偽りのカレンデュラ 



 無言で訪れたタワレコ。

 韓流ブームの先駆けなのだろうボーカルユニットの巨大なポスタ、得意げな笑顔に出迎えられる。





月 乃
Section 2
抱 擁ホウヨウ





 でも、1階フロアを席巻しているのは、



 や っ て み ろ あ た し
 彷 徨 っ て み ろ あ た し




 ベルボトムのよく似合う女性シンガー、突き抜けるようなハイトーン。

 ところが、棚に揃えられるジャケットはどれもこれもアイドルユニットばかりで、日本のアイドルの歌唱力を、シーン事情を知らない外国人観光客に誤解させている。



 昨 日
 見 た 夢 の あ た し さ え
 呆 れ る ぐ ら い




 いつの間にか大学ノートを仕舞っていたナオを先頭に、憩いをもたらす涼しさと、パンキーな衣裳の少女たち、クラシカルなユニフォームの店員たちの横をすり抜け、奥にあるエスカレータをのぼる。



 や っ て み ろ あ た し
 燻 っ て み ろ あ た し




 追い越しがかけられないぐらいに狭い、のぼりのエスカレータ。ゆったりと余裕のあるブレザの、2段、後ろに立つあたし。小柄なナオの背中を上目づかいで見あげ、物思いの瞳で、パンツのベルトから伸びるシャツの皺を数えるしかなかった。



 い つ ま で も
 傍 に い さ せ て と
 燻 っ て み ろ




 占うまでもない、未来ある生命線の腰。あたしはいったい、この、どのあたりで、ちゃんと燻っていられたんだろう。


同日 〜 2010/06/30 [水] 15:36
東京都渋谷区神南1丁目
タワーレコードの2F


 邦楽を網羅している2階のフロア。到達したあたしの目に、まず、鴉の巣を髣髴とする一団が飛びこんできた。

 V系の支持率は粘り強く、インディーズ同然の知名度を蝟集した棚に様々な種類の漆黒たちが群がっている。きっと、原宿の裏に栄える縮緬問屋につくらせたのだろうオートクチュールの、折り畳まれることを知らない羽根を颯爽と毛羽立たせ、憧れの宝玉を手に仲間たちと囀っている。売れてほしいのに、売れすぎるのも癪に障る……未来ある生命たちがライムを奏でている。現在の、この一瞬を生きているんだと嘯きあう“未来ありき”のライムを。

 もはや、あたしには相応しくないフロアなのかも知れない。

 脈動する命の波をかきわけ、恐れることなく新譜コーナを目指すナオの背。熟れたバタ足を演じてつき従うだけで、あたしのヒビ割れた羽根は手一杯。

 手前から奥へと、手を伸ばすこともなく黙々とアイドルを見透かし、相変わらずの2段の距離を隔てたままにあたしもそれを真似る。突きあたりでUターンするように隣りに並ぶラック、タ行から五十音を遡るナオ。あたしもまたそれを真似る。再び、突きあたりでUターン、ハ行から五十音を追い、あたしも真似る。

 蛇行のナオ。

 沈黙のナオ。

 上手に真似られない。

 陳列棚をドライに一瞥する小さな背中はなんだか怒っているふうにも見え、いつも以上に大きく見えた。ナオにしては珍しく厳つくて、心が窮屈になった。だからか、彼を真似て一瞥しながらも徐々に伏せっていくあたしの視界は、伏せれば伏せるほど薄暗くなり、だからますます背中を巨大なものにした。

 やっぱり、あたしに相応しくないフロアなんだ。だって、こんなにも、ナオの背中しか見させない。

 ワ行を冷やかし、突きあたりまでとおりすぎた。すぐに背中は左折し、まっすぐに歩いてく。そのまま、タ行を集めた棚には折れることなく、エスカレータをあがってすぐ、新譜の傾く壁ぎわに舞い戻った。

