偽りのカレンデュラ 



 厨房の床下にあったというリゾットを、レンジにかけて食べる。まだ会ったことのないママの保存食、フリーズドライ特有のパサついた米粒をかきこみながら、太陽のようだというママの本音に怯える。許容はしてくれるかも知れないが、もしや容赦はしてくれないかも知れず、でものうのうとかきこんでいられる自分が最も恐ろしい。





昌 範
Section 6
罪 悪ザイアク





 責任逃れするように尋ねる。

「1月15日って仰有いましたけど」

「はい?」

 快活そうな口もとを小さく固めて食べる月乃さん。音もなく、上品。

「悪夢を、あの、見はじめたのが」

 上品というか、マイペースそう。昔からそういう食べ方だったのだろう。

「それって、もしかして、登録した日……ですか?」


同日 〜 2010/06/20 [日] 13:12
東京都新宿区歌舞伎町2丁目
Zion東新宿


 登録日。

 あたしは、5月29日の15時34分だった。

 月乃さんは、確か1月15日の14時18分。

【カレンデュラの私選館】に、作品を登録した日。

 もう、それしかないと思ってる。

 処女作を登録した日を契機に、あたしは悪夢を見はじめた。で、2作目を追加登録した日を契機に“扉”まで追加された。

 確信しているといってもいい……悪夢を見るためのシステム。

“恋愛・友情・家族・自伝・本音”

 トップページからつながる5つの登録・検索コンテンツ。このいずれかに登録することで“カテゴリに匹敵する身内の死”を予見することができる。

「恋愛小説」ならば恋人。
「友情小説」ならば友達。
「家族小説」ならば家族。
「自伝小説」ならば自分?
「本音小説」ならば……なんだろう?

 重複はアリだろうか。同作品という意味ではなく、例えば、新たな恋愛小説を恋愛カテゴリに新規登録した場合、もうすでに“ナオの死”を見ているあたしは、どんな悪夢を見るんだろう?

 わからないことのほうが圧倒的に多いんだけど、でも、悪夢を見るための基本的なシステムは、そういうことだと思う。

「カレンデュラの私選館に」

 口もとを左手で隠しながら、月乃さんも同じようなことを説明した。

「もうご存じかとは思いますけど、作品を……『Moon Child』を登録したのがその日です。家族小説、というカテゴリだったと思いますけど、そこに登録しました」

「カレンデュラから、メールは?」

「きました。すぐに。なんか意味不明な、不気味というか、変な内容でした」



リンクをお貼りいただいて
誠にありがとうございます
わたしはあなた様のことを
お命が続くまで離しません



「颯斗の件のあと、色々と消しちゃって、今はもう手もとにはないんですけど」

「いつ、気がついたんですか? 登録した日がきっかけだったって」

「うーん……気づかされたといったほうがいいですかね。2ケ月ぐらい前の、4月の中旬ぐらいに、メールがきまして」

「メール?」

「以前にも話しましたけど、夏さんという人からでした。変な夢を見ていませんか?……という、私が雨音さんに送ったような内容のものでした」

“夏”

「カレンデュラの私選館が、どうやら関係あるらしく、それで、登録カテゴリに該当する身内の夢を見るようだ……と」

 あたしよりもずっと前に、この夏という人はシステムを見抜いていたのか。

「確かに登録先は家族カテゴリでしたし、あの作品は……颯斗がモデルでしたけど、やっぱり信じられませんでした」

 陰を帯びる月乃さんの顎の角度に、これ以上を尋ねることへの躊躇いが生まれた。もう、そっとしておいたほうがいいのではないかと。なのにこの口は、他人のことはいえないぐらいに残酷に動いた。

「あたしにメールをくださったのは、どういうきっかけだったんですか?」

 慇懃無礼な刑事の尋問みたい。

 すると月乃さん、んふふふ……また自嘲気味に笑うと、

「颯斗のことがあって、もうホームページどころじゃなくなって、だから、畳もうと思ったんです。もうムリだよって」

 器にスプーンを休ませ、

「で、これまでお世話になったお客さんにラストのご挨拶をと思って、最初に、雨音さんのお家を訪れました。そしたら、件のサイトの名前が貼られてあって、まさかと思ってアクセスしてみたら、やっぱり雨音さんの作品がすでに登録されてて」

