偽りのカレンデュラ 



 滲むように目が醒めた。

 6畳ほどの、白い部屋。

 視界には、細長い蛍光灯に、円形の掛け時計に、忙しく回る換気扇が。

 普遍的な日常の光景。

 背中に、ゴテゴテとしたいびつな感触。右を見れば、黒褐色の、椅子の背もたれが3つ、前後に連なっていた。パイプ椅子を並べただけの、簡易ベッドの上らしい。

 それから、

「おかえり」

 覗きこむ、柔らかなハンドベル。





敦 子
Section 5
荼 毘ダビ





 あれから、ずっと考えている。

 いったい、なにを見せられたのかと。

 確かに、事象としては見たとおりのことなのかも知れない。見たままの出来事が、実際に起きたのかも知れない。疑うべくもない、ありのままの出来事をあたしたちは見たのかも知れない。

 ただ、それでも訝からせることは、どういうつもりで“香苗の暴発事件”をあたしたちに見せたのか……ということ。香苗の思念が見せたのか、それともあのオルガという少女の怨念が見せたのか、わからないけど、まるで取ってつけたかのようにして見せたのには、なんらかの意図を感じないでもない。なにかを汲みとってほしくて、手のこんだ仕様にして、見せたのだと。

 だけど、あたしに汲みとられたことは、あの時に感じたことがすべて。それ以上も以下もない。

“久我初美は娘を嫌い、また恐れている”

“久我香苗は母の娘でありたがっている”

 初美は、娘が壊れてしまうことを望んでいた。ふたりきりのコミュニケーションを娘が望んでいることも知っていて、だからあえて課題実験に協力することで第三者を介入させ、娘の望まない状況にし、さらに焚きつけ、興奮させ、絶望させ、心の箍を外して壊そうとした。多少の犠牲も想定内だったかも知れない。はたして、まんまと娘は策にはまり、篠宮陶子という想定内の犠牲者とともに、死んだように壊れた。

 香苗は、母と一緒でありたかった。仮に叱られようとも、罵られようとも、1対の母娘であることを望んでいた。叱られて、罵られて不貞腐れたとしても、それもまた香苗には、まぎれもない喜びだったんだ。ありきたりの母娘であること、そのために奇妙な科学者は邪魔者であり、まして課題実験のために母に叱られ、罵られるのは、あってはならないコミュニケーションで、だからこそ懸命にデルビルに反抗し、篠宮陶子を警戒した。一縷の力をふり絞った。なのにその矢先、よりによって母に実験の続行を命ぜられ、死んだように壊れた。

 食い違う母と娘の思惑……あたしに汲みとられたことは、これですべてだ。

『でも、なんで香苗がふたりきりの母娘であることを望んでるってわかったんだ?』

 敦子にそう尋ねられた。

 べつに、わかったわけではない。感じただけのこと。あたしの個人的な解釈。

 契機は、香苗の台詞だった。

『パパは、どこにも“あり”ません』
『ママと“ある”のは、ムリですか』

「ある」と口にしたんだ。これは、例えば「有る・在る」や、または「存る」という表記があてはまるのだろうか。物質的で、実際的・体験的な表現ともとらえられる。精神や理想を重んじる日本では馴染まない表現なのかも知れない。

 でも、なんとなくわかるんだ。

 あたしも、静物のみならず、生物もみな“物”としてとらえるムキがある。人体は物質であり、思考は物質のつくりだす電気信号である。延いて、死とは物質としての終焉であり、つまり魂とは詭弁である……死を恐れるのも、だからこそ死後の安寧を欲するのも、魂という観念をつくるのも、すべてが電気信号の賜物なのだと。

 映画『ターミネーター』、頭を潰されたターミネーターの瞳の赤い灯が消えていく場面、昆虫を我慢しながら観たものだが、でもあたしには、アレこそまさに“真実の死の表現”に思えてならなかった。魂など存在せず、肉体的機能としてただ停まっていく現象こそ“死”というものなのだと、改めて思った。だから観ていられた。

