偽りのカレンデュラ 



を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん





来 瞳
Section 6
欠 如ケツジョ





「ぅわぁッ!」

 遠くから、地を這うような音。聞こえるというよりは肉体で感じる微細な音。それを頬骨の芯が耳にした瞬間、あたしはまるでパブロフの犬のように発作的に跳ね起きた。そしてすぐに悟る。

 今日も、来てしまった。

 信じられない速度で周囲を見渡す。

 紅の混じった黒い部屋。

 打ちつけられた板、板、板。

 その手前で取り囲む鉄柵。

 見あげれば一面の金網。

 その奥には果てしない闇。

 もさ──見おろせば粒子状の床。

 そして正面には、わずかに開いた扉。

 あとはなにもなく、誰もいない。

 だけど、確実に、いる。

 絶対に、いる。

 今日も、来てしまった。

 10秒に満たない動作、一連の流れの中で呆気なく血の気は失せ、戦々恐々の震えに転換される。特に寒いわけではないのに、むしろ蒸し暑いほどなのに、体温になんて困っていないのに、横隔膜から鎖骨までの筋肉が伸縮細動を繰り返す。軽い吐き気さえももよおして、だからあたしは、またいつもどおりの行動に出た。

「い、るんだろッ!?

 ぐるッと振り返ると、地面の砂を蹴る。鉄柵に、壁に、一面の粒子をぶっかける。

「隠れてんじゃねぇよ!」

 続けて、左右の壁にも同様に、足の甲ですくってはぶちまける。

「回りくでぇんだよヤることがよぉ!」

 屈みこんで掌にすくい、天井の4隅にも満遍なく撒布さっぷ

「さっさと出てこいよてめぇ!」

 これを、2、3セットと繰り返す。

「オカルト気取ってんじゃねぇ!」

 そして興奮がピークに達した頃、

「うああああああ!」

 力一杯に吠えると鉄柵まで駆け寄り、力一杯に柵を握りしめ、

「あああああああ!」

 前後に激しく揺さぶった。

 生まれて初めて壊れてもいい、壊してもいいと思うようになっていた。



ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん 



 目は壁に照準。

 耳は背後に照準。

 肌は、わからない。

 なにもいないから感じないのか。

 もともと感じない体質なのか。

 わからない。

 でも、なにもいない。

「あああああ!」

 がしゃがしゃと揺さぶってみる。

 湿ったエコーはすぐに途絶え、



ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん 



 なにもいない。

 だからあたしは、

「さて、と」

 きびすを返し、しゃくしゃくと扉の前に歩み寄る。近所の公園でも散歩するような歩調、促されるでもなく入浴に向かうような歩調を、いつもどおりに努めて。

 そして、右膝のアウトサイドを利用して扉を開ける。いぃぃぃぃ──相変わらずの歯噛みするような不愉快な音だが、慣れたもので、簡単に90度角まで蹴り開く。

 紅の光彩がせきを切って部屋へと雪崩れてくる。血溜まりのようにも見える。下腹が重苦しくなる。怠惰と緊張感と苦痛を混在させる、生理の腑甲斐なさが細胞に蘇る。

 ナオとの未来を思えば決して不自由ではなかったはずの、暖かな生理の色。それがここでは、絶望でしかない。

 だって、ここにはあたしがいない。

 ナオは、あたしと結婚しなかった。

 子供もまともに、つくらなかった。

 なんて腑甲斐ない。

 希望なんか、ない。

「さぁ」

 眉間に皺を寄せ、目をしばしばさせ、

「もういいからさ」

 エレベーターの最奥まで進み、ぐるりと振り返ると、

「さっさと動かせよ」

 冷徹な壁に寄りかかった。

「エレベーターガール」

 気を抜くと、たぶん泣く。


同日 〜 2010/06/07[Mon]??:??
悪夢 - エレベーターホール


 壁を背負ったまま息を殺す。

 殺せない。

 殺したい。

 鼻息が荒い。

 暴れるだけ暴れたからというのは理由にならない。跳ね起きてすぐにこんな状態。

 わかってる。

 怖い。

 怖いのがすぐ来るとわかってて待つのがいちばん怖い。待つって、最強の凶器。