 じっと目を見た。

「居ても立ってもいられなくなって、すぐメールをしました。そしたら、雨音さんも悪夢を見ていると」

 まだ、充血は引かない。ぷっくらとしていた涙袋にも、まるで熟れすぎたトマトの皮のような脆さが刻まれていた。

 雨音さんには申し訳ないんですけど……すぐに目をそらすと、

「ここにも味方がいたんだって、なんだか安心してしまいました」

 ごめんなさい……力なく謝った。

「私になにができるわけでもないし、状況打破するようなアイディアがあるわけでもないし、まだ、生きていこうとも死にたいとも思えない宙ぶらりんな状態ではあるんですけど、せめて会ってみたくなって」

「わかる、気がします」

 確かに、あたしも安堵した。

 味方がいた……と。

 でも、それ以上はうまくいえなかった。たぶん、あたしの経験していることよりも遥かに、月乃さんのほうが壮絶な経験だと思ったから。どう考えても、比較しても、あたしの経験なんてたかが知れていると、思わざるをえなかった。

 あたしの場合、自分本位だし。

 今も、心の奥底には、あたしもこれから自分の身の上を聞かせなくてはならないのだろうかという億劫さがカビのように根を広げていることも事実だし。

 うまくいえないまま、ついにはお互いに無言になって、リゾットを平らげていた。月乃さんを主導にして器やスプーンなどを片づける。

「やっぱり飲み物でも買ってきますね」

 早口でいうと、見慣れないうちは間違いなくギョッとされるだろう薄着のままで、月乃さんは部屋を飛びだしていった。

 上品なんだか、蛮カラなんだか。

 ひとりきりで再びソファに座る。煌々と焚かれる白い灯を、初めて明るく感じた。赤みのない蛍光灯は、ドライなオフィスを髣髴とする。

 と、その時、



 り ん



 遠くから、風鈴の音。

 どこから聞こえてきたんだろう。部屋の外からということはわかるものの、方位がさっぱりわからなかった。

 部屋の模様とは不釣りあいな音。だから余計に居心地が悪くなった。

 無性に音楽を聴きたくなった。こういう時は西野カナを聴きたい。どこにでもあるような、ありふれたダイアリの気持ちで、この偏った天秤に正しい釣りあいを持たせたくなる。

 携帯電話の中に保存してたっけか。

 時々、目醒ましの代わりにしてる。

 ……携帯電話?

 そこで、はたと思いだした。そういえばあたしの携帯電話、まだ、カバーオールの胸ポケットの中だった。

「蒸れる!」

 素早く悲鳴をこぼす。慌てて帽子かけの漆黒をまさぐった。ぜんぜん乾いてない。黒いポーチを抜き取ると、携帯電話を手にする。折り畳みをほどく。途端、

 ゔ ゔ ゔ

 バイブが震えて、びくッとしたあたしは危うく落としそうになった。

 特に問題もなくディスプレイはともる。さらに「メール受信」までともっていた。

 いったん、ソファに座りなおす。

 3件、新規にメールが入っていた。

 ひとつは、YLBからのメルマガのようだった。10時21分の着信。内容は、読者に向いているらしい大学を選ぶためのコツを伝授するサイト情報や、女子の常識を決定するという触れこみのアンケート、あとは今月のしおりランキングの報告など、特に琴線に触れない情報ばかりだった。

 そういえばこのメルマガ、読んだことがない。入会した時、ワケもわからずに購読項目をチェックしたままでいる。どうせ、あとでまとめて消せばいいやという思いが購読拒否設定への道を阻んでいる。

 もう1件は、ZOPという占いサイトのメルマガで、11時05分の着信。以前に登録していたサイトで、でもすぐに退会した。なのに、メルマガだけはまだ届いている。毎度、システムが疑問だけど、これもまた同じ理由で購読拒否を目指していない。