 解剖学者でもあったダヴィンチが遺した言葉に「解剖していてわかったことだが、人は死ぬようにできている」というものがあるが、コレもまたあたしの感性に響く。なんて物質的で体験的な言葉なんだろう。真実、そういうことだとも思う。

 あたしにとって、人間も物質だ。草木と同じ“物”なんだ。物質であるからこそ、次第に衰え、錆び、ついには機能を失う。健康法とはすなわちメンテナンスであり、でも摩耗からは逃れられず、物質としての限界を迎えた刹那、瞳の灯は消え失せる。当然、発熱機能もなくなるので残火もまたいずれは消え失せ、冷たくなる。それきり“ただそれだけの物”となり、腐敗・風化したすえに“無”と完了する。

 火葬や土葬や風葬……いずれも“自然として無に帰させる最善の作業”なんだし、葬制としての文化的な定着をはたしている以上、人間も物質であること、実は誰もが認めるところであるはず。

「物質」と表現すると味気ない……だから多くの人々は熱量を求めたがる。感情論で溜飲をさげたがる。物ではないのだと信じたがる。それらの感情もまた電気信号だということは考えたがらない。そんなふうに考えるとなんだか寂しいじゃない?……という電気信号だということは、絶対に。

 だけどあたしは寂しくない。むしろ物と思えば思うほどに、感情が……電気信号が揺さぶられる。いずれ寿命で壊れ、いずれ無くなってしまうと思うほどに怖くなり、時に愛しくさえもなる。震える。悲しむ。肩を突き飛ばしたくなる。背中を撫でたくなる。大事にしたくなる。隠したくなる。

 ともに“有り”たくなる。

“在り”たくなって“存り”たくもなる。

 壊れる、その瞬間まで。

 香苗もまた、物質としての切実なタイムリミットを感じながら生きていたんだと、そう思ったんだ。魂はなく、彼岸もなく、この“今”にしか存在するチャンスがないことを常に感じていて、そしてその日数の儚さも悟っていて、だから彼女は精一杯、チャンスを拾おうとしたんだと。

 久我香苗も、たぶん“存在論者”だ。

 もちろん学問レベルにはないけれど。

 でもそう思った。同じ匂いを感じた。

 同類の匂い。

 香苗は……オルガかも知れないけれど、そういうことを汲みとらせたくて、あんな惨たらしいシーンを見せたんだろうか。

 それとも、



『惨たらしく死なせるべきはおかあさん、私のほうでよかったんです』



 おまえもああなるんだと、篠宮のように死ぬんだと、惨たらしく死ぬんだと、ただ脅迫するためだけに見せたんだろうか。

 犠牲者は、篠宮だけだろうか。

 誰か、他にいないんだろうか。

“カレンデュラの呪い”

 その末路を、あたしは知らない。

 そういえば、あたしは知らない。

 月乃さんが、末路なの?

 アレが呪いの成果なの?

 わからない。

 いまだに、わからない。

 ぜんぜん、わからない。

 なんにも、わからない。



 あれから、ずっと考えている。

 わからないということを、ずっと。










 さっき、鯨幕が揺れていた。

 おばあちゃんの時にも見た幕だ。でも、あの時は凪いでいた。今日は風があって、屋内のすみずみを涼やかに闊歩している。

【 高梨 】

 初めて訪れた、2階建ての白い家。そのリビングで、あたしと敦子、そして来瞳の3人は、なにをするでもなく静かにお茶を囲んでいる。葬儀がはじまるまでの空虚な時間を、無為にすごしてる。

