偽りのカレンデュラ 



 2mの横幅を平行に保ちながら、廊下が奥へと伸びている。徒競走ぐらいは可能だろう距離。その遥かな彼方の、突き当たりと思しい壁にはガラスがはめられ、網膜を焼きそうな、熱を帯びた茜の光線がこちらにまで送られていた。

 まばゆい陽光。





昌 範
Section 2
瓦 解ガカイ





 エレベーター前の紅とは似て非なるカラーセラピー。熱を帯びていながらも、初夏の清涼感さえもイメージさせる。あるいは、放課後の黄昏とも言えるだろうか。

 拭いきれない孤独な感覚。

 夕焼けに違いない。つまり、もう間もなく宵闇の訪れるだろう兆しがある。希望的なまばゆさは刹那の幻か──そう思うほどに鳩尾みぞおちがそわそわする。

 膝に手をついて立ちあがる。ひんやりとする足の裏。でも、まだふくらはぎは微熱を宿していて、今いち安定感が足りない。

 そういえば、ここには紅の粒子が1粒も撒かれていない。ひさしぶりの滑らかな大地がくすぐったい。じっくり見おろす。水色と思しいプラスチックタイルが静かな工学の升目となって整列していた。

 視線を前へ。左右の壁、腰の高さ、奥に向かってシルバーの手すりが、幾度となく分断されながらも一直線に伸びている。

 分断しているのはスライドドア。縦長の把手とってが、一律に妖しく輝いている。

……病院?」

 不確かながらもイメージは容易い。

「またかよ」

 またしても病院。

 気が滅入る。危うくそぞろな昆虫を背中に許してしまいそうになる。

 だって、おばあちゃんと、ナオと。

 イヤになる。

 病院が好きな人なんてそうそういない。生命を癒すための、希望が大前提となる施設とわかっていながら、人はみな、この領域に忌避の感情を抱いて止まない。

 忌まわしさは払拭できない。関われば関わるほどマイナスの感情だけがうまく切り取られ、積み重なり、やがてモビリティの弁になる。動脈瘤のような弁に。

 またしても病院。

 ろくなことがない危惧に胸裏を占拠されつつも、あたしは着実にいかだを跨いだ。エレベーター前での憂き目を考えれば、まだこちらは未体験、前進を躊躇する決定打が少ない。それに、顎にお腹にふくらはぎを痛めつけ、まったく騒ぎすぎた。誰が駆けつけると知れなくも、身を隠すスペースはないし、じっとしているのも不安。だから、もはや前進するしか選択肢はなかった。

 ちらと振り返る。ナオの病室や来瞳くるめの仏間とは異なり、窓枠は泰然としてそこにあった。その向こう側には目視の覚束おぼつかない闇が広がるばかり。あんな真っ暗な場所であたし、毎晩毎晩、シュールなトラジックコミックを演じてたのか。

 ほうと溜め息を吐いて視線を戻す。

 左足を引きずりながら前へと進む。

 闇から逃げるように、でも慎重に。

 なんて静かなんだろう。鼻から息を吸いこんだ時のすーんという音、リズムを刻むことだけは忘れない律儀な心臓の音、足の裏がプラスチックタイルから離れる際の粘着質な音、瞬きをするたびに瞼の立てるぱくぱくという破裂音が聞こえるぐらい、あまりにも静かだった。

 地を這うモーターの音は、ここには響いていない。大笑いする膝がゆいいつの震動であるかのような、セーフティな廊下。

 等間隔の向かいあわせに設置されてあるスライドドア、その白い表面には、把手がある以外に装飾も小窓も貼り紙もなかった。病室というよりは、レントゲン室のドアという感じ。だけど、ドアの右手の壁面には名札をれるのだろう白いプレートが貼りつけられてあって、だからやっぱり病室なのかも知れない。

 プレートがある以外に、名札はどこにも挿されていないらしい。いずれ収容されるだろう患者の到着を、病的な澄まし顔でじっと待っている。

 医者の姿がない。看護士の姿も患者の姿もない。そもそも、人の気配がない。

 廊下の3分の1まで前進したあたりでようやく嗅覚が追い着く。栄養剤を薄め、さらに人肌ぐらいにまで加熱したかのような、生ぬるさをおぼえる病院の匂い。円やかなのに尖ってもいる独特の匂い。例えば、薔薇の香りよりも遥かに命を助ける匂いであるはずなのに、どうしても「死」を連想してしまう病理の匂い。