 そして、最後の1件が、

「……如璃?」






2010/06/20 12:31
YOU LOVE BOOKS
MAILより


■名前:

 如璃

■ホームページのURL:

 http://**.****.**.**/*.***y=a_cure_land

■内容:


如璃で33


428613能928623にも
い2343か種9312がある03だけど
例14ば

・テレパ3204(Te53e71at42y)
・予42(Pre23og6243tion)
・4513視(23lairv63y21nce)
・5403動力(Psy23hok43ne7443s)
・サイ25メト92ー(P7493ch63me81ry)
・瞬210312動(Tel32po7381at43on)
・念3284(81houg42to41ra71hy)
・発火能928623(Py73oki6232sis)

ちな72に
4494パシー・8342・透32553つを
7145めて
『超感21234422知2123(ES71)』
4583ぶ

で54?

恩田病1203の61513202
7114にし4145思1303だけど
岐632403に1193病院
252552
5403動928623027543女の子が
いた03だ46て

不治の817112で
入院32てた4521で

今21ら
10年12上も前らし1203だ24ど

で7525の子
どう75
422191を上7123118143945112子ら3223て
暴走33るこ45もあっ414521

特に
病2255部分が痛72出し4145端に暴351332て
328513囲に62害をもた91して41みたい

でも病1203としての体3112も1193し
なん5275しな12わけにもいか51い32
しかも
母1581が恩田病1203の看護士って55も1146て
いち15うの8213遇策として
廃病院55ほ1352隔離され4444

実3243
6513置状態51んだけど54


その子がそ551145
どうなったか61わか91ないんだ24ど
隔離428513に35の子
ホ73ペをつくっ44たんだ46て

ちょ13ど
ケー41イ328613説ってコンテン43が
世に出回92始めた2595で
そ55子もそこで小34430221いて
日頃の膿02出し44たと21で


7503題なの61
35の子55ペンネ04ムな03だけど

『カ94ンデュ91』

だっ41んだっ44


伝1491れる範12でわ2146たの61
ひ45まず2525まで

で75
も1342ょっと3291べてみ9354

11
その子の名前51んだ24ど

『カナ14』

と21いうら32い(こ9461まだ自信5112)


ト4546ち、無事?









「ち、ちょっと……!」

 なんだか、増えてる。

 文字化け、増殖。

 雨に濡れ、いや、蒸されて、携帯電話のほうが壊れたのかと焦った。だけど、その前の2件には特に異常は見られない。着信時間にもサブタイトルにも、なんら異変は見られないのだ。

 2件のメルマガに目をとおす。やっぱり異変はない。

 如璃の文章にだけ、文字化け。しかも、前のよりも明らかに数が増えている。

「阻止」という2文字が脳裡をよぎる。

 知られたくない情報を、文字化けで阻止しているかのような。

 誰が?

 カレンデュラが?

「待て。待て待て」

 声に出して心を落ちつかせる。

 目を皿にし、まずは、そうと読み取れる単語を抜きだしてみた。

『如璃・3つ・恩田
 病院・女の子がいた
 不治・入院・暴走
 部分・母・看護士
 廃病院・状態
 隔離・日頃の膿
 その子の名前・自信・無事』

 これぐらいか。

 次に、気になる部分をあげてみる。

『テレパ■・予■
 ■視・■動力
 サイ■メト■ー
 瞬■動・念■・発火能■』

 このへんは、なんか“超能力”の分類に見える。テレパシーとか、サイコメトリーとか、ソッチ系の専門用語?

『岐■』
⇒「岐阜」?

『暴■て』
⇒「暴れて」?

『■置状態』
⇒「放置状態」?

『どうなったか■わか■ない』
⇒「どうなったかはわからない」?

『ホ■ペをつくっ■』
⇒「ホムペをつくった」?

『ケー■イ■説ってコンテン■』
⇒「ケータイ小説ってコンテンツ」?

『世に出回■始めた』
⇒「世に出回り始めた」?

『■題』
⇒「問題」?

『■の子■ペンネ■ム』
⇒「その子のペンネーム」?

『カ■ンデュ■』
⇒「カレンデュラ」?