 今日、月乃さんは、荼毘に付される。

 今日をかぎりに、無くなってしまう。

 面影も。

 跡形も。

 なのに、無為な時間をすごすばかり。


2010/07/03 [土] 08:51
文京区本駒込5丁目
高梨邸


 悲しいのかといえば、まだわからない。確かに、霊安室の対面は悲しかったけど、時間を置いたら、悲哀よりも疲労のほうが強くなっている。空虚な感じっていうか。

 無力感……なのかも知れない。

「舞彩。あの人って旦那さん?」

「ダンナさん?」

 一昨日の一連の出来事が、まだ現実味を帯びていない。月乃さんとの無言の再会・カラオケ店の変態・久我香苗の暴発、そのどれもが、やはり夢の中での出来事だったよう。いつもの、あたしを犯すばかりの、でもいまだに叶ったためしのない悪夢。

「あそこの、煙草を吸ってる人」

 そう、いつもの悪夢は、質としては異常だけど、実はまだ正夢とはなっていない。来瞳も、敦子も、ママも登場する現実的な悪夢だけど、最悪だと予想される顛末は、実はまだ顕現していない。叶っていない。

 月乃さんを襲った事故も、悪夢が原因だとは特定できていないんだ。

「で、あの人が誰の旦那さん?」

「月乃さんの」

“悪夢”という範疇を越境したことのない悪夢。現実的だけど、現実味のない悪夢。悪趣味な悪戯とも思える悪夢。

「月乃さんの旦那さん?」

「あぁ、非婚だから旦那じゃなかったな。でもほら、高梨颯斗の、パパにあたる人」

 一昨日の一連の出来事も、いつもの夢の発展型だと思えてならない。だとすれば、いつものように現実との関連性は不確かといわざるをえず、実はまだなんにも起きていないのかも知れない。月乃さんも、実はまだ生きていたりして。

「月乃さんの元カレって人?」

 でも、

「でもなんでそう思ったの?」

「だって、月乃さんの亡骸を見つめる目が違ってた。家族の目だった。なのに、今は庭にいる。居心地が悪そう。居場所がない感じっていうか、バツが悪い感じ?」

 悪夢の共有者は多い。月乃さんがそう。敦子とは共体験までしたし、あの“旅”の間、来瞳はあたしたちの姿を見ていない。

「家族なのに家族じゃないっていったら、該当者は元カレしかいなくない?」

 見ておらず、しばらく探しまわってから戻ってくると、当初の階、その廊下で気絶してるあたしたちを発見。すぐさま店員を呼びだす来瞳。そしてバックヤードにまで運搬させ、その10分後に敦子が目醒めた。さらに10分後にはあたしも。

「あぁ、まぁ、月乃さんとも年齢が近そうだしね。高校時代の同級生なんだっけ?」

 店員の、救急車を手配する案は、来瞳によって却下された。病傷の類いではない、特殊な失神だと判断したためだ。彼女じゃなければあたしたちは病院に逆戻り、面倒臭い展開が待っていただろう。

 いずれにしても、あたしと敦子がいつの間にかいなくなるのを来瞳は経験し、どこからともなくあらわれているのも経験している。そういう意味で、彼女もまた悪夢の共有者といえるのかも知れない。

 現実的なのに現実味のない悪夢。

 現実味はないのに共有者のいる悪夢。

 どうしろっていうんだ。

 ただでさえ筋肉痛の弱者が、こんな意味不明な悪夢をどうこうできるわけがない。料理のしようがないんだ。

 無力のままでいるしかない。

 負けん気の強い敦子も、内心は同じなのだろう、あたしの台詞を最後にまた黙ってしまった。月乃さんの関係者とはいえない来瞳ははじめから黙ったままで、不気味なほどに大人しい。こんな感じで、高梨邸を訪れてからずっと、故人を偲んでいるとは思えないドライな状態にある。

 だいいち、身体中の筋肉が痛い。

 居住いを変えるだけで腰の筋肉が悲鳴をあげる。後ろ手に身体を支えれば二の腕が絶叫し、脚を伸ばせば太ももの裏が絶叫。横隔膜も痛ければ、なぜか頬と掌も痛い。筋肉の意外な多さを学んでいる。