 ここまでの流れは、なにかを探すためのスピードじゃなかった。なんだか、鬱憤を晴らすための密やかなジョギングだった。例えば「なに怒ってんの!?」という恋人の問いかけがよく似合う、どこにでもある、口喧嘩の前フリのスピードだった。

 だったら問いかければよかったのかな。呼び止めて、怒ってみせて、口論でも演出して、いっそのことあたしのほうから踵をかえせばよかったのかな。追いかけさせてやればよかったのかな。みんな、みんな、そうやって愛情を深めあっているのかな。

 いくつもの良質なわかれ道をさし置き、のこのこと背中を追いかけたこの肺臓は、すっかり酸素を失っていた。胸が上下するほどに、また、視界が薄暗さを増す。

 不意に、壁ぎわ、中央の棚の前でナオの足が止まった。後頭部の角度が、壁の左手へと傾いている。そしておもむろに2歩をつめると、DJ変身キットみたいなヘッドフォンを外して頭に被った。慣れた指先で試聴をはじめる。

 決してふりかえらない背中。

「……こっち向けよ」

 届かない言の葉。

 精巧なスタチュー。

 新たな悪夢に迷いこんだみたい。



 悪夢。

 もう2度と立ち入るまいと決心したにも関わらず、ついつい興味に敗れて、昨晩、あたしはまたパパの扉を抜けてしまった。いや、実際には、パパの死んでいるらしい事実はすみに追いやられ“あたしの死”のほうが主役あつかいされている変な扉。

 その中で、絶対にふり向かないのだろう大親友の背中を横目に、2階を目指した。コイケアツコとやらがトイレをすませて、戻ってくる直前のことだった。

 ママの様子が気がかりだった。

 木目が濃密に浮かぶ階段を駆けあがり、さらにまっすぐに奥へと伸びている2階の廊下を踏む。右手には3枚のドアが並んでいる。手前にあるのが両親の寝室、中央が物置で、奥があたしの部屋。

 階段の脇、そして、廊下の突きあたりにある窓から、仮に季節は知らずとも、春を思わせるに足る淡い陽射しが斜めに漏れている。ただ、いずれの陽射しもスタミナが貧弱で、まばゆさが窓ぎわを離れることはなかった。そのせいで、廊下フロア自体は仄暗く、濁った琥珀色に支配されていた。宵闇か、花曇りか、梅雨時といった風情。

 かろうじて宿された朧な自分の影を乗り越え、開け放たれた寝室をうかがう。

 閉めきられたカーテン、ほとんど煮つめられたような琥珀色と化した部屋の中央、古臭いダブルベッドがどっしりと鎮座している。そしてその片隅に、やっぱり背中を向けたままで、ママが腰をかけていた。

 輪郭を失った背中。

 鯨幕ボーダーのカーディガンは、そこにあったものをとりあえず着てみたといわんばかりに斜めに崩れ、手入れの几帳面さが自慢だった黒髪は、甲斐性を失ったようにボサボサと乱れていた。両の腕をだらりと落とし、首を猫背にし、まさに絵に描いたような亡羊の嘆。室内の秩序に折りあいをつけられず、結局、諦めたように琥珀色に溶かしただけの、無惨なたたずまい。