 死。

 立ち止まり、吸った匂いを残らず鼻から吐き出してみる。

 気を緩めると背中が漫ろになる。

 抽象的な死・・・・・は考えないようにする。

 言葉に囚われると、あたしの歴史の中に潜む具体的な死・・・・・があらわれて猛威を奮う。だから考えないようにする。

「死とはなにか」なんて考えない。

 夢の中にいるのならばなおさら。

 理性は保たれなくてはならない。

 しかと自分に言い聞かせてから再び息を吸いこむ。自然と弛緩する瞼。半目状態の狭い視野の左の壁、ふと、縦長の長方形が浮かんでいるのを見つけた。

 廊下の中央のあたり。

 貼り紙のようだった。

 恐る恐る近づく。

 夕焼けを反射するまばゆい紙面に焦点を探す。そんな中、真っ先に視界へと飛びこんでくる文字があった。

 呼吸が止まる。



『恩田病院』



同日 〜 2010/06/18[Fri]??:??
悪夢 - 恩田病院の廊下


 オンダビョウイン。

『カレンデュラの私選館について』
『ちょっとキナ臭いんだ』
『岐阜県姉泉市神榁の恩田病院』

 どッどッどッ──心臓が暴れる。供給の止まった酸素をヒステリックにオーダー。

 恩田病院。

 その下に、小さく住所も書かれてある。

『岐阜県姉泉市神榁 530-1』

 ご丁寧にルビが。

「アネミズシ、カムロ」と読むらしい。

 脳神経外科にて、機材搬入のための専門業者の立ち入りがあるということをしらせる内容。不審者と勘違いさせないよう、入院患者の不安視を予防する貼り紙に読める。

 作成日は6月20日、予定日は8月24日。

 背を正す。廊下の奥、天井、ここまでの道のりまで、ぐるりと視線を渡した。

 ここが、恩田病院。

 カレンデュラと関係があるらしい病院。

 どう関係してる?

 わかるわけがない。でも、実際に悪夢の中に存在する以上、無関係なわけがない。

 ここは、夢の中だ。間違いない。いつもどおりの夢の中で、いつもどおりとなってしまった悪夢の中。でも、現実に、如璃じょりが恩田病院の名をリポートしてくれたことも確かだ。それもまた間違いない。メールに書かれてあったのは確かに「恩田病院」という固有名詞だった。

 現実の世界でも囁かれ、さらには悪夢の中にも登場する病院。

 恩田病院。

 これで無関係なわけがない。

 偶然ではない。

 岐阜県の位置さえも今いちよくわかっていない、関東地方から外にはほとんど出たことのない地理音痴のあたしが、夢を構成する素材としてこれほどリアリティのある「岐阜県」をピックアップするのも奇妙な話に思える。刷りこみにしてはあまりにもクオリティが高すぎるんだ。

 あたし発信の夢・・・・・・・である説もいよいよ怪しくなってきた。胸の片隅にあった、しょせん夢は夢──そんな一縷いちるの希望が呆気なく瓦解がかいしていくようだった。

 試しに頬をつねる。

 痛かった。

 別に、試さなくても、ついさっき悲惨な目に遭った。顎も、下腹部も、おでこも、ふくらはぎも痛い。

 でも、悪夢だ。現実ではあり得ない。

 でも、現実だ。夢だけでは済まない。

 正面から夕陽と向きあう。

 せめて光を浴びたかった。

 と──その直後のことだった。



こ こ こ こ 



 遠慮のないヒール音を立て、廊下の奥、右から左へと、人影が横切った。

 丁字路になっているらしかった。そしてその「丁」の字の右上から左上へ、颯爽と横切った人影。

 身体が凍りついて動けない。

 和紙が20枚程度の、すべて薄墨でできているパラパラ漫画のようだった。ローコストでありながらも精巧な、でも何枚かツナギが足りず、不自然さを帯びた動画像のよう。

 ほんの一瞬の出来事だったが、すっかり網膜に焼きついた。

 いわゆるナースのコスチュームだった。それだけは確かだった。ただし、色まではわからない。柔らかさを感じなかったから白だと思う。いや、逆光に色褪せていたというだけで、もしや薄ピンクだったのかも知れない。いや、色なんてどうでもいい。

 背丈は、よく記憶していない。低かったような気がする。いや、やっぱり白だったような気がする。

 両目を細め、戦慄でできた「く」の字を背骨に課したまま、あたしは廊下の中央のあたりに立ち尽くすしか術がなかった。

 女がいた。

 看護士がいた。

 病院なんだからいるに決まってるけど、まさか運営しているだなんてつゆも思っていなかった。エレベーターやエントランスが先入観となって、廃屋だという程度にしか認識していなかった。