 そりゃそうだ。帰宅部の分際で代官山で錯乱し、直後に渋谷駅まで全力疾走、東都医科大学病院の霊安室でも散々に暴れた。そして恩田病院では胆力まで磨り減らし、あげくに人体が破裂する衝撃映像まで目のあたりにした。

 心身を壊すに足る、長い1日。

 さぞや眠れないと思いきや、しかし疲弊には勝てず、その晩は熟睡。その悪夢の中では比較的に穏やかでいられるナオの扉を選択したが、あいにく筋肉痛で動けないという、違った意味での悪夢の朝を迎えた。幸か不幸か人体破裂のグロテスクな記憶を霞ませるほどの、鈍重な痛み。

 昨日は、ひさびさに学校を休んだ。

 ナオからの連絡は、まだこない。もしもあたしの連絡を待っているのだとしたら、とてもそんな状態にはないと連絡したい。ナオにかまっていられる状態にはないと。

「美園さん、スゲェな」

 ふと、また敦子がこぼす。

「もう高梨家の支えになってる」

 あたしたちが訪れた時にはすでに、美園ママはキッチンと奥の和室とを忙しく往復していた。ちらと覗いたらしい敦子がいうには、昨日のお通夜でも美園ママは気丈に立ちまわり、駆けつけたホステス仲間にも厳然と指示を出していたのだとか。

 確かに、今も月乃さんのご両親の憔悴は著しい。特に母親は、精魂が尽きたように愛娘の眠っている仏間を動こうとしない。父親は父親で葬儀の打ちあわせに追われ、仏間のさらに奥、客間から出てこない。

 支えが必要だとわかる。

 美園ママがその一助を買ってでている。目の前のお茶も彼女が用意したもの。

「動いてないと落ちつかないのかな」

 たぶん、敦子のいうとおり。

 そしてたぶん、敦子も同じ性格。自分の世界にどっぷりと落ちついていないと落ちつかないあたしや来瞳とは、反対の性格。

 ただ、そんなあたしたちに気をつかっているのか、単に疲弊しているからなのか、あるいは無力に叩きのめされているのか、敦子は動かない。動きたいと思いつつも、決して動けないという印象を受ける。瞳に力がなく、眠そうにも見える。

「知らない人ばっかりだなぁ」

 不意に来瞳がつぶやいた。舌も使わず、頬の中だけで発音したような籠った声。

「居場所がないのはあたしのほうよ?」

 瞳にも力がない。眠そうで、でも来瞳の場合はそれが常態。

「だからアッちゃんは動かないで」

「あぁ……うん」

 なるほどという理由なのに理不尽そうに聞こえてしまう注文をつけると、さしもの敦子も従いの首を垂れた。

 知りあいじゃないし……と断る来瞳に、そのうち縁を感じる人になるかも知れないからと、敦子が葬儀参列を誘ったらしい。来瞳にしてみれば謎でしかない理由だが、月乃さんという人物に多少の興味はあるのだろうか、すぐに承諾に転じたという。

 それとも、

『舞彩を泣かすヤツは赦さない』

 あたしのため?

 わからない。隠居の老婆のように背中を丸め、ただでさえ小さな身体を小さくして窓の外を眺めているだけ。どこを注視するでもなく、景色を漠然と目の中におさめている様子。だからなにを考えているのかがさっぱりとわからない。

 アインシュタインの脳は、読めない。

 再びの、改まったような沈黙。しばらくすると、わずかに開いた窓、網戸のすきを縫って、大きめの風が全身を撫でた。まだ宣言はされていないはずだが、もうすでに梅雨明けしていたかのように爽やかな風。涼しく、これからが夏本番とも思えない、金木犀を届けそうな風。