 1歩、踏み入る。

 ベッドの枕もとの床に、衣服が散乱していた。これこそ、完膚なきまでに琥珀色に溶かされて、目を凝らさなくては喪服とはわからなかった。

 ベッド脇の小さな卓上には、白い湯飲み茶碗がひとつ、力なくも唯一の光を担っている。洞窟内を仄かに照らす、自然発光のキノコのよう。

 左手、手前のコーナの床に、波打つ塊が落ちていた。画鋲を失ったカレンダーで、しかし見開きを読むことは叶わない。

 内装に変わりはなくも、どこかがほんの少しずつ崩壊したような寝室。

 すると、立ちつくす鼓膜に、ぼそぼそと女の声が届いた。1階からで、コイケ某が先陣を切るシナリオが動きだしたらしい。

 そういえばこのあとにママが泣き叫ぶんだったな……シナリオを思いだし、途端、階段を駆けあがってきたことを後悔する。来瞳の扉、仏間での号泣でさえもいまだにあたしの意識を遠のかせるぐらいなのに。この“新作”の結末を間近に控え、自我を保っていられる自信など毛頭ない。なんの考えもなしに興味本位で動いて生存できたケースはない……ホラー映画のセオリーが脳裡をよぎった。

 後悔して逡巡するあたしの鼓膜に、1階から、ヒアリング不能な籠った声。なにがきっかけなのかはわからないが、大城家がどういう家族なのかとレビューされているころあいなのだろう。

 と、

『まい』

 ママの背中がつぶやいた。

 パウダー状の新雪を踏みしめたような、響きのない、儚い声。

『まい』

 1階の対話に、間の手を入れるように、

『……い』

 何度も、あたしの名を呼ぶ。そしてそのたび、上半身が左右に揺れる。いつか音楽番組に出てたスティーヴィー・ワンダーのように、左右に、ゆらゆらと。

『ま、い』

 あたしの名前で、謡ってる。

 対話とウィスパーの、輪唱。

 そして、対話のほうに休符が入った。

 同時に、

『い……ぃ……』

 ママの揺れもおさまり、その代わりに、後頭部がかたかたと、小刻みに、琥珀色の薄闇でもそうとわかるほど震えはじめた。

『ひ。ぃ』

 泣いてる。

 自然、あたしの呼吸は荒くなって、胸が窮屈になって、全身のバネが弛んで、膝が抜けそうになって、立ってるのがやっとになって、ぽろ、涙が落ちて、

『舞彩はもうこの世にはいないんだよ!?』

『ぅあああ舞彩ぃ、なんでパパなのぉ!!』

 来瞳の声に触発され、わずかにのけ反りながら、ママが絶叫した。

『ママもいっしょにつれてってぇぇぇ!!』

 ど し ゃ ん

 重い地鳴りとともに、目の前からママが消えた。児戯のように、ベッドからお尻で滑り落ちて、消えた。

 でもまだ、

『舞゙ぁ彩ぃぃぃぃぃ!!』

 絶叫の残像が轟いている。

 あたしはもう耐えきれなくなって、

『ママ』

 力なく、よろよろとベッドに歩み寄り、綿でできているとは思えないスタチューのマットに右の膝を乗せて、その向こう側に落ちているらしいママを探した。

『ママ。ママ』

 膝をおろし、ベッドを半周する。

 床の闇に、ママはつくばっていた。両の足を無造作に投げだし、腰をねじり、額を床に押しあてながら、

『おおおおおおお』

 咆哮をあげていた。

 こんなの、ママじゃない。

『ママ。ねぇママ』

 咄嗟に、その腰に両手を伸ばした。

 触れた。

 体温は、よくわからなかった。

 だって、昆虫が、涌かない。

 そうだ、来瞳の扉、仏間を初めて訪れた時も、その肩を取ったのに漫ろな感覚には陥らなかった。月乃さんの肩を担いだ瞬間にもそうだった……それらを顧みた途端、両手が躊躇した。

 衝動が勝れば触れられる。

 理性が勝れば触れられない。

 触れたい。

 触れたくない。

 どっちが本音?

 どっちが虚偽?