『も■ょっと■べて』
⇒「もうちょっと調べて」?

『カナ■』
⇒「……」?

『まだ自信■』
⇒「まだ自信がない」?

『ト■ち』
⇒「トトっち」

 と、ここで仮説を立ててみる。

 まず、超能力の分類が紹介されている。なんのためなのかはわからないが、重要な因子なのだ……としてみる。そして、そのうちの3つがなにかを象徴しているとする備考が置かれている……としてみる。

 で、岐阜県の恩田病院に、ある女の子がいた。不治の病気で入院していた。今からだいぶ前のことであるらしい。

 その子は暴走することがあった。特に、病の部分が痛むと暴れて害をもたらした。

 でも、なにもしないわけにもいかない。しかも、母親が恩田病院の看護士であり、だから、一応の待遇として、廃病院に隔離されていた。

 放置状態だった。

 その子がそこでどうなったのかはわからない。ただ、隔離されている時に、ホームページをつくっていたらしい。

 ケータイ小説というコンテンツが世間に出まわりはじめたころで、その子もまた、小説を書いて日ごろの膿を出していた。

 で、問題なのがその子のペンネームで、どうやら「カレンデュラ」というらしい。

 伝えられることは、ひとまずここまで。引きつづき、調べてみることにする。

 あと、その子の名前は「カナ■」というらしい(まだ確実だとする自信はない)。

 トトっち、無事?



『カナエぇ!! もう、やめぇ!!』



 カナエ?

 悪夢の悲鳴が脳裡にコダマしていた。

 あたしは、確かに耳にしていた。

 崩落に襲われながら、確かに。

「カナエ」で正解なのだろうか?

 メールの、欠けた部分。

 でも、なぜ「超能力」?

 超能力?

 そして「暴走」って、なに?

 害をおよぼすほどの暴走って?

 ていうか、ケータイ小説を書いてた?

 カナエが?

「カレンデュラ」というペンネームで?

 カナエが「カレンデュラ」なの?

 だけど、確か、カレンデュラって、存在しないんじゃなかったっけ?

『だって
 実在する気配がないんだよ
 カレンデュラなんて人──』

 提供したのは、如璃。

 そして今回も、如璃。

 この矛盾は、なに?

「なにか見落としてる?」

 それとも、つづきがあるのか。

 存在しなくなる、つづきが。

 ……存在しなくなる?

「死んだ?」



 り ん



 また、風鈴が鳴った。

 夏が近づいている。いや、やっぱりもう夏なのかも知れない。風鈴が鳴っているということは、夏だということ。

 だけど、あたしにはとても懐かしい音に聞こえた。過去をふりかえらせる、残酷な音色のように。

 土葬されたウサギのように。

 それとも



『まいのみがわりになったんだよ』



 ご ぢ ょ ご ぢ ょ



 ぱ く ん

 携帯電話を乱暴に折り畳んでしまった。いつもなら絶対にしない所作だった。

 あまりにも不用意な自分の行為に、再び携帯電話を開くと、優しく畳みなおした。安堵がほしくてしたことだった。

 二つ折りを両手に包みこむと、そっと、鳩尾にあてる。

 あたしは、今、とても大切なことを思いだしかけた。

 なんだっけ?

 いつだっけ?

 なぜだっけ?

 一瞬、脳裡をよぎった声は、間違いなくパパのものだった。パパの諭すような声。静かな、情け深い声。でも、忌まわしくもある声。

 まだ背筋が動揺してる。

 不用意に走らせるほどの動揺。

 ごぢょごぢょと、不快な蠢動。

 なんだっけ?

 いつだっけ?

 なぜだっけ?

 ウサギの時?

