偽りのカレンデュラ 



 急転しそうもない、ある意味、穏やかな1日が幕をおろした。

 強い人間などひとりもいない……学んだことはそれだけで、徒労に終わったような1日だった。

 誰にも、自分の胸の整理はつけられず。

 なにを努力すればいいのかもわからず。

 前向きな姿勢が真に善良かもわからず。

 だらだらと平坦な、そんな1日。明日もきっと大差はないと信じさせる、虚しくも穏やかな1日。究極にピースフルな1日。

 それは、あたしにも共通のはずだった。





敦 子
Section 7
元 彼モトカレ





 不服だ。

 場違いに違いない。居心地が悪いぶん、先方が指定したことだからと胸裡に念じている。来たくて来たわけじゃないんだと。

 雨宿りの1件以降、永遠に訪れることはないはずと予感していた新宿・歌舞伎町。その予感は脆くも裏切られ、あたしはこうして、上辺の賑わいを窓の下に見ている。美園ママの合宿所と緯度経度は違えども、なるほど、生まれては消える、眼下の外交辞令的な外交性たるや、ここも歌舞伎町の領域内であるという有力な証。

「わざわざ、ごめんね?」

 でもそのわりには、あらゆる献立の値が高い。あたしの口をつけている黒蜜カフェオレでさえも、700円に手が届きそう。一気飲みすれば5秒で空っぽになるほどの量なのに、素材に絶対の自信があるのか、平凡な高校生を仰がせる天文学的な相場を叩きだしている。

「会社の近くにまできてもらって」

「いえ。もともと用があったので」

 メニューを左手にしばらく固まっていたものだが、商売激戦区にあるとは思えないこの喫茶店の相場にも慣れっこの様子で、

「ありがとう。どうしても舞彩さんと話がしたくなって」

 あたしの躊躇の注文を、眉を動かすことなく颯爽と店員にもうしつけたのが、彼。

「陽子の……最後に会った人と」

 後藤創真。

 件の、月乃さんの元カレ。


2010/07/07 [水] 17:48
新宿区歌舞伎町1丁目
喫茶室ルノアール・西武新宿駅前店


 会って話してみたいという突然の電話があった時には唖然としたものだが、素性の知れない男性なりに、肩書に託つけて会うことにした。月乃さんが愛した高梨颯斗の父親であるという、ただひとつにして最も評価の高い肩書に。

 もちろん、彼の所望には困惑した。今もしている。電話番号は敦子から聞いたとのこと、カラオケ店での件のあとに番号交換したのが、さっそくこんなカタチになってあらわれ、彼女を恨まないでもなかった。お人好しすぎる。

 極度の人見知りというのもあるけれど、困惑の最大の理由はそれではないんだ。

 今は、月乃さんの話をしたくない。

 いまだに心の整理をつけられていない。死んで無くなったという真実が、いまだにファンタジーであるかのよう。死顔を見、亡骸の冷たさを確かめ、蝶の儀式を遂げ、親族の心の儀式にも立ち会い、もはや実感するしかないのに、でもまだ、月乃さんの死を受け入れられないでいる。

 あたしが殺したのかも知れないんだし。電話を無視したことに対する後悔の念が、薄まる気配もない。

 だから月乃さんの話はしたくない。

 今は、現実から逃げていたい。

 でも、

「まだ気持ちが落ちつかなくてね」

 月乃さんの溺愛した息子・高梨颯斗の、実の父親からの所望なのだ。ただそれだけだけど、縁のないはずだった歌舞伎町へと足を運ばせるには、充分すぎる理由。

「頭の中の陽子が片づかなくって」

「はぁ。それで……」

 片づかないのはあたしも同じなのだが、目をそらして集めないようにするあたしと違って、この創真という男は、拾って埋めようとする性分らしい。信じがたい暴挙。

「ホントにあたしが、つ……陽子さんの、ホントに最後に会った人間なんですか?」

 怖々と尋ねると、対面の彼、椅子に深く座りなおしていう。

「探偵の真似事といったらアレだけど」

 高そうなワイシャツがパリッとしてる。肩に届きそうな後ろ髪もほどよく乱されていて、いずれも信じがたい暴挙。

「陽子の知りあいに片っぱしからあたってみたんだよ。でも、舞彩さんよりも近々に会っている人間はいなかった。6月20日、舞彩さんと別れてから以降、陽子は誰とも会わずにひとりですごした」