 葛藤が渦を巻いて、ストレスにむずかるように、ママの腰を押さえる掌が震えた。

 体温は、やっぱり感じない。

 昆虫も、やっぱり涌かない。

 なのに、触れているのが怖い。

 触れたいのに、触れたくない。

 は。は。は……過呼吸。

 自分がわからない。

 情けないのかさえもわからない。

『ママ。こっち、向いて?』

 これ以上は、寄れない。

 寄りたくて、寄りたくない。

 だから、もう寄れない。

『こっち向いてよママ』

 その背中にすがりたい。

 すがりつきたい。

 すがりつきたくない。

 すがりつきかたを知らない。

『なんか、いっ、てよママ』

 涙を抑えきれない。

 視界が滲んで、心細くなる。

『あたし、あた、ど、どうなっ、ちゃう、の? どう、なってるの? いつなの? いつ、い、しし、死ぃぬ、の? 教えて。ママ。こっち向いて、教えてマ』

『おかあさんですね?』

『え?』

 ぶつっと急に嗚咽が途切れ、つくばったままで、ママが口走った。譫言のような、ロボットのような抑揚のない台詞だった。

『連れていったのはおかあさんですね?』

 句読点のない、淡々とした早口。

 跳ねたように、思わずあたしは、両手を腰から離していた。

 ……おかあさん?

 ……お義母さん?

 ……おばあちゃん?

 予定調和なのだろうシナリオを、

『母親のいない私を』

 棒読みで朗読するママ。

『優しく迎え入れてくれたのがおかあさんでしたよね。結婚して、おかあさんが私の初めての母親になったんですよ。あなたを本当の母親のように思っていたんですよ』

 怖気がする。

『それがどうですか。この仕打ちですか』

 寒気がする。

『私を孤独にして、そんなにも私のことが嫌いだったんですか』

 眩暈がする

『舞彩を奪い、昌範さんを奪って、それで幸せですか。それで満足ですか』

 吐き気がする。

『ふざけないでください』

 意識がさらに遠のく。

『昌範さんだったらまだいいでしょうね。なんなら私でもよかったでしょう』

 琥珀色が、白くなる。

『舞彩はこれからだったんですよ』

 白くなり、視界はさらに曖昧に。

『舞彩の人生はこれからだったんですよ』

 暗黒のような、白。

『どうして舞彩を連れていくんですか』

 なんにもない、白。

『私ではなく』

 虚無のような、白。

『どうして舞彩なんですか』

 ママが、

『あなたは』

 ママが、

『連れていく人を間違えた』

 壊れた。

『惨たらしく死なせるべきはおかあさん、私のほうでよかったんです』



「舞彩」

「ん?」

 はっとして視線をあげた。途端、視界が拓けて、まばゆささえもおぼえた。

 いまだヘッドフォンを深く被ったままのナオが、わずかに上半身を捌いてあたしのほうを向いていた。表情はなく、まるで、小川のような清楚なまなざしだった。

 懐かしい顔だと思った。

「なに?」

 試聴器のトラックはゼロを指している。なのに、ナオはヘッドフォンを取らない。そして彼は、あたしの返答にも応えない。

 尖った間があく。

 でも、心地よい間でもある。

 深く、見つめあう。

 口籠るでもなく、茶化すでもなく、ただまっすぐ、時間を沈黙にあてる。

 ナオはわかってる。

 あたしが苦しんでること。

 絶望して“無”になりかけてること。

 たぶん、わかってる。

 だから、こんなにも抱きしめられてる。

 つきあいたてのころは一瞬一瞬の1歩が楽しくて、だから怖くて、物理的な距離を工夫するのに無我夢中で、馴れあいを嫌うドライな女を演じるのに懸命で、要するに現状維持しかプランがなかった。

 それが、いつの間にか夢になってた。

 ナオに抱きしめられるのが夢だった。

 夢である以上、当然、あたしの辞書には「明日」も宿り、面倒なことはなにもかも明日にまわせるようになってた。あれほど“点”に専念していたくせに、未来志向の“線”が引かれた途端にコレだった。

 明日、縮めればいいや……展望も眺望も希望も志望も、なにもかもが明日任せ。

 面倒は明日へ、つまり、明日があるから面倒臭い。きっと、心の奥底では、明日がなければいいのにと、ヤキモキしていたに違いない。今、この一瞬だけに集中できたならばどんなに楽だろうかと。

