偽りのカレンデュラ 



 共働きの両親に代わってあたしの面倒を見てくれたのがおばあちゃんだった。ネコ可愛がりで、希望する小遣いを握らせもした。それが原因でしばしばママと衝突、最終的にはおばあちゃんが折れていたが、だけどその翌日にはまた孫の無心に暖かい抱っこで応えた。





尚 輝
Section 3
体 温タイオン





 あたしが生まれる直前に祖父が他界し、いち時期、蕭殺しょうさつとしてふさいでいたというおばあちゃん。だけど間もなくにあたしが生まれ、新たな生き甲斐を得たかのように生き生きとしはじめたのだという。だから可愛がることは仕方がないと、その点に関してはママも認めるところだった。

 おばあちゃんの味噌汁が大好きだった。素麺のように細長く千切りにした大根の、たったそれだけのシンプルな味噌汁。塩分濃度が高めで、だからご飯によく合った。ネコマンマこそが大好きなおばあちゃんの味だった。

 40歳の恋愛結婚でパパを出産したおばあちゃん。両親もまた30代の半ばにあたしを産んだものだから、6年生の進学を手前に迎えた頃には、おばあちゃんはすっかり白髪に満たされた老婆だった。そしてこのあたりからおばあちゃんは、少しずつ少しずつ、色んなことを忘れていった。

「おまえ、どこの子だ?」

 ある晩の食卓で、あたしに投げかけられたおばあちゃんの質問。

「ヤだよぅ舞彩まいでしょ? 可愛い舞彩」

 ママは笑ってそう諭したけど、あたしの頭は真っ白だった。質問の意味がまったくわからなかったし、なぜママが笑うのかも理解できなかった。

 自分の油断を責めるかのようにあたしはおばあちゃんに甘えに行った。大好きだと願えばまだ取り返せるのかも知れない。一過性のわずかなバグなのかも知れない。それがいつの、どんなものなのかはわからないけれど、もう2度と欠如させるような真似はしない──と。

「おぉ。舞彩ちゃん。どうしたの?」

 夕食の件などなにもなかったかのような笑顔でおばあちゃんは部屋へと招き入れ、いつの間にかすっかり痩せこけた、まるで手すりみたいに硬い胡座あぐらへと、かつてよりも見違えるほどに成長したあたしを乗せた。そして背後からゆったりといつもの暖かい体温を羽織らせ、あたしはやっと、あぁ、まだ大丈夫だ、まだ大好きな状態のままでいてくれる──それがぢゅんと嬉しくて、か細いそでを取ると左右に揺れつづけた。

 暖かい抱っこ。

 この体温こそが機能している証。

 この体温こそが壊れていない証。

 この体温こそが大好きである証。

 人間特有の、物とは異なる判断基準。

 ママの手もと、パパの足もと、どんどん冊数を増す「認知症」のタイトル。なんとなくでしかわかっていなかったあたしは、認知症のシステムもケアの方法もスルー、小学校から帰宅するたびにおばあちゃんの空閨くうけいへと通いつめた。

 それなのに、

「喉が乾いたわ純可すみかさん」

 飲み水の催促。

「あたしママじゃないよ」

 いつ博多に出発するのかと泣きつかれたこともあった。ママと結婚をする直前までパパの赴任していた場所。

 性別さえも無視して、おばあちゃんはあたしと誰かを錯誤していた。

『しっかりしろよぉッ!』

 パパの悲鳴のような懇願を聞いたこともあった。親戚のおじさんが見舞いに来て、怒鳴るのは逆効果なのにとママが愚痴り、

『いや、息子にとっちゃ、お袋はいつまで経っても強いお袋でしかないんだよ』

 おじさんの言葉が素早く胸に染みた。

 そして、夏。

「じゃあ、頼むね?」

 おばあちゃんをあたしに託し、両親は玄関の裏へと消えた。夏休みの娘、おばあちゃんとの架け橋にとおもんぱかったようだった。

 ひさしぶりの留守番。友達の少なすぎるあたしにとっては生活理由があるだけまだマシなことではあった。だけどその反面、正直に言うなら、この頃のあたしはもうおばあちゃんのほとんどが怖かった。

 体温はあるのに機能していない。

 あたしの知る機能が果たされていない。

 だって、あたしの知るおばあちゃんは、あたしを知っているおばあちゃんだったのだから。孫娘という、あたしという存在がいつも優しいまなざしの中に映されていて初めて、おばあちゃんというヴィジョンがあたしの中に象られるのだから。

 あたしを知らないおばあちゃんなんて、あたしのおばあちゃんじゃない。まるで、おばあちゃんとそっくりの仮面を被った偽りの誰かさん。

 ……あなたは、どこの誰なの?