 どうしよう。もう引き返したい。でも引き返すのも怖い。左右にあるスライドドアを開けて未知なる空間に隠れこむのも怖い。立ち尽くしたままでいるのも怖い。

 怖くない選択肢が見つからない。

 上半身だけをねじって振り返る。誰もいない。それから天井を見上げる。なにも張りついていない。さらに素早く前方へと戻る。まばゆい茜しかない。

 不意に、左の目に汗が流れこんできた。とたんに視界がぼやけ、つんッと染みる痛みも手伝って肩が戦慄する。慌てて瞼を拭う。ついでに額も。真夏の缶コーラのようにひたひたに濡れてた。

 望ましい安全地帯があの茜色の中にあるとは思えないが、色白少女のいる暗褐色の背後よりはまだ安全だと思うことにした。希望の夕焼けと信じて、あたしはようやく両脚を前に向かわせる。

「く」の字のまま忍び足で前進。めりッと剥がれる足の裏が不快で、すぐに爪先立ち。すると今度はかたかたと膝が笑う。裏目裏目を楽しもうとするこの肉体にいちいち腹が立つ。

 殺しているはずの呼吸。さも殺しているかのように見せかける呼吸。だからかえって五月蝿い呼吸。

 だって、おかしいじゃん。あたかも機能しているように整然と内装されてるのに、医者も看護士も患者も出歩いてなくて、だから廃屋なのかと思わせておいて、急にあらわれるナース。

 ホントに普通の病院?

 丁字路の、交差点のすぐ手前へと到着。まずは廊下の左に張りついて、右手の奥、看護士のあらわれたほうを見渡してみる。でも、向かいの壁が邪魔でよく見えない。しかたがない、今度はその反対、看護士の消えたほうを覗きこんだ。壁面を背にしたまま限界まで上半身を捩り、恐る恐る、探偵のように覗きこむ。すると、ぼくッ──腰の関節が鳴った。腹立つ。

 見えたのは、またも長い廊下だった。

 あたしの知るかぎりの病院で、これほど長い廊下を備えるものと言えば、総合病院か大学病院。事実、突き当たりまでの距離は優に50mもある。そこらの病院とは明らかに規模が違う。

 向かって右手の壁には整然と窓が並び、ここにもまた柔らかな茜の陽射し。じゃあ左手の壁はと言えば……腰関節の可動域が限界で判断できない。

 件の看護士の姿は、もうなかった。それどころか、やっぱり医者や患者の姿はなく、依然としてあたしのドタバタ劇を確認しにやって来る警備員もいない。

 病院のようであり、研究施設のようにも思えた。それがなにかはわからないけど、非公式の事案を扱うラボラトリー。

 茜色の中、新鮮さと不安感が混濁こんだく

 再び看護士のあらわれたほうを見やる。勇気を絞ってわずかに身を乗り出したら、今度はうまく見えた。こちらは5mほどの奥行きで、完全に開放されたドアの向こう側に薄暗い小部屋が擁されてある。天井の近くにイグジットのバナーがあり、どうやら階段フロアらしい。

 人影はない。気配は……わからない。

 少しだけ背伸びをすると、すぐ目の前の窓の向こう側を観察してみた。道路なのか川なのか、横一直線に走る細長いラインが見て取れたが、まぶしくて瞭然としない。

 さッと背後を振り返る。誰もいない。ついでに左手の廊下もうかがう。やっぱり誰もいない。

 どうしよう。

 業を煮やす。

 腹が立つ。

 すると、立ち尽くしてばかりのあたしの脳裏に、ふと、とある説法が蘇った。



『昔者荘周夢為胡蝶
 栩栩然胡蝶也……

 ある日、荘子そうしは蝶々になった自分の夢を見た。自分が荘子であることさえも忘れるほど鮮明な夢だった。でも目を醒ませば、自分は荘子でしかなかった。そして、彼は深く考えた。あの夢は自分が蝶々になった夢なのだろうか。それとも、蝶々が荘子になった夢なのだろうか──。



 荘子の『胡蝶こちょうの夢』。

 今年の冬休み、宿題のためと親にうそぶき、近所の図書館にナオと温みに行った際、たまたま彼の選んだ本に記されてあった。パラドクスに関する本だったか、ちんぷんかんぷんながらも、ぎりぎりまで肩を寄せあって黙々と読んだ気がする。もちろん、あたしはナオとの距離に戦々恐々、内容が頭に入ることはなかった。