 望まれる未来と、疎まれる未来、両者がちゃんと矛盾しあうことで初めてあたしの恋は成り立ってた。

 それがどうだ。未来を失い、こんなにも夢が叶うなんて夢想もしなかった。まさかこんなにも柔らかく、目で抱きしめられるなんて。抱擁というものが、まさかこんなにも綺麗だったなんて。

 あたしは、惨たらしく死ぬ。

 それがどんな惨劇なのかはわからない。でも、あたしは惨たらしく死ぬ。綺麗ではいられない死にかたをする。ママが壊れてしまうほどの、そして、ナオが登場しないほどの、悲惨な死にかたを。

 あたしが死に、パパが死に、でもナオは我が家にもいなかった。来瞳はいたのに、そして、どうやらこれから知りあうらしい「アツコ」という女性もいたのに、ナオの姿はなかった。

 親友の来瞳が死に、その枕もとにナオが立つこともなかった。あたしの大切な人が死んだというのに、ママでさえ駆けつけたのに、やっぱりナオの姿はなかった。

 やがて、ナオも死んだ。あたしの死後、遥かな時を経て、孤独のままに、死んだ。誰とも結婚せず、家族をつくらず、たったひとりで、すべてに先立たれてようやく、ナオはひっそりと死んだ。

 あたしを、ずっと、死ぬまで想っていてくれたのかな。それとも、そう想わざるをえない死にかたを、あたしがしたのかな。

 柔らかく、綺麗な抱擁が夢だったのに、叶ったら叶ったで、ただ孤独なだけ。

 漫ろなままでもいい、吐いてしまってもいい、こんな綺麗な抱擁じゃなく、べつに汚くてもいいから、しかと触れられたい。

 号泣しながら、抱かれたい。

 吐瀉しながら、抱かれたい。

 失禁しながら、抱かれたい。

 この身体を満たしている体液がナオへの愛となるのなら、撒き散らす苦痛を超えてでも、どうか喜んでさしだしたい。

 だから、大丈夫なんだよ?

 もしもあたしが泣いたとしても、怖がらないで抱いてていいんだよ? 吐いても、漏らしても、遠慮しないで抱いてていいんだよ? あたしの中では、苦痛と歓喜は、矛盾しないんだよ?

 でも、ナオは優しいから、そんな抱擁は絶対にしない。たとえ肉を重ねても、いつまでも綺麗なままに保っててくれるはず。そして、あたしの胸は晴らされず、ナオの胸にいつまでも綺麗なままで、間もなく、惨たらしく死んでしまうんだ。

 孤独な気持ちになる。

 こうして抱きしめられて、夢を叶えて、あたしはますます孤独になる。

 と、不意に、ナオが目をそらした。

 おもむろにヘッドフォンを外す。そしてそらしたまま、あたしの目の前に掲げた。ぽかんとするも、ずい、さらに目の前へとさしだされ、躊躇しながら受け取った。

 受け取った直後、

「俺、帰るわ」

「え?」

「また明日ね」

 目をそらしたまま、ぼそっとつぶやく。にわかに背中を向けた。そして、棚をかきわけてエスカレータのエリアを目指した。

 ヘッドフォンの重みに挑むように、投げ捨てもせず、あたしは追いかけなかった。棚の頂、ナオの小さな頭を見送ることしかできなかった。

 完全にナオが消え、試聴器と対峙。

 そして、ヘッドフォンを被った。



 ご ぢ ょ ご ぢ ょ



 ナオの体温が耳を覆った。いや、すでに冷めているのかも知れない。錯覚なのかも知れない。だけど、確かな体温を感じた。昆虫が背中を這いあがり、首筋を抜けて、眉間へと集まった。その足跡には、緊張と弛緩、対極の感覚が残り、崩れ落ちそうな気怠さをおぼえた。