 でも、だとすると、困るよ。

 だってあたしの寿命、来春までだもん。

「あの花……カレンデュラだったな」



 り ん



「え?」

 仄かな思考を、敦子の言葉が割いた。

「香苗の独居房、向かって左手の壁ぎわに本棚があって、その上に花瓶が乗ってた」

 そういえば、漫画本の傾く書架の天蓋、花瓶が寂しそうにたたずんでいた。

 一輪挿しの花瓶が。

「花が挿してあって」

 セピア色の世界でも濃厚なオレンジ色とわかる、1輪の花が。

「カレンデュラだったんだよな」

 金盞花が。

「今、思いかえせばの話だけど」

 偶然?

「偶然なのかな」

「カレンデュラはねぇ……」

 敦子の語尾を遮るように、突然、来瞳が口を開いた。右の人さし指で顎をかいて、相変わらずの呑気なまなざし。

「別れの悲しみ」

 途端に惚ける敦子。察してか知らずか、来瞳は淡々と、ひとりごちるように、

「花言葉ね?」

「カレンデュラの花言葉が?」

 わずかにうなずき、今度は左肩を掻痒。

 確かに、そんな記述をどこぞのサイトで見たような記憶がある。

 でも、それがなんなの?

 やや前のめりになって、話の続投を期待するあたしと敦子だったが、来瞳は、

「舞彩はぁ、あたしに触らないで」

「は?」

 脱線。

 完全に身体を静止させる敦子。

 そりゃあ、確かに、

「舞彩の誕生日は10月19日でね、誕生花は紅色の鳳仙花でね、その花言葉が……」

「あたしに触らないで?」

「Touch Me Not」

 確かに、相応しすぎる花言葉だけど。

「昔々、オリュンポス宮殿で、ある美しい女神が窃盗容疑にかけられました。結局、意地悪な神様の悪戯だったって判明して、彼女の容疑は晴れたんだけど、潔癖な彼女からしてみたら疑われること自体が多大な屈辱。なので、その悔しさと恥ずかしさに耐えかねた彼女は、自らの姿を鳳仙花へと変えてしまいました」