 いや、違う。もっともっと、前のこと。物心がつくかつかないかの時だと思う。

 すごく大切な記憶だと感じる。

 些細なことだけど、肝心なこと。

 この背筋の蠢き。まるで物を隠すようになった契機の記憶であるかのような、忌避したくもある“背徳感”。

 なんだろう。気になる。

 思いだしたい。うまく思いだせなくて、とても思いだしたい。今、それどころではないはずなのに。

 月乃さんはどこまで買いだしにいったんだろうと考えている。あんな薄着で、的になりやすい姿で、新宿のどこまで……と。余計に思いだせなくなると承知で、あえて身近な心配をめぐらせている。

 ふと、シトラスが頭を正した。冷静さを強いる、鋭い社交の香り。裸のつきあいを恥とする防御の香り。もうすっかり慣れたはずの香りまでが、これ以上の回顧を阻止しているかのようだった。

 もう、携帯電話を開けそうになかった。あまりにも突飛な、しかも不透明な情報が2つも流れこんできて、月乃さんの周りで起きた出来事や、悪夢の基本的なシステムなど、今日に知るべき主体的な情報をついうっかりと手放してしまいそうだった。

 1歩1歩、着実に片づけていったほうがよいような気がする。迷い箸が楽しい食事とは、わけが違う。

 そのために、悪夢に対する“積極性”を意識してみた。昼食を摂る直前に芽生えていた意識でもあった。カレンデュラへの、抑えきれない、でも発散できない怒りが、いつまでも怯えたままでいることに疑問を投じていた。

 攻めの姿勢が足りないんじゃないかと。

“攻め”

 毎晩、悪夢に呼び寄せられているだけでよいのだろうか?

 あるいは、あたしから“侵入”してやるほどの気迫が必要なのではないだろうか?

 カレンデュラの領域に、あたしから。

 だって、あたしは【恩田病院】へと踏み入ったんだ。窓を壊して、なにがあるとも知れない世界へと、足を踏みだしたんだ。いつものあたしの思いもよらない勇気で、暴挙に出られたんだ。

 まだ、やればできるような気がする。

 あたしにはもう、味方がいる。

 携帯電話をポーチに仕舞い、テーブルのすみに置いたと同時に、月乃さんが戻ってきた。手には白いビニル袋が1つ、多忙な音色を立てる。その格好でコンビニにまでいったのか。

 そして、彼女の背後には見知らぬ女性がいた。胸もとに裾に、黄金の菖蒲が開いた紺色の着物をしていた。ボリュームのある黒髪はアップにされ、上品な印象であると同時に、月乃さんとそう変わらない背丈でありながら大きくも見えた。

 シトラスの主。

「ああ、いらっしゃい」

 芯のある声でいうと、柔和な笑顔で軽い会釈。いや、軽いとはいっても鍛えられたお辞儀に見えた。こちらの背筋が正されてしまいそうな、理のような角度。

 案の定、慌てて立ちあがる。お邪魔してます……唸るだけで精一杯だった。

「こちらがさっき話してたママさんです。ミソノママ」

 美しい園と書いて美園……それから月乃さん、今度は美園ママにあたしを紹介してくれた。

 30代のようにも50代のようにも見える、ホステスのようにも料亭の女将のようにも見える、不思議な風格の美園ママ。化粧のしかたもバッグの光沢も、よもや踏み入ることもないとすでに諦めている異世界の、どこか宗教的でもある神々しさだった。

「アマネ、さん? 了解しました」

 1を語らずとも億を知った微笑み。

 とても勝てそうにないと思った。

 わかりやすく畏縮するあたしに対して、美園ママが深く詮索することはなかった。それどころか、月乃さんとの思い出や月乃さんの“後日談”について知らしめようとすることもなかった。せいぜい会話の華にのぼらせたことといえば、

「こんなハシタナイ格好で出歩くなんて、月乃ぐらいしか考えられなかったわ」

 店の準備をいったん終え、仮眠を取りに戻る道すがらで出会った月乃さんを呆れる程度の、当たり障りのない話題だった。

 あたしは、柔らかな話題を交わせている2人に右に左にと視線を往復させながら、リプトンで渇きを潤すことに専念できた。専念できる空気だった。

 プロは違う……敗北の安心感だった。

 幸か不幸か、美園ママの登場によって、あたしが月乃さんに身の上話をする機会は失われた。悪夢の詳細な情景描写さえ取ることは適わず、ふと気づけば、新宿が眠りから醒める時間になっていた。