 そこで彼はアイス珈琲にひと口をつけ、小さな黒目を宙にさまよわせたのち、思いだしたようにこんなことをつづけた。

「いや……厳密にいうなら、交流を計っていた人がいるみたいなんだよね。メールのやり取りが何件かあった」

「メールのやり取り?」

「インターネット上の話なんだけど、都市伝説っていうの? その手の逸話や寓話を集めている娯楽サイトの、管理人と思しい人物とメールをしている」

「かんりにん」

 それって、

「なんで陽子が都市伝説なのか、まったく関連性が見えてこないんだけど」

 都市伝説ジャンクション?

「でもなにか気になることがあったのか、そのサイトの管理人と何件か、俺にはよくわからないメールのやり取りをしている」

「例え、ば?」

 すると創真、例えば?……鸚鵡がえしで小首を傾げる。掘りさげられる話題だとは思ってもみなかったのだろう、鷹のように目を見開いて、きょとんとした表情。

 それから、右を向いて窓の外を見やる。彼に釣られ、あたしも左を。

「例えば、うーん……」

 ブロンドのソフトクリームを天こ盛りにした桜色ドレスのギャルが、西武新宿駅を背もたれにして座りこんでいる。まっ黒な目を不服そうに落とし、一心不乱に呪詛のメールをこさえている。

「偽りの中にこそ、真実がひそむ」

「え?」

「……とかなんとか。中途半端な偽りではたどりつけない境地があり、ごくわずかな人間だけが垣間見られる世界なのであり、しかし最後にしくじれば惨たらしい末路を迎える……とかなんとか」

「惨たらしい、末路」

「しくじらず、段階を踏んでいけば蝶々となって生まれ変わることができる……とかなんとか。よくわかんないでしょ?」

「蝶々」

「バーバチカ……だっけな?」

「え?」

「蝶々という意味のロシア語だとか」

「ロシア語」

「そのバーバチカが最終形態で、ええと、生まれ変わらせることが、なんとかカンの目的である……とかなんとか」

「なんとかカン?」

「カンは“館”だね。なんとか館」

「し……」

 死線館?

「わかんないんだよねぇ。まったく要領をえなくって。その、管理人とやらの文章の書きかたも独特で、文語というか、漢字が多いというか、読みづらくって」

 苦笑を浮かべる創真だが、あたしの耳はその台詞の半分も受けつけなかった。

 愕然とするほど、様々な事象がリンクしあっているような気がする。確かに初耳な情報は多いものの、彼ほどには意味不明と思えない。だって、リンクしあっていると思わせる出来事を、あたしは確実に見聞きしているのだから。

『偽ると縮まる』
『惨たらしく死なせるべきは』
『蝶々』
『ロシア』
『死線館』

 見聞きしていたキーワードが、でも一見するとバラバラでしかないキーワードが、なぜか、ひとつところにおさまっている。

 偶然?

 なんなの?

 なにが起きてるの?

 あたしはこの刹那、如璃のことを考えていた。あの雨宿りの日からずいぶんと長い期間、音沙汰がない。調べてみると書いておきながら、忘れているのか、まだ調査中なのか、その近況報告もない。

 すでにひとり、友達が死んでいるのに。

 いや。如璃を責めたってしかたがない。都市伝説に詳しそうなふうではあるけど、有名でもないテーマであれば取得情報量も高が知れてるわけだし、ならば限度というものもあるわけだから。月乃さんの事故も都市伝説とは無関係かも知れないわけで、それに、あたしの問題を人任せにしていることこそがそもそもの大間違い。あたしに如璃を責めていい道理などない。

 でも、やはりどうしようもない問題で、

「陽子の送信内容がわかれば、もしや話はつながってくるのかも知れないけど」

 こんなにも混乱させるような話題を提供した創真という男に、

「でも、都市伝説サイトのフォームメール機能のところから送信しているみたいで、その内容はわからずじまいなんだよね」

 代わりに腹が立ってきた。

 月乃さんと同学年ということは、30歳におよぶぐらいか。でも歳相応には見えず、大学生と偽っても通じそうなほどに若い。髪は流線形に長くラフで、顔や腕は適度に焼けていて、起業家風情、たたずまいからしてバイタリティがあり、スポーティでもあり、残念ながらあたしの苦手な雰囲気。