 ただ、

『夢か現実かを区別できない時
 どちらを正しいとしても理屈は合う』

 この節だけはとして記憶できた。

 なぜかと言えば、

『夢の中の舞彩まいも、変わんないけど』

 ナオにぼそっとつぶやかれたから。

『なに? どういうこと?』

 戦々恐々が響き、本当に彼の言葉が解釈できなかった。

 漫然と「別になんでもねぇ」と言い、ナオはまたムックに見入る。肘で小突いて甘えることすらできず、あたしもまたノーリアクションで彼にならうより他なかった。

 なんとなく解釈できたのは翌日のこと。気になってひとりで件の図書館に向かい、本に目を凝らした。

 落として、壊しそうになった。

『夢の中の舞彩も、変わんないけど』

 あたしの夢を見たというのか。

 区別がないというのか。

 どちらのあたしも正しいとしたのか。

 嬉しかった。

 ナオに触れられないでいる悲壮や孤独や罪悪は、いつだって嫌われてもいいとする覚悟を持たせるばかりだった。嫌われるに相応しい人間なんだと、いつも自虐させるばかりだった。

 そんな大城舞彩という人間が、初めて、愛する人に肯定された。これこそ、欲しくてたまらない解答だった。

 どこにでもあるような、だけど特別な、幸せなタイミングでもらえた解答。

 嬉しかった。

 諦めなくてよかった。

『己の形は変わり続ける
 しかし
 真実の己であることに変わりはない』

『万物は永遠の変化を遂げる
 しかし
 本質になんら変わりはない』

『なにが正しいのかを論ずるより
 ひとつひとつを肯定し
 ひとつひとつを楽しんでいけばいい』

『それが
 万物斉同さいどうの世界を生きる術』

 ──とかいうような価値観がその本には記されてあったっけ。

 冗談じゃない。

 ふざけんな。

 だとしたら、こんな悪夢も、立ち尽くす今のあたしも、すべてが真実だとでも?

 悪夢のナオも?

 悪夢の来瞳も?

 最期に立ち会えなかったあたしも?

 物を隠し、おばあちゃんを殺し、体温に怯え続けるあたしも?

 生きる術?

 生き方を勝手に決めんな。

 そんな術なんて要らない。

 そんな現実なんて欲しくもない。

『胡蝶の夢』

 的外れにもホドがある。

 ナオと話がしたい。くだらないバカ話。冬休みの嬉しさを本質としたまま、永遠に変わらず、永遠に継続する現実が欲しい。それが叶うのならば、あたしはあたしじゃなくていい。浮かれた蝶々のままでいい。それだけが正しいほうがいい。

 ナオと話がしたい。

 心細い。

 交差点の壁に左肩をもたれさせ、力なくしゃがみこんだ。

 両の足首を掴む。冷たい。でも身体は汗ばんでいる。じめっとしてる。さっきの貼り紙、8月と読めた記憶がある。現在がそうなのかはわからないけど、確かに暑いような気がする。でも、関東圏の暑さとは異なる。家屋ごと天空に突きあげるような獰猛どうもうな熱を感じられない。爽やかな暑さと言えるのかも知れない。だから岐阜県なのかも知れない。わかんない。あたしの五感なんてアテにならない。

『我思う、ゆえに我あり』

 確かそんなのも載ってた。自分の意識しかアテにならないとする説法。

 ふくらはぎがぐらぐらと再燃しはじめ、已むなくあたしは立ちあがった。前進する勇気が座らず、煮詰まらないスクワットを繰り返すピエロなあたし。

 と──。

 看護士の消えた左の廊下の奥から、女の声が聞こえた。かなり遠くからなので内容まではわからないが、なんとなし、怒鳴り声のように聞こえる。怒気のトーン。

 さっきの看護士だろうか。

 響きに勢いがある。子供を叱りつける、ヒステリックな母親の勢い。でも、病院の中で怒鳴り声をあげるというのも違和感がある。普通ならば人さし指を立てて静かになだめるか、抱えあげて院外へと緊急脱出するか、いずれにしても他人に迷惑をかけないよう配慮しているところだろう。恥を掻きたくない親心だってあるわけで。

 病院の持つ特質上、子供の泣き声ならばまだしも、大人の怒鳴り声は違和感だ。

 いや……かすかではあるが、子供の声も聞こえる。時どき混在する。幼児とは言いがたくも、若い女の子の声。

 怒鳴り声に気圧けおされて輪郭さえも掴めないが、かろうじて会話が成立しているとわかる。

「成立……

 してる?