 もちろん認知症についてなにも知らないわけじゃない。概要ぐらいは知っている。悲しいけど、淋しいけど、彼女はあたしのおばあちゃんだと。

 なんとか取り返そうと思った。怖がるなんて可哀相だと思った。おばあちゃんの本来の機能を蘇らせることができるのは、可愛がらせた孫のあたしだけだと思った。

 だからその昼、あたしはママの用意しておいたランチセットの中に、あたし特製の味噌汁を加えた。いつの間にかつくられることのなくなっていた、塩分濃度の高めなおばあちゃんの味噌汁。大根もカタ抜きのようにかつてのままに、味覚のシナプスをさまよいながら1時間もかけて再現した。

 誰のためにつくっていたのかを思い出すことができれば、たやすくあたしにたどり着けるはず。言葉による伝達がダメならば、感覚に訴えかけるんだ。その記憶の最奥にいるだろう、あたし自身に語りかけるんだ。

 汗だくの中で味噌汁は完成した。

 ほぼ初めてと言っていい手料理。

 完璧だった。

 2度と再現できないと思うほど。

「ごはん」

「ん? おぉ。はいはい」

 寝室からダイニングへ、ヨチヨチと歩くおばあちゃんをのんびりと先導。ちょっと前まではもっとテキパキとしていたような記憶がある。急かしたくなる気持ちを抑えつつ、ようやく追い着いたおばあちゃんを椅子へと座らせる。

「ありがとう純可さん」

 しっかりしろよと叫びたくなる。パパのおかげでどうにか冷静さを保つと、渾身こんしんの1杯を味噌汁茶碗にすくってテーブルへ。

 さぁ、いよいよだ。

「あたしがつくったんだよ味噌汁」

「あらほんとう?」

 特に驚くわけでもなく、満面の微笑み。張りあいない気持ちをぐっと飲みこむと、重たそうに味噌汁茶碗を持ちあげる痩せた手首を、固唾さえも飲みながら見守った。

 おばあちゃんが蘇る瞬間だ。

 心配ない。

 心配ない。

 心配ない。

 ずずずず

 啜る音にあわせて、ミルク色に変色した結婚指輪もろともに痙攣するように震える枯れた手。あたしは祖父のことをまったく知らないが、まさか愛した人さえも忘れてしまうものなんだろうか。

 なんのために生きてるんだ。

「おいしい?」

 雑念を払うように尋ねる。

「ん」

 こくりと頷く。黙って味噌汁茶碗を据えると、今度はママ特製のエビフライをかじる。さこ、さこ──しなびた頬の内側から入れ歯のパーカッション。

「おいしい」

 花より団子の少女のような笑顔に鳩尾みぞおちがエグれてしまいそうになる。あたしの望むタイミングはソコじゃない。

「もっかい飲んでよ。味噌汁」

「ん?」

 包み隠さずアンコール。まるであたしのためだけにあるおばあちゃんの食事。でも、レスポンスが欲しかった。1時間もかけて煮詰めた、あたしとおばあちゃんとの掛けがえのない思い出なんだから。看過できてしまえるほど透けたとは思いたくもない、あたしの脳裏にはイヤでもていであってしまう、大好きな大好きな思い出。

 怪訝に思う様子もなく、まるで服従するかのようにアンコールを持ちあげる。でも、あたしにはもう、罪悪感という負の未来にかまけている余裕がなかった。震えるその指に、あると信じるリアルに、そうであるはずのリアルに釘づけだった。

 あたしは舞彩だよ。

 大好きな舞彩だよ。

 ず

 壊れちゃヤだよ。

 大好きなんだよ。

 ずず

 だいじょうぶ。

 まだ大丈夫。

 ずずず

「おいしい?」

「ん」

「ねぇおいしい!?

「ん、おい」

 その時だった。

「ひゅ」

 晴れはじめたばかりの湿度をかき分け、聞き馴染みのない異音がダイニングに響き渡った。

「ぶえぅ!」

 テーブルの中央を目がけ、咀嚼そしゃくされた半固形物が水鉄砲のように吐き出された。さらに追い討ちをかけ、ぼるろ──上の入れ歯まで吐瀉としゃ

「おば」

 からかしゃわん

 乾いた音をあげ、枯れた左手から味噌汁茶碗が落下。茶色く濁った液体が左半身にみるみると滲む。

 ああッ。思い出が!

 大好きな思い出が!

「ごふっ。ごっふぉ!」

……おばあちゃん!?

 その異変に、雷にでも打たれたかのような足で立ちあがった。

 ぎゅうっと固く瞼を瞑り、苦悶の右手で胸座むなぐらを鷲づかみ、上半身をありったけに捩るおばあちゃん。

「こひゅッ。ごぉっほ!」

 すぐにあたしは小さな背後へと回りこむ。丸い背骨をさする。

「気管支!? 気管支に入ったの!?