 しかもイケメン。優しげな面立ちながらキリッとしていて精悍で、レスキュー隊のオレンジ色が似合いそう。すらりと背丈もあり、ボクサー体型なのだろうか、余分な贅肉もなさそうで、ファッションモデルとしてもやっていけそう。

 嫌味なほどに格好がよく、嫌味なほどに誠実そうで、嫌味なほどにスキがなくて、完璧すぎて、だからあたしは、むしろ緊張しないでいられる。住んでいる世界が違いすぎると悟っていられる。

 でも、だから、

「心霊的な物事に興味があったのかなぁ」

 月乃さんには似合わないと思った。

「感受性が強かったからなぁ、陽子って」

 月乃さんは、もっとこう、弱そうな男が似合う。一緒に悩みあえるような、弱点の見える、スキのある男が。

「だから、落ちこみやすくもあって」

 落ちこむ彼に寄り添って、だいじょうぶだよ……って、どうでもいい話題を早口でまくし立てて、語尾に笑みをふくませて、たまに台詞を噛んで、一緒に成長できて、

「落ちこむ理由も複雑で」

 どうして、

「昔っから陽子は……」

「どうして」

 どうして、

「一緒にあってくれなかったんですか?」

「え?」

 どうして月乃さんは、

「そんなに懐かしむクセにどうして彼女とともにあってはくれなかったんですか?」

 この男を愛せたんだろう。

「彼女の最後に会った人が、どうして創真さんじゃなかったんですか?」

 ほんの一時とはいえ、どうして。

「どうしてあたしだったんでしょうか?」

 どうしてあたしは、

「居座ろうとしましたか?」

 ナオを愛せたんだろう。

「力尽くでも、彼女の心に」

 孤独死させるほどに、どうして。

「どうしてあたしだったんでしょうか?」

 淡々と、濁すことなく問いつめる。

 視界の右はし、お盆を抱える女性店員がこちらを見るのがわかった。なにごとかという感じでうかがいながら、奥の喫煙席のほうへと消えていく。あたしの記憶が確かならば黒縁眼鏡をかけた若い店員。丸みを帯びた大きな眼鏡と爪楊枝のように華奢な四肢がいかにもという感じの、文学というシェルタを胸に隠し持っていそうな、砂のように脆そうな女。

 彼女が文系ならば、創真は体育会系か。なるほど、例えばポロシャツという異国の民族衣装も大らかに受け入れそうな年季のよさと、それが似合うための日夜の研鑽を怠っていなさそうな年貢の悪さを感じる。こういう男は、いかにも器の広さを前面に出すが、実は後ろ髪が長く、しかも第三者まで道連れにしての涙の晩餐会を好むからタチが悪い。こちらの感傷など知ったことではない傍迷惑で、むしろ抉りあうことが生命の昇華だと信じているに違いない。

 ひとりでやってろ。

 だから体育会系は嫌いなんだ。そして、だからやっぱり月乃さんには似合わない。

 どうせ月乃さんの身内に会うのならば、高梨颯斗に会いたかった。会いたいと口にできる屈託のない色男にではなく、怖くてマシュマロも手渡せないような屈託のある少年に。

「なにを整理したいのかは知りませんが、あなたの庶務につきあう趣味はないです」

 突き放し、あたしは席を立った。

「そもそも」

 バッグを丁寧に左の肩に提げる。財布を取りだすと、眼球で創真を見おろした。

 初めて牧羊犬を前にした仔羊のように、まなこを前に固まらせて微動だにしない。顔は蒼褪め、その頬を強張らせ、固く唇をすぼめ、髭の剃り残しまで際立って見え、慌てて撮りにいった履歴書の写真のようになっている。滑稽で笑える。

「高梨陽子にとっての男とは、永遠に高梨颯斗でしかありません。あなたはただ単に備忘録の脇役にすぎず、しかも引き立て役でもなく、彼女との会話の中には名前すら登場しませんでした。後藤創真なる名前を知ったのも、今日が初めてのことです」

 歌いあげている間に千円札を抜きとり、ひけらかすように卓上に据えて、

「というわけで、あなたとはこのかぎりの縁です。失礼しますね、元カレAさん?」

 背を向けた。





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Nanase Nio




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