 判断が難しい。聞く耳を持たない大人の女が、女の子の反論を遮りながら一方的に主張しているようにも感じる。

 もごもごとこもる、ふたつの音声。

 ちらと振り向く。階段フロアからはまだ音らしい音が聞こえない。

 さらに、ぐるりと振り返る。来た道をうかがう。色白少女の姿もない。あたしの困憊こんぱいを出歯亀している可能性もあるけど、だとしたら今さら隠れてももう遅い。

 声のする廊下を見る。大人の声が圧倒的優勢のまま、もごもごとした係争の音声が延々と響き渡っている。

 不意に、

 め り

 足の裏が、床から離れた。

 自分自身の行動に驚いた。

 躊躇の意思を裏切って、まさに不意に、勝手に、だけど自然に、脚が前進の1歩を踏んでいた。

 そりゃ、もちろん、いつまでも停滞していられるわけがないんだけど。

 でも、このタイミングで、前進?

 じゃないかも知れないのに?

 階段フロアのほうがまだ無難なのでは?

 なんで逆を行こうとするの?

 そっちになにがあると思ってるの?

 だけど脚はどんどん動く。とたんに心臓が高鳴りはじめ、鼓動のせいで世界がブレて見える。だけど、そんな焦りをも裏切って、忍び足を真似しながら脚は動く。

 左手の壁に寄りかかりながら、確実とは言えない歩調で2つの声を目指す。人目をはばかりながら、女子トイレと書かれてあるドアの前を速やかに通過しながら、背後に目配せしながら、飛び石のような日陰を積極的に選びながら前進。

 こちらの廊下の左側の壁にも、等間隔に白いスライドドアが並んでいる。貼り紙の類いはいっさいなく、ドア以外にある物と言えば空欄のネームプレートのみ。誰も、この施設に生きている者はいない。医者も看護士も患者も見舞い客も、誰も。

 2つの声だけが生きている施設。

 よちよち歩きで5mほど前進してみて、いよいよここが病院だということが疑わしくなってきた。だって、あたしの知る病院の活気・・がない。まったくの廃墟の雰囲気だし、これからさらに廃墟になっていくだろう兆しも見て取れる。

 奥へ奥へと進むごとに、

……亀裂?」

 壁面の亀裂が増殖していく。

 亀裂。クラック。

 補助用の手すりを擁する壁面に、無数の細かなクラックが浮かんでいた。

 ついさっきまでたたずんでいた壁には、確か、なかったはず。

 ここにきて劇的に増えた。

 壁の素材がなんなのかはわからないが、建築分野に暗いあたしでさえも、この数は異常だと思う。

 まるで蜘蛛の巣。

 そして、奥へ前進するごとに、クラックが複雑になっていく。ずっと奥が蜘蛛の巣の中心であると言わんばかりに。

 試しに壁面を撫でてみる。陽光を浴びて茜色に輝く壁は滑らかながらも、ところどころ、指の腹に引っかかりをおぼえる。

 クラックの1本に目を凝らす。

 破滅的な亀裂とは言いがたいが、決して浅い傷でもない。ミシン糸ほどの細さで、でも確実な深さが認められる。

 セメントにクラックはつきものと、本で読んだ気がする。

 でも、窓にヒビまで入ってるし。

 ほこりで白く霞む窓ガラスにもクラックが入り、しかも奥へ前進するごとに増殖。

 壁のクラック。

 窓ガラスのクラック。

 ホントのホントに病院?

 女の怒鳴り声は徐々に厚みを増す。

 そして女の子は……泣いてる?