 トイレが異常に綺麗……その程度の情報収集も心地よい、懐かしい数時間だった。










「フキデモノ、ヒドいな」

 エレベータの姿見に映った自分の顔に、ぼそっとため息を落とす月乃さん。

「6月に入ったぐらいで、なんか過食症になっちゃいましたよ」

 あたしは、奥に張りついている。

 悪夢ならば、いつものポジション。

「しかも、炭水化物ばっかりほしくなるんです。だけどオカズはいらなくて、だからインスタントラーメンばっかり。麺とツユだけの超手抜きラーメン。プラス、ご飯を1日6食ぐらい」

 そりゃ肌も荒れますよ……力なく笑う。


同日 〜 2010/06/20 [日] 17:28
東京都新宿区歌舞伎町2丁目
雑居ビル街


 生乾きのカバーオールの袖をとおして、美園ママの自宅を辞した。

 もう、2度と訪れることはないだろう。

 雑居ビル……もとい、マンションの門を抜ける。抜ける前からすでに新宿の雨粒が目視でき、駅までの道のり・蒸れた電車・自宅までの道のりを思うほど、雨の嫌いなあたしの憂鬱は増していった。

 憂鬱がもうひとつ。悪夢に係るあたしの内面や経緯を、月乃さんに提示し損なっていること。息子さんの死をイヤというほど耳にしたのに、一方通行で終わらせたままギブアンドテイクが成立していないこと。

 顔では笑いながらも、胸の内側では失望しているのかも知れない。せっかく現実の世界で会ったのに……と。

 美園ママの部屋を辞する機会をつくったのは月乃さんだった。そろそろ時間なので……それぞれの自宅に帰ろうとはひと言もいわずに、やんわりとした物言いだった。だからあたしには、ここから先の青写真が浮かばず、もしやこの先で身の上を明かすことになるんだろうか、もしや月乃さんはそれを望んでいるんだろうか、だとすればどう切りだしたらいいんだろうかと、提示するタイミングに冷や冷やする心地。

 責務として、身の上話は成立させたい。でも本心では、明かすことに躊躇がある。ぱぱぱ……傘のパーカッションに集中力を削がれながらも、胸の中、あたしにできるフローチャートを探した。

 2丁目区画を脱出する間際、白いタイル張りの古ぼけたラブホテル、その出入口の衝立の影に、丸椅子に腰かける老婆の姿があった。従業員なのか、よほど暇なのか、無表情で煙草を喫んでいる。縮れた黒髪を梳かすことをせず、よれよれの白い衣服を正すこともせず、魚のような目で、茫然と通りのほうを眺めている。

 ふと、老婆と目が合った。なにも考えていないような、だから、見透かしてもいるような底知れぬまなざしがあたしの網膜を叩き、合った瞬間に目をそらしていた。

 やっぱりここは、異世界。

 お互い、口数を殺したまま靖国通りへと出る。さしもの月乃さんも、疲れたのか、ひさびさの喧騒に集中力を削がれたのか、ぽつぽつと独り言を漏らしつつ、目立った質問で間を保たせることはもうなかった。一方のあたしは、靖国通りを挟んだ巨大なビル群を傘の軒先から仰ぎ見ていた。そうしなければ手持ち無沙汰だった。だけど、そうやって観光気分を演出している自分に気づくたび、なんてピエロだと嘆かずにはいられなかった。そして、項垂れる先々でことごとく通行人と触れあいそうになり、本当のピエロのように踊った。

 ドンキホーテの姿が見えたころ、新宿は一層の賑やかさを掲げ、おかげでますますあたしたちは口数を減らした。次第に月乃さんが先頭を歩き、あたしは人波を避けて傘を守ることに手一杯。とても身の上話を明かすような状態じゃなかった。

 早くきっかけを見出さないと、本格的に失望されたまま、お開きになってしまう。

 スタジオアルタの裏手、新宿の交通網と人生の交通網が一層の交わりを見せる横断歩道へとさしかかり、月乃さんは青信号を目がけて左に折れた。

 無限のカフェがこの先に点在していようとも、左折の理由がJR新宿駅にあることはもはや明白だった。状況からして、まさかショッピングのはずもない。暗黙ながら、この対面がとうとう解散に近づいていると知り、あたしはにわかに愕然とした。