「へぇ」

「めでたし、めでたし」

「バッドエンドじゃん」

 そんなあたしの愚痴には乗らずに来瞳、

「そっと触れただけで種子を弾け散らせる鳳仙花の姿は、その女神がいまだに無実を訴えているレジスタンスの姿なんだって」

 偉そうな講釈をつづけた。

 すると敦子が、ほとんど存在しない眉を高々とあげ、

「じゃあ、来瞳は?」

 いたって真面目に尋ねる。

「誕生花は?」

 ひとつ、鼻筋をかく来瞳。

「苔」

 1月22日の生まれ。

「コ、ケ……花言葉は?」

「母性愛」

「ぼ」

 照れもせずにいう来瞳に、敦子は言葉を失った。普通、そこは恥ずかしがる。

 ここで攻守交替。

「じゃあ、アッちゃんは?」

「あたし? あたしは……」

 確か“夏”の誕生日は8月8日だった。

 胡座のまま背をぴんと伸ばし、腕組みをする敦子。なんだか難しそうな表情。

「うーん。正確な誕生日がわかんねぇからなぁ。でも、保護られた日が8月8日で、生まれて間もなくでもあったし、この日が誕生日だって思ってる」

 いわれてみれば、捨てられた子の中には誕生日がわからないケースもあるわけか。どこかで日にちの妥協点をつけるという、ナイーブな問題も孕んでいるのだと。

「8日の前後ってのは間違いないな」

 あっけらかんと敦子は微笑むけど。

 気をつかえばいいのか、つかわなくてもいいことなのか、それがよくわからない。当事者によってもまちまちかも知れない。ただ、少なくとも気を揉む現実ではある。

 ところが、母性愛のあるらしいこの女、

「8月8日かぁ……知らないなぁ」

 気を揉むどころか、気にもしない様子。この不躾な態度には、あたしも、

「知らないのによく聞けるよね?」

 流し目で皮肉を垂れるしかなかった。

 昔からこの調子だ。そのたびにどれだけフォローを入れてきたことか。

 失礼な親友に腹を立てていると、不意に前方から、

「8月8日は、アザレア」

 母性的な声がかかった。

「和名は、躑躅」

 中低音のふくよかな、包容力のある声。

 廊下とをつなぐ引き戸の、敷居を跨いだあたりに立っていたのは美園ママだった。

 上から下までが、まっ黒な喪装。腰帯の上下に細く白いラインが入ってはいるが、とても商で着るものとは思えない、特別な日にしか着付の許されない、荘厳な和服。

 上品だけど、雨宿りの日に感じた華は、今はない。消えてる。ちゃんと隠せてる。

「躑躅の花言葉は、愛の喜び」

 隠せるってすごい。ただ華があるだけの素人には、たぶん真似できない。

「へぇ。ツツジ」

 眠そうな顔なりに、お尻から前のめりになる来瞳。どうやら彼女のなにかの琴線に触れたらしい。

「よくごぞんじで」

 不躾にも嬉しそうな反応に、疲れている表情もなく、ふふふふと円やかにかえして美園ママは、白い掌を前に重ねた。

「仕事柄よね。プライベートではまったく役に立たない知識なのに、困ったもの」

 戯けてみせる彼女に、興味津々の来瞳。

「美園ママは、花言葉って、中っていると思いますか?」

 つかみどころのない冷静な女にしては、やや語調を速めて問いかける。たぶん敦子にはわからないだろうが、わずか興奮しているのがわかる。

 すると、このアバウトな質問に、しばし宙空に黒目を泳がせる美園ママだったが、すぐにまなざしをこちらへと落ちつかせ、こんな解説をはじめた。

「中るように表現が工夫されている……といったら、元も子もないのかしら。でも、それは今の時代のお話。こうした花言葉が誕生した当時は、逆に中らせられていたと私は考えていますよ?」

「アタラセラレテイタ?」

「民衆が望んだ……ともいえるのかしら」

 そういうと、わずかに腰を曲げて、膝のあたりを右手で押さえた。そのまま、音もなく正座になる美園ママ。まるで穏やかな河のような所作で、思わず見惚れる。

「時代は、花にもよるのでしょうけれど、少なくとも現代日本のような情報社会ではなかったでしょうね。例えば、帝政に従うしかない帝国主義、平等だけど競争意識の生まれにくい共産主義などなど、個というものの抑制されやすい主義社会の中、でもどうしても自分の内側に我や個が存在することを認めてしまう。とはいえ、SNSで誰かと意思共有することもできなければ、腑に落ちる情報を集めることもできない。個とはなにか?……という密かな葛藤は、密かなままに募るばかり。そこで民衆は、個の確立を娯楽的メディアの中に求めた。反乱蜂起の未防のためとして、多少の娯楽ならば容赦されていたでしょうからね?」

「それが、花言葉?」

「占術全般がそうなのかも知れないわね。もとは全能なる神様の意志に耳を傾ける、神秘学などの学問の一端であった占術が、ここにきて、新たなる需要を得た」

 来瞳のなにをどう見抜いたのか、彼女にわかるような話のしかたをする美園ママ。だから、あたしにはわかりづらく、敦子にいたってはぽかんとした表情をしている。

「個をあたえてくれ……という需要ね?」

「そちらで決めてくれってことですか?」

「でも、出鱈目ではいけない。ある程度、納得のいく統計学でなくてはいけない」

「わがままな」

「そうよねぇ。でも、民衆の心は逼迫していた。救済がほしく、癒着がほしかった。己を己とするための、納得がほしかった。その頼みの綱として、彼らは民衆を個別化する画期的なシステムがつくられることを望んだ。誰かとはカブってもいい、自分を説明してくれるデータが、情報が。仮に、たった366通りであったとしてもね?」