 すると、



「あぁもう限界!」



 ひときわヒステリックな怒気が鳴った。

 初めて、はっきりとヒアリングできた。その爆発的な響きに自然、脚が止まる。

 直後、



ご し ゃ ん 



 固形物同士の衝突音が聞こえた。それがなにかはわからない。落下でもしたのか、壁に叩きつけられでもしたのか。

 とにかく、破壊の音。

 破壊──背筋に漫ろな虫が走る。動悸、肉体的負担、負の感情、溜まりに溜まったストレスに後押しされ、軽い吐き気さえもおぼえる。

 ところが、声は待ってくれなかった。



「おまんみたいなバケモンがうまれるとはおもわんかったわ!」



 破裂した叫び。

 そしてその語尾を遮るように、



「キィィィィィィィィィ!」



 女の子の金切り声。まるで黒板を爪で引っかいたような、不快な声。

 すると、金切り声に呼応して、かたかたと窓ガラスが震動しはじめた。前後に並んでいるすべてが、貧乏揺すりをするように。



「ィィィィィィィィィィ



 徐々に、声がボリュームをあげる。

「痛……!」

 こめかみに鈍痛が走る。視界まで震え、あたしは崩れるように身を屈めた。



「カナエぇ! もう、やめぇ!」



 ヒステリックな女の悲鳴が混じる。

 それでもなお金切り声は、



 ィィィィィイイイイイ



 どんどん増幅。ハウリングを髣髴ほうふつさせる高周波の声に、自然と、寄り目をしたかのような視界になっていく。

 声に、息継ぎがなかった。ボリュームも異常なほどに大きく、すぐ耳もとで鳴っているように聞こえる。

 もう、声じゃない。



 イ



 背後、階段フロアの奥からも女の悲鳴が聞こえた。いや、それだけにとどまらず、なにかを指示するような男の叫び声もしている。パニック状態になっている。



ぴ し ッ 



 2つ前方の窓ガラスに、新たなヒビが。

「痛い、痛、なんなの、なんなの!?

 頭痛に耐えきれなくなったあたしもまたパニックを口にし、ついに床に膝をつく。



び き び き び き び き 



 前方左手の壁、はばきに亀裂が入るや否や、噴火するスピードで、アーチを描くように天井へと走った。



 



ぼ ば ん ッ 



「きゃあ!」

 いちばん奥の窓ガラスが外側に向かって割れた……いや破裂した。そして、悲鳴をあげてヘタりこんだあたしの前方から、



ぼ ん ッ 

ぼ し ゃ ッ 

ぼ し ょ ッ 



 破裂が迫ってくる。

「ヒ、ィ……!」

 窓の外からも怯える子供の悲鳴。窓から離れぇ!──老人の声も入り乱れる。



 



 あたしはすっかり四つん這いになり、迫り来る破裂に背を向けた。



ぱ ん ッ 



「わぁッ!」

 すぐ手前、プラスチックタイルの一片が勢いよく弾け飛んだ。埃とともに、陽光を浴びた白い破片がポップコーンさながらに宙を舞う。



 



ば し ょ ッ 



 窓ガラスの破裂音。



ぼ ん ッ 



 蛍光灯の割れる音。



び ぎ び ぎ び ぎ び ぎ 



 壁に亀裂の入る音。



ぱ ん ッ 



 床タイルの弾け飛ぶ音。



 



 逃怖伏掴落!──悲鳴が交錯。

 あたしは、床に手をつけばいい?

 耳をふさけばいい?

 逃げればいい?

 どうすればいい?

 わかんない。

 わかんない。

 わかんない。

「イぎ、痛い、痛ぁい……!」



 イイイイイイイイイイ



 四つん這いのまま、あたしは頭を抱



こ わ わ わ わ ん 



 たぶん、手すりの外れた音。

 もう目も開けていられない。

 眼球が飛び出そう。

 床に額を押しつける。

 火傷しそうなほど熱い。

 でも、押しつけないではいられない。

 頭の芯が痛い。

「痛い……イダいぃ……

 すると、



ぼ 



 頭上から、窓ガラスの破裂音。

 しかし、破片のシャワーを浴びることはなく、その代わりに、



ご ど ご ッ 



 背中と首筋に、鈍い痛み。

 今度は悲鳴も出なかった。

 瞬時に見開かれた低い視界には、およそ手首ほどの厚みを持った銀色の塊。

 窓枠だとわかった。

 窓枠が外れて、あたしに降ってきた。

 にわかに視界が狭まり、呼吸が途絶え、鈍い痛みが背面に広がり、どうにか右手を伸ばして助けを求めようと、でもぜんぜん声が出なくて、窓枠が重たくて、頬が床に触れて、火傷するほど熱くて、色んな音が急速に遠退いていって、



 イイイイイイイイイイ



 遠退かない音が、ひとつだけ。

 あたしは最後の力を振り絞って、ナオの含羞はにかみを思い出そうとした。ところが、消えそうな意識に割って入ってきたのは、



死 に と ぅ な い 



 女の子の、声。

 譫言うわごとのような、かすれた声。

 空っぽになる寸前の意識の内壁に、幼い女の子の声が貼りついて、あたしの胸は、なぜだか窮屈な悲しみに満たされた。

 あぁ……涙が落ちる。



ま だ や の に 





    35    
 




Nanase Nio




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