 指先を擦りあわせる。

 サラダ油を触ったようにネバい。

 出入口を見つめたまま右の指を嗅ぐ。

 クサいのかどうかもわからない。

 指の匂いと空気の匂いが同化してる。

 錆びた匂い。

 鼻孔の入口にこびりつく匂い。

 自然、鼻がウェイトを持つ。

 重たい。

 いつもそう。

 エレベーターに駆けこんでからようやく匂いが実体を帯びる、そんな毎晩。

 ここでは、五感がうまく機能しない。

 あたしが機能していない。

 もう死んでいるのかも知れない。

 とっくに。

 でも、どうせすぐに死ぬんだし。

 そんなわけない。

 これはただの夢。

 でも、死ぬかも。

 いずれ死ぬけど。

 いや、そういうことじゃない。

 いや、そういうことかも。

 当たり前・・・・をわからせるために、彼女はやって来るのかも。

 人は必ず死ぬということを。

 命に怯える日々を送る、あたしの前へ。

 やって来る。

 もうすぐ彼女がやって来る。

 エレベーターに乗りこむこと、それが、彼女があらわれるスイッチ。

 彼女が。

 少女が。



し ゃ く 



 ヤツが来た。



も し ゃ 



 すうっと血の気が引く。



し ゃ く 



 なのに、ぷつぷつと汗が湧く。



さ く 



 ふるッ。身震い。



ぬ し ゃ 



 怖いし、



し ぢ ゃ 



 腹立つ。



ふ し ゃ 



 ムカつく。



こ じ ゃ 



 なんであたしが、



ぢ ゃ く 



 こんな目に。



み し ゃ 



 なんであたしが、



さ ぐ 



 なんであたしが、



う し ょ 



「なんであたしが」



わ ぢ ゃ 



 真っ白な脚が、ぬう。



さ も 



 紅のスカートの、膝。



ほ し ょ 



 細い、細すぎるウエスト。



の し ゃ 



 ヒジキみたいな、髪。



そ し ゃ 



 膨らみのない、胸。



め た 



 首は、見えない。



し ゃ ぬ 



 顔は……も、見えない。



ひ ぢ ゃ 



 髪。髪。髪。



ひ し ょ 



「なんであたしが」



く し ゃ 



「ナオ」



ざ 



「助けて」



── 



「助け」



ぱ ち ゃ 



「もうヤだ」



── 



「もう」



ご ん ッ 



「ヤぁ



ぎ ゃ ら ぎ ゃ ら ぎ ゃ ら ッ 
ご し ゃ ッ 



 ぁああッ!」



ど を ん 



 また、連れてかれる。



ん お お お お お お お お 



 遠心力が重たい。でも、



お お お お お お お お お 



 さすがにヘタりこむことはなくなった。

 だって、起きあがる労力のほうが貴重。

 立っていたほうがまだ、ゆとりがある。



お お お お お お お お お 



 本当はヘタりこみたい。

 起きあがらなくて済むのならば。



お お お お お お お お お 



 いや、それはない。済むわけない。

 体力の消耗は是々非々に避けたい。



お お お お お お お お お 



 これから体力を使う。

 一瞬のうちに、激しく消耗する。



お お お お お お お お お 



「だいじょうぶ」

 もうヤだ。



お お お お う ぅ ん ん ん 



「ぜんぜん余裕」

 行けるわけない。

 そんなわけ



ぎ ゃ ら ぎ ゃ ら ぎ ゃ ら ッ 
ぅ わ し ゃ ん ッ 



「ヒぁ……!」

 激しい金属音。

 心臓に悪い。

 殺す気か。

 いっそ殺せ。

「へいき、だいじょうぶ、問題ない」

 すっ。少女が横に平行移動。

「大丈夫、ぜんぜん」

 そのまま、ゆっくりと右向け右。

「イケる行ける」

 髪の揺れがおさまり、

「行け、行く、行く」

 マネキンになり、

「行ける、今、今、今」

 あたしは、

「今、今、今今今ぁぁぁ」

 ダッシュでエレベーターを飛び出した。

「ぁぁぁぁぁぁあああ



ご ん ッ 