「刷りこみ……インプリンティング?」

「現代社会でも、似たようなことがすでに起きているのかも知れないわよね?」

「そっかぁ。O型はこういう性格だって、幼いころから刷りこまれてたら、そういう性格になっちゃうもんな。あたしだって、舞彩を見てて、まったくのO型だなぁって嘆息することもある。このあたしでさえもすっかり影響を受けてる」

 話の途中から意地悪そうにあたしの顔を見てた来瞳。おまえもO型だろうが……と思ったが、水をさすのを躊躇して苦々しい表情を見せるだけにとどめておいた。

 ひとつ、上品に笑って美園ママ。

「でも今は情報社会。たった4種類で人の性格はわけられない、科学的には血液型と性格との関連性はまだ認められていない、そもそも血液型はもっと存在する……などなど、偏ったインプリンティングを未然に防ぐ情報があふれていて、それはいつでも拾え、学び、戒めることもできる」

「昔の情報収集って、飛脚だもんだなぁ」

「情報って侮れないのよね。私が私であることを自負できるのも、生きてくる途上で集め、あたえられてきた情報のおかげ」

「うん。自分って“自分史”ですもんね」

「情報流通の悪い社会、それとも、情報のそのものが発育不全にある社会ではこうはいかない。例えば、血液型の人間観察術が誕生した当時の日本だって、ようやく戦後復興の見通しが立てられて、いよいよ高度経済成長期へと突入するころだったので、さて、我というものをどうしましょうか、個というものをどう見つめましょうか……経済では優れていても、個々の自己確立という観点では、よちよち歩きの赤ちゃんのような時代だったと思うの」

「血液型人間観察術は、自己確立の優れたテキストとなりえた?」

「関連本はいずれも爆発的なヒットだったそうよ。もしかしたら、当時の人たちは、盲信するメディアがほしかったのかも」

「現代社会でこそ、盲信は愚かな意識だと通念化されているけど、逆に、優遇されていた時代もあった?」

「そもそも論として、宗教がそうよね?」

 ここで来瞳は、あぁ……と唸った。

「確かに、乱暴な言い方をすれば、原則、宗教も盲信ありきですもんねぇ」

「敬虔な宗教家には怒られる表現なのかも知れませんけど。でもシステムとしては、盲信するに近いところが採用されている。それは時として、戦争を生みもするほど」

 静々と解説する美園ママのあとを継ぎ、なるほどと語気を強める来瞳。

「歴史はかく語りき。盲信をさせてくれるメディアを求めることは、時代によっては健常なことだった。歴史的なスパンだけで考えれば、むしろ盲信を排そうとする現代社会のほうが特殊なぐらいで」

 この真実が永遠の真実ではない……そういったのはチェ・ゲバラだったか。そんなことをふと思いだした。

「花言葉もまた、その当時の人々の渇望を埋めるに相応しい救済のメディアだった。これによって、個々の個がロジカルに確立されて、生きる糧となって、または悪政に耐える礎ともなった」

「中るとか中らないとかいう理屈は、個という情報の満ちている現代社会だからこそ成立するものだと思うの。つまり現代は、個という観念の豊かな時代なのよね」

「貧しければ欲するのが人の性。だけど、欲して、探しても見つからないのならば、あとは諦めるのか、誰かがあたえてくれることを望むのかで、選択肢はかぎられる。だとすれば、待望のメディアがついに目の前にあらわれれば……」

