る母親のように、力強く輝いている。たとえ、星の冴えない都会であっても、でも負けずに、かぎりなく、一途に。

 駐車場にへたりこんだまま、あたしは、すぐに顔を落とした。

 あたしに、月を仰ぐ資格はない。

 希望である太陽はもとより、月乃さんの救済である月にもなれなかった。まして、SOSなのかも知れない発信を、幼少時の高梨陽子がされたような無視で、無下に、取りあおうとはしなかった。

 あたしに、月を仰ぐ資格はない。

 こっ。ヒールの鳴る音が背後に聞こえ、アスファルトを経てふりかえる。漏れだす院内の灯を背負い、よりシャープに見える小池敦子が立っていた。

「月乃さんが、行ってしまった」

 でも敦子はなにも応えない。影を帯びるばかりで表情がくみ取れない。泣いているのか怒っているのかもわからない。もしやあたしを責めているのかも知れない。

「行って……」

 と、その時だった。

「我々が見ていない時の月は、はたして、この世に存在するのだろうか?」

 背後でハンドベルが謡った。

「量子力学の課題に、あたしならばなんて答えるだろう?」

 ふり向くと、そこには、月を仰ぐ、

「……来瞳?」

「どうでもいいと答える」

 彼女はそう放言し、

「センチメンタリスト御用達の学問なんかには興味がないと答える」

 今度はあたしのほうを向いた。

「大切なのは“ある”と思う信念だもん」

 微笑んでいるとわかる。

「舞彩。ナオくんが心配してたよ」

「え?」

「東都医科大学病院に、舞彩の様子を見にいってくれないかって、電話してきたよ。伝ての伝ての伝てからあたしの番号を聞きだして、わざわざね?」

「なんで、来瞳に?」

「知らない。恋人だからこそ打ち明けられないことがあるかも知れないって話してたけど、知らない。あたしには興味ない」

 恋人だからこそ?

 それは違う。

“誰に対しても”だ。

 だって月乃さんにさえもできなかった。そしてそれは、目の前の来瞳にもまだ。

「あたしがガゼン興味あるのは」

 細い腰に左手をあて、右手で栗色の髪をかきあげながら、

「舞彩を苦しめている元凶だけ」

 宣戦布告するように親友はいった。

「舞彩を泣かすヤツは赦さない」

“元凶”?

“ヤツ”?

 月乃さんの死に、じゃあ来瞳、いったい誰が関わっているというの?





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Nanase Nio




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