ぎ ゃ ら ぎ ゃ ら ぎ ゃ ら ッ 
ご し ゃ ッ 



 ぁひぇえぇッ!」

 膝が抜けて崩れ落ちた。

 直後、



ど を ん 
ん お お お お お お お お 



 去った。

 ちくしょう。



ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん 



 また四つん這いの姿勢。頭に「プレイ」という単語がよぎる。認知した憶えはない。だって、その前に経験すべき色んなことをあたしはまだ経験していない。

 づぐッ。鼻水。啜りきれないから左の肩で拭う。どうせならば拭わなくてもいい習慣にしてしまいたい。

 恐怖の先にあったのは、ただの面倒。

 人として当然の習慣がわずらわしい。

 でも早くその面倒な習慣に戻りたい。

 右手の壁を見る。いつものように巨大な窓枠があり、隙間なく、いまだに外側から多種多様な板が打ちつけられてある。

 やっぱりもうムリ。板を引き剥がす体力なんて微塵も残っていない。

 短時間でこうも消耗するとは。

 床を見る。いつものように赤褐色の粒がバラ撒かれてある。いい加減、この粒子がなんなのかも知りたい。

 支えの左腕を折って指を嗅いでみる。

 重量のある、錆びた匂いしかしない。

 ホントに砂?

 砂鉄?

 あと、なにがあったっけ。

 いや、どうでもいい。

「はッ!」

 気配を感じ、咄嗟とっさにエレベーターのほうを振り返る。

 なんにもなかった。役立たずのアンテナ。

 錆びた鉄柵、そして、その向こうには底の見えない闇だけが広がっている。

 なにもない。

 去ってしまった。

 いつものように。

 勝手に。

「身勝手に」

 吐き捨てながら正面の壁を見やる。

 そこにはいつものように、灰色の、灰、色の、灰、色、の

……え?」

 扉。

 灰色の扉が、



ご を ん ご を ん ご を ん ご を ん 



 扉が、2枚あった。

「は?」

 エレベーターを出て斜め右前方に1枚。

 いつもの扉。

 ナオのいる病室へとリンクする扉。

 ナオかどうかはまだわからないけど。

 とりあえず、いつもの扉。

 そして、その左隣り。

 2mを隔てて、同じ扉がある。

 錆びの浮かんでいる箇所は違うが、扉の種類はきっと、まったく同じ。

「あれ?」

 ここは……いつもの場所?

 左右を見渡す。

 いつもの場所、だと思う。

 たぶん。

 わからない。

 見分けられる属性が圧倒的に足りない。

 そこまで観察したことなかったし。

 だけど、エレベーターのあがるスピードはいつもどおり。

 到着するまでの時間もいつもどおり……だったはず。

 たぶん。

 わからない。

 でも、いつもどおりだった。

「ふッ」

 膝と腹筋に力を入れて立ちあがる。

 ぱらぱら。膝から砂が落ちる。

 蹌踉よろけながら、まずは右の扉に近づく。

 その片隅を見る。

『工藤尚輝様』

 いつもどおりのネームプレート。

 ここまではいつもどおり。

 間違いない。

 じゃあ。

 じゃあ。

 じゃあ・・・

 左へ平行移動。

 忍び足。

 忍ばせる必要もないのに、忍び足。

 こちらにもネームプレートがある。

 誰?

 なに?

 どこに?

 逸る気持ちを抑えきれない。

 だから、目を凝らした。





 





 





 小学2年生の夏に埼玉から転校してきた来瞳くるめ。初日の挨拶、檀上で背筋を伸ばす、円らながらも宝石のように爛々と輝く瞳が、あたしにはたまらなく怖かった。

 級友の輪に加わるべく、クラスのあちらこちらに出向いて積極的に話を投げかける彼女。でも残念ながら、今よりも思ったことを躊躇なく口にする性格が災いして、その労力が報われる釣果は得られなかったらしい。そのうち、ベランダにひとりきり、手すりに両肘を乗せてグラウンドの彼方をぼおっと眺める瞳へと移ろった。

 そんな、芯を失いかけた彼女の背中に、あたしはもっと話しかけられなかった。

 秋。季節の節目に祟られて風邪にかかり、学校を休んだあたしの自宅へとプリントを届けてくれたのが来瞳だった。後日、担任から聞けば、彼女のほうから進んで配達を買って出たのだと言う。