 赤に変わるまでには、まだ半分の猶予があった。人海戦術のための朱色のカウントダウンを視野におさめる。そして、なんの躊躇もなく横断歩道を渡ることを選択した月乃さんの小さな小さな背中もまた視野におさめる。

 淋しい気持ち・虚しい気持ち・罪悪感が胸に渦をつくり、でも、混ざりあってくれそうにもなかった。オープンカフェで月乃さんがしていたように、徒然とスプーンをかきまわせば美味しくなるんだろうか。

 嫌われたのかな……不出来で不味い胸が自然、足を前進させる。せめて月乃さんと肩を並べたい、並ばせるべきだと義務感の足をうながす。だってあたしなんかより、月乃さんのほうが遥かに孤独なのだから。

 否が応にも孤独でいてしまう人を、このまま再び、孤独な日常生活に向かわせてもいいんだろうか。こういう状況だからこそつながりを、絆を買ってでるのがあたしの役目なんじゃないんだろうか。悪夢を見ている、稀有な共感者であるあたしの義務というものが、あるんじゃないんだろうか。

 リンクタグを貼るという、義務が。

 せめて、電話番号を交わそう。

 もし本当に目的地が新宿駅だとしたら、次があるって、次を期待してるんだって、ちゃんと示そう。孤独じゃないんだって、思ってもらおう。安心してもらおう。

 そう、相互リンクを、買ってでよう。

 月乃さんが淋しいと、あたしまで淋しい気持ちになるから。月乃さんが虚しいと、あたしまで虚しい気持ちになるから。月乃さんの罪悪感が、あたしの罪悪感のような気持ちになるから。

 月乃さんの孤独は、あたしの孤独。

 それぐらい、月乃さんには生きてもらいたいんだ。そして、月乃さんの“生”で、あたしもまた生きたいんだ。

 あたしは、生きたい。

 生きていたい、じゃなくて、生きたい。

 生きることは、生かすことだ。

 生かすことは、生きることだ。

 この互換性こそ“絆”なんだ。

 月乃さんのおかげで、あるいは、悪夢のおかげで、やっと絆にたどりつけた。

 やっと。

『そうかぁ死んだかぁ』

 おばあちゃんの……母親の死に対して、やけにアッケラカンとした反応だと思っていたんだ。直後に、死に顔を凝視する顔に表情がないことを訝かっていたんだ。思いだしたようにお寺に電話する所作を見て、違和感だったんだ。

 悲しんでいないんじゃないかと。

 だけど、それは違った。思いかえせば、どれも冷静な運動とは程遠かった。家長としてできる、最低限の運動でしかないものだった。よくやったと褒められるだろう、ぎりぎりの働きにすぎなかった。

 だから、一連のぎりぎりの行動が、実は悲哀の中で取られたものだと仮定したら、あたしの心がモたない予感がしてたんだ。

 パパの母親を、殺した者として。

 もしや悲しんでないんじゃないかと思うことで、あたしが、取りかえしのつかない現実から逃げたかったんだ。パパの孤独を思うと生きた心地がしなくて、楽なほうに楽なほうに、目を向けていたんだ。そう、あたしは、パパの孤独が、怖かったんだ。

 あの時のあたしは、絆に蓋をしたけど。

 罪悪感に換えたまま、生きてきたけど。

 何喰わぬ顔を“偽った”まま。

 ならば、今度こそ、悪夢のとおりになる前に、そして悪夢のとおりになるのを阻止する前に、まずは、生きたい。

 そのためには、月乃さんにも……、

「ふ」

 笑える。

 結局、自分が可愛いってことか。

 月乃さんを、絆ごと、利用しようとしているだけなんじゃないの?

「……ヒドい女」

 届きそうな肩の手前で、残りの罪悪感のすべてを、傘のパーカッションに暈かしてしまった。





    39    
 




Nanase Nio




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