 踏んばって耐える。逃げずに堪能する。

 ちょうどその時、頭上のBGMが、次のレコメンドを奏ではじめた。サンプリングらしいドラムにボサノバチックなピアノが乗り、生きることに忙しい空間に、死んだように緩やかな時間を提供する。

 体温を堪能しつつ、頭上に耳を澄ます。



 ご ぢ ょ ご ぢ ょ



 う ま れ る ま え は
 あ た し は
 い も む し だ っ た




 ご ぢ ょ ご ぢ ょ



 う ま れ て さ ら に
 あ た し は
 さ な ぎ に な っ た




 ご ぢ ょ ご ぢ ょ



 り り し く
 し ね た ら い い




 ご ぢ ょ ご ぢ ょ



 あ な た は
 な い て て い い




 ご ぢ ょ ご ぢ ょ



 ふ じ ゆ う な の は
 た ぶ ん
 あ た り ま え だ っ た




 ご ぢ ょ ご ぢ ょ



 な み だ も え み も
 す べ て が
 さ な ぎ の な か だ




 ご ぢ ょ ご ぢ ょ



 り り し く
 し ね た ら い い




 ご ぢ ょ ご ぢ ょ



 あ な た は
 な い て て い い




 ご ぢ ょ ご ぢ ょ



 中盤にさしかかるころには完全にナオの体温は雲散していた。それとも、あたしの体内に吸収されたのかも知れない。

 そうだったらいいのに。

 不思議と、漫ろになるだけで吐きそうになることまではなかった。あたしが成長をしたのか、虫に慣れたのか、諦めたのか、それともこの体温が、単にキスとは次元の違う低レベルのものなのか、どれも正解のように思えて結審がつかなかった。

 ああ、歌がまぎらわしてくれたのかも。

 なんて歌だろう。

 歌手はわかってる。1階でも流れてた。ベルボトムがメインアイテムであるロックシンガーソングライタ・天井聖識。

 たぶん、新譜の中の1曲なのだろう。

 ヘッドフォンをもとのフックにかける。並列の試聴器をひとつひとつ見てまわる。エスカレータをあがったすぐのところに、モノクロ写真の、タレ目をまっすぐに睨めつけさせている女性の顔をアップにした、シンプルな構成のジャケットを発見。

 慎重に両手にすると、裏のクレジットに目を凝らす。



 天井聖識 Amai Cecil
 排

 01 源氏名
 02 鉄拳アイデンティティ
 03 ULTRAVIXEN
 04 癌
 05 生まれてゴメン
 06 卵巣
 07 ドレッドベイビー
 08 Huh!? What!?
 09 あなたのトルソー
 10 おめおめ
 11 希望はあれど乳房はなし
 12 BUTTERFLY



 今のは、なんて曲なんだろう。

「いもむし」と聞こえたような気がする。

「さなぎ」とも聞こえたような気がする。

 イモムシ?

 サナギ?

 ……蝶々?

【BUTTERFLY】?

 蝶々といえば、



『夢の舞彩も変わんないけど』



 嫌われる準備の整った、悲壮感の冬。

 たったひと言で、歓喜に赤らんだ冬。

【胡蝶の夢】

 今でも、ナオの夢の中にいるあたしは、まだ変わらないでいるのかな。それとも、ぱしっ、無意識に叩いてしまったことで、とうとう醒めてしまったのかな。夢の中のあたしを、裏切ってしまったのかな。

 肩を叩く。

 傍目からすれば、むしろそっちのほうが恋人同士に見えるはずなのに、恋人同士でさえも、普通、そっちのほうが恋愛として適切なコミュニケーションのはずなのに、あたしたちにとっては隔たりの原因でしかなかった。そしてそうさせたのは、他ならない、あたしのほうだった。

 肩を叩く。

 いちばん、したかったことなのに。

 ……叩かなきゃよかった?