『はい』

 給食のプリンも手渡され、大好物だったあたしは右手で容器を掴み、左手を受け皿のようにした。

 すると来瞳、

『落としても壊れないよ?』

『わかんないよ?』

 咄嗟に反論が出てしまった。

 一瞬、きょとんとする来瞳。でもすぐ、

『まぁ、ぐぢゃぐぢゃにはなるのか』

 そして折れそうな腕組みをし、

『ぐぢゃぐぢゃのプリンはキモいね』

 にいっと笑うと、

『はやくお腹に隠さないとね』



 たぶん、それがきっかけだったと思う。

 あたしたちは、少しずつ仲良くなった。

 クラスに浮いた

 それを担任は心配してたみたいだけど、あたしはもう、浮いていてもよかった。

 大切な物を隠匿いんとくする──詳細には伝わらないなりに、来瞳には解釈する大らかさがあった。咎めるでもなくバカにするでもない、そんな人もいる──というスタンスを取ってくれたのが心地よかった。

 来瞳の前では、心置きなくあたし・・・でいられた。

「なんで、来瞳?」

『芹沢来瞳様』

 工藤尚輝、からの、芹沢来瞳。

 もはや偶然では済まされない。

 偶然じゃない。

 確信。

 ここは、あたしにまつわる場所・・・・・・・・・・

 停止したように静かになってた鼓動が、確信を持った瞬間、さっきまでとは異なるタイプの動悸となった。

 興味のような動悸。

 期待のような動悸。

 不安のような動悸。

 ずくずくと疼くような動悸。

 なぜ扉が増えたのか、疑問はすぐに姿をくらませた。覗き見したい欲が胸に宿り、動悸のバイブに促されたように右手を伸ばすと、ゆっくりとノブを回し、一気に引いた。

 とたん、

 白が、

 津波のように、

 まぶしくて、

 目が、

 白く、

 痛、

 痛くて、

 まぶし



「くるめちゃん」



 震える嗚咽おえつが聞こえた。

 瞼を開く。

 すぐに開けた。

 あんまり明るくなかった。

 和室のようだった。

 隣りあう8畳間同士のふすまが取り除かれ、だだっ広くなっている。左手の廊下、天井から床までおりた一面の窓から、霞みのように淡い陽射しがまっすぐ射している。晴れてはいるが、薄く、雲のオブラートがかかっているとわかる。

 乾燥した畳の、たくましい匂い。鼻の奥にしかとこびりついていた錆びの匂いを押し退け、たちまち、強張っていた肩の筋肉を弛緩させていく。

 甘ったるい線香の匂いも混じる。吐き気さえもおぼえる、純真な和の匂い。

 前方右手には、まぶしく磨かれた仏壇がある。偽りの蝋燭に明かりが灯っている。りんの上段にはしきみあおく両腕を開き、さらにその上段に菊と、そして阿弥陀如来。

 ここ、どこかで見たことがある。

 天井からは四角い電灯。でも、光はまだない。陽光のせいで出番を失っている。

 その真下に、ふたつの背中。

 見憶えのある、女たちの背中。

 その肩越しに、横たわっている人間。

 ぴくりとも動かない、寝姿。

「なんで、こんな……まだ若いのに」

 純白の敷き布団のすぐ枕もとで、何度も鼻水を啜りあげながら女がつぶやく。

 紺のブラウスにジーンズという軽装が、静寂の冴え渡っている仏間にくつろいだ違和を漂わせている。

「なんで」

 どこかで聞いたことのあるような声。

「早すぎるよ」

 涙声の女の左にいる女は、まるで嗚咽を無視しているかのように微動だにしない。正座を大きく崩し、その両脚を嗚咽の女のほうへと投げ出し、斜めに傾いだ上半身を左手だけで支えている。

 疲弊ひへいしきっているようにも見える。黒いタンクトップもベージュのパンツも萎れ、皮膚に垂れさがっているようにも見える。

「う、う……ぅ」

 正座の背中を丸め、嗚咽の女は両肩を細かく震わせる。

 どこかで見たことのあるような背中。

 誰だっけ?

 8割、白髪の混ざったボブの髪。

 この女を、あたしは知っている。

 いや、あたしの知っている女の髪はここまで白くない。ここまで痩せていないし、ここまで声はしゃがれていない。

 でも、知ってる。

 だからあたしは、

……ママ?」

 上半身を傾げ、その右肩に声をかけた。

 すると、横たわっている人間の頭が、顔が、露になった。

「来瞳!?