 自然と声が歪む。すぐにでも泣きそうだった。まさか苦しむだなんて、夢にも思っていなかった。

「ごお、ごぉひゅ!」

 衣や大根に汚れたおばあちゃんの口の中から、聞いたことのないメロディ。


ご ぢ ょ ご ぢ ょ ご ぢ ょ ご ぢ ょ 


 冷たい昆虫が背筋にうごめく。

 その反面、おばあちゃんの背骨はまだ、大好きな大好きな温度のまま。

 混乱。

 錯乱。

 だってあの優しい声が、

「ごぶぇッ。ばぁ。がぁっげふぉッ!」

 暖かい声、嬉しい声が、

「おばぁぢゃ……!」

 壊れちゃった。

 30分後、錯乱状態の娘の電話にママが飛んで帰ってきた。出勤間際の整頓されたメイクが心なしか乱れて見える。

「気管支に入ったって!?

 リビングの真紅のカーペットでくの字に横たわるおばあちゃん。30分間もずっと朦朧もうろうとした呼吸を荒げていた。ぜひゅぅ、ぜひゅぅ──肩と胸に支えられる呼吸が耳をふさぎたくなるほどに痛々しい。

「お義母さん大丈夫!?

 答えない。苦悶のメロディだけ。

 あたしの右手はおばあちゃんの背骨から離れなかった。変わらぬペースで変わらぬ体温を撫でてやまなかった。離したとたんに冷たくなってしまいそうで怖かった。

「しばらく様子を見よう」

 静かにそう提案し、ママはあたしの頭を撫でた。本当は、あたしと交替しておばあちゃんの背骨を撫でてほしかった。すぐにでも逃げ出してしまいたかった。

 だけどあたしは、おばあちゃんが疲れて熟睡してもなお逃げなかった。もう1度、あたしを名前を呼んでほしかった。優しく可愛がってほしかった。力強く抱っこしてほしかった。

 逃げ出せない右手は、あたし自身が眠るまで、体温に語りかけ続けた。

 帰ってきて。

 舞彩のところに帰ってきて。

 おねがい帰ってきて……



 2週間後──おばあちゃんは呆気なく死んだ。

 誤嚥性ごえんせい肺炎。

 あたしが殺した。





    





 きっと、幼いあたしは知っていたんだ。壊すことで心が壊れてしまう、自分自身の弱さ、脆さ、儚さを。だからこそ本能的に大好きな物を隠した。

 それが、成長に従って壊れにくくなり、もう隠す必要のない大人へと進化するはずだった。なのにあたしは、その貴重な成長過程で、大好きな者を殺してしまった。

「まい」

「ん?」

 この右手にはまだあの時の背骨の体温が残っている。抱っこされたかつての体温としのぎを削っている。2種類の体温が、まるで薄氷のように危うい生命を司っている。

「なに?」

 あの夏を契機きっかけにして、あたしはあたし以外の体温を感じることを怖がるようになった。たとえそれが赤の他人の体温だとしても、物を壊すことよりも遥かに怖い。生命が、あたしの心を壊してしまうのかも知れない生命が、たまらなく不快。

「なによ?」

「ううん」

 ナオを愛してる。

 だから、よりナオの体温を確かめるのが怖い。機能なんかに見蕩みとれてアンコールを求めたばっかりに、撫でたところで2度と帰ってこなかったあの日の背骨の体温に、どうしても重ねてしまう。

 大好きであるほどに、体温が怖い。

「な・あ・に?」

「なんでもない」

 ナオを愛してる。

 だからあたしは、よりいっそうにナオの子供が欲しい。子供ができるということはつまり、トラウマを完璧に克服したということなのだから。もしも生命を犠牲にすることで宿ったトラウマなら、克服するのに必要な方法はただひとつ、生命という体温を肉体に宿すことだけだ。

 愛する人との生命を。

「なによ」

「なんでもねぇよ」

 その胸で泣きたい。

 1秒とたなかったいくつかのキスを、もっと内側にあるものを、ナオにわかってもらいたい。

 本当はずっと重なっていたいんだよ。

 その手をずっと絡めていたいんだよ。

 ずっとずっと結ばれていたいんだよ。

「なによ、気持ち悪いよ」

「なんでもないって」

 さっきからナオがあたしに触れたがってる。そんなことはもう確かめなくてもわかってる。

 だから悔しい。

 その胸で思いきり泣きたい。

 でも、

『ナオはあたしの気持ちをわかってる?』

 それだけは絶対に質されない。だって、ナオの中にいるあたしを確かめることは、アンコールを求めることは、やがては死を召くに違いないことなのだから。

 だから、

「ふうん。別にいいけど」

 鼻白んで、あたしはまた隠した。

 少女時代のままの本能的な手癖で。

 まるで延命処置のように。

 問題を先送りするように。



 偽り・・のように。



 慎重に。

 慎重に。

 慎重に。

 生命に満ちあふれた原宿の懐中ふところへと、壊れやすいこの心を、また隠してしまった。





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Nanase Nio




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