 いや、たぶん、そういうことじゃない。ナオはたぶん、いつだって、あたしの力になろうとしていたんじゃないんだろうか。あたしの苦しみをわかった上で、あたしのほうから打ちあけることを、望んでいたんじゃないんだろうか。そのための、準備のされたナオなりの毎日だったんじゃないんだろうか。穏やかで、優しく、でも、忍耐強い距離だったんじゃないんだろうか。

 あたしのほうから行動を起こすことを、応援していたのかも知れない。待っていてくれたのかも知れない。躊躇するあたしもふくめての“大城舞彩”を信じた上で。

『道はどこかにつながっている』

 ナオはそんな人だから、前向きに、根気強く、待っていてくれたような気がする。だから、大切な経緯を飛び越えて、悟ったように、諦めたように、いきなりその肩を叩いたあたしに、途方に暮れてしまったのかも知れない。

 怒ったんじゃない。

 呆れたんじゃない。

 嘆いたんじゃない。

 途方に暮れてしまったんだ。

 たぶん、そんな気がする。

 アルバムを戻す。手に入れてしまいたい欲もあったが、後悔しそうなので辞めた。

 わかっていることを歌われてそうで。

 できもしないことを歌われてそうで。

 これ以上に、あたしを困らせそうで。

 途方に暮れさせそうで。

 いや、天井聖識にかぎった話ではない。タワーレコードを一杯に満たしたすべてのライムが、現在のあたしには相応しくないもののように思えた。

 ここにあるすべてに“明日”が兆され、誰もがみんな精一杯に愛し、喜び、悩み、苦しんでいるのだろう。

 でも、あたしに“そんな明日”はない。

 面倒をすべて明日にまわす日々。触れることも感じることも、打ちあけることも、すべて。そして、そんな明日を、希望だと思いこんで生きてきた。いつか叶うはずと信じて、望んで、希って。

 明日がないという真実を知って、面倒をまわせないとわかって、だから、すべてが叶うのかといえば、そうでもなかった。

 少しだけ、抱きしめられただけだった。

 愛する肩を無意識に叩いて、愛する人を途方に暮れさせただけだった。その程度のことだった……と、そこまで思って、

「あは」

 嗤ってしまった。

 触れられていない、感じられていない、打ちあけられてもいないのに、いったい、ナオのなにをわかったつもりなんだろう。

 途方に暮れた?

 ホントかよ。

 怒らせただけかも知れないし、なんにも思われなかったのかも知れないのに、さも理解しているかのようにセンチメンタルに浸る、あたし。

 バカみたい。

 あたしには明日がなく、そして、ナオのことを知らないままでいる……それだけのことじゃん。そしてそのままに、あたしは惨たらしく死んでいくんだ。

 バカみたい。

「バガみだい……」

 涙が頬を伝う。

 生命の坩堝、渋谷のまん中、分厚い壁と向きあったまま、明日のライムに包まれたまま、誰に気づかれることなく、あたしは静かに泣いた。

 もう、なんにもない。

 心、空っぽ。

 ナオのことで、もう燻りも、窮まりも、怖がりもできない。できる心がない。

 もう、なんにもない。

 なくなってしまった。









 BUTTERFLY

 作詞:天井聖識
 作曲:天井聖識
 編曲:天井聖識+STICH

 うまれるまえは
 あたしはいもむしだった
 うまれてすぐに
 あたしはさなぎになった

 りりしくしねたらいい
 あなたはないてていい

 ふじゆうなのは
 たぶんあたりまえだった
 なみだもえみも
 すべてがさなぎのなかだ

 りりしくしねたらいい
 あなたはないてていい

 そらたかくまう
 ちょうちょになるためだった
 あかねのはねの
 ちょうちょになるためだった

 りりしくしねたらいい
 あなたはないてていい

 りりしくしねたらいい
 あなたはないてていい










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Nanase Nio




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