 驚愕の声をあげてしまった。

 ぴくりともせずに横たわるのは、30代の後半から40代ぐらいの女性だった。

 口もとから目もと、わずかに皺の刻まれはじめた顔立ちではあるものの、細い眉、小さな鼻、薄い唇、見慣れた上品な部品が面積の狭い顔に貼りついている。

 どれほど皺が印象を邪魔しようとも、その顔立ちはあたしの、あたしの親友の、芹沢来瞳でしかなかった。

「なんでッ!?

 かすれたような悲鳴が出た。

「なんで、来瞳、なんで」

 抑えきれないあたしの声は、自然と、

「ママ、来瞳、どう、したの!?

 怖くて、涙が勝手に、声が歪み、手がぶるぶると震え、

「来瞳、ねぇママ、くるめ、来瞳」

 小さく丸まった肩に手を当てる。

「ねぇママ、来瞳、なんで」

 しかしその肩は、身体は、

「ママ、ママぁ……ぁぁあぁ!」

 びくともしなかった。

 地面にしっかりと固定された、臘人形のようだった。

「ぁあぁあ、ママぁぁあ!」

 ぼろぼろと涙がこぼれる。

 人間じゃない。ママも、来瞳も、人間じゃなくなってる。

 になってる。

「ママぁあ、へんじしてよぉ!」

 肩を揺すりたいのにぜんぜん動かない。嗚咽では震えてるのに、あたしの挙動にはぜんぜん応えてくれない。むしろ、嗚咽の震動にあたしの掌のほうが乗せられる。

 だからあたしは、

「ママ、ママぁ、来瞳、ねぇ」

 上半身をねじってママの正面を覗き



ぐ る り 



 覗きこむのと同時、上半身ごと、ママが左へと顔を逸らした。

 あの、着流しの男や、医者のように。

「ぁあああぁ! ママぁ!」

 左から覗きこむ……右に逸らす。

 右から覗きこむ……左に逸らす。

 ママが顔を見せてくれない。

 まったく見せてくれない。

 来瞳は見せてくれるのに。

 寝顔を見せてくれるのに。

 寝顔。

 血の気を失った白い寝顔。

 生きてない。

 来瞳がぜんぜん生きてない。

「ねぇ、ねぇ、ねぇマ」

「ぁあああッ!」

 突然、ママが悲鳴をあげた。

 それから、わなわなと、こらえるように丸めた身体を震わせると、

「ぁ…………舞ぁ彩ぃぃぃ!」

 聞いたことのない太い声で、叫ぶようにして泣いた。

 おばあちゃんが死んだ時も、こんな泣き方、しなかった。

 ママが、泣いた。

 なんで、

「舞彩ぃぃぃ!」

 なんであたしの名前なの?

 だって、これ、来瞳じゃん。

 あたしじゃないじゃん。

 あたし



 あたし・・・は?



「ウソ」

 触ってはいけない物だと気づいたように、あたしは咄嗟にママから離れた。

 2歩、3歩と後ずさりする。

 ママの項垂れた後頭部。

 左側の女も来瞳の母親──優奈ゆなさんであるとわかってるのに、その顔は見えなかった。

 見えているのは、来瞳の寝顔だけ。

 あまりにもリアルな、寝顔だけ。

 それ以外の顔は、わからない。

 でも、彼女がママであることはわかる。

 彼女が来瞳の母親であることもわかる。

「いぃぃいぃ……舞彩ぃいぃ……

「ウソだ!」

 ママがいて、来瞳の母親もいて、でも、いちばんにいなくてはならないあたし・・・が、なんでいないの?

 あたし、どうしたの?

 あたし、どうなってんの?

『天涯孤独ですかぁ』

 着流しの男の言葉が、脳裏をよぎる。

 ひくひくと頬が引きるのがわかる。

 あたし、

「ウソだよ」

 あたし、

「ウ、ソ」



 あたし……もう死んでんの?



 す う っ

 意識が薄れ、顎があがり、電灯の箱が、霞んだ天井が、焦げた鴨居が、目の前が、白く、白

 白く

 し

 ろく

 白

 白

 白

 し



「なんでママをおいてくの舞彩ぃいぃ!」





    29    
 




Nanase Nio




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