 来瞳が、興奮している。

「アタラセラレることを期待するはず」

 こんな親友の姿、初めて見た。

「そうとくれば、インプリンティングも、実際的に起こったのかも知れませんよね。花言葉の診断結果に沿って、その人の個が形成される現象が。でもそれって……?」

 美園ママの問いかけに、来瞳、ぱんッとあたしの太ももを叩いた。自分のを叩いてほしかった。魂消た。

「そっか。情報によって個が形成されるというのが“自分史のつくられ方”ならば、それは今も昔も変わんないじゃん!」

 あたしもようやく、あぁ……と唸った。敦子はまだ惚けてる。

 すっかりと炎の宿っている栗色の瞳を、天の一点に固めて来瞳、

「あたしという個は、日常生活に根づいた情報をもとにして形成されている。一方、昔の人の個は、時に花言葉や西洋占星術の情報を加味した上で形成されているのかも知れない。確かに、あたしたちは盲信することを排する時代の人間だから、あくまで占いは占いとして現実から切り離し、盲信して依存しないように戒めあってる。仮に個の形成に役立てようものならば、理屈にあわないとか、無意味とか、もっと日常を見ろとか囃立てて否定する。でも、占いという情報にせよネットの情報にせよ教師の教えという情報にせよ、情報は情報、個の形成手段としては優劣のつけようがない。その時代の人にとって、その時代の、今、目の前にある情報こそが最先端の知識で、最有力の知識で、最優良の知識で、そしてそれを手立てにして常に自分史の作成が、個の形成がなされている」

 ハンドベルで朗々とまくし立て、そしてもう1度、今も昔も変わんないんだ……と小声で重ねる。それきり彼女、右手で顎を押さえて自分の世界に没入してしまった。

 さすがの美園ママもわずかに圧倒されているようだった。いまだに口角は弓なりの微笑でありながらも、さがった眦を引き、少しだけ瞼を見開いている。彼女なりに、目を白黒とさせている。

 いったいこれはなんの会合だったかと、あたしは自分の座標を見失いかけている。そして敦子は、すべてを停止させている。

 ひさびさに、微風が頬を撫でた。凪いでいたのかも思いだせないけど、ひさびさであるように感じる、新鮮な風。

 そういえば、奥の和室から、もごもごと籠った声が重なりあって聞こえる。

 ふと壁にかかる四角い時計に目をやる。すでに9時半をすぎていた。

 再び視線を前方へと落とす。姿勢を固めつづける、ブレザの2人とワンピース姿の1人と和服姿の1人。

 ここ……どこだっけ?

 と、微笑を固まらせたままの美園ママの背後、開放されている引き戸の左はしで、こっそりとこちらを覗きこむ影が見えた。

 影と目が合う。合った直後、

「もう入っていい状態なのかな」

 低音で尋ねて、影が顔をあらわした。

 どこかで会ったことのある女だった。

 誰だったっけ?……考える間もなく、

「あぁ、恩恵ちゃん」

 我にかえって顧みる美園ママ。

 背後の「シエちゃん」になにやら耳打ちされると、彼女は、あ、ごめんごめん……早口の囁き声で応えた。葬儀の段取りか。

 それにしても、この黒ワンピースの女は誰だったっけか。どこかで、会ったことがある。遠くない、むしろ輓近のこと。

 その恩恵とやらがちらとこちらを見た。いかにも無愛想でクールなまなざしだが、煙たそうでもあって、あたしたちに好意を抱いているとはとても思えない。特には、どうやら敦子を睨んだらしく、でも即時に視線をそらすと、そらした流れで半回転、中肉の背中を向けてしまった。

 敦子とはまた違ったタイプの強気そうな恩恵に、まるでたしなめられでもしたかのように美園ママ、

「息抜きのつもりだったんだけど」

 円やかな苦笑いの顔で立ちあがると、

「なんだか白熱してしまったわね」

 腰に手をあて、ふっと短く息を吐く。

「でもひさびさに楽しかったわ。いつもは聞く側の立場ですもの、私たち。だから、たまにはねぇ?」

 すでに敷居を踏んでリビングを退室した恩恵の影を追うように、そろりと、彼女もあたしたちに背中を向けた。

 黒い背中。

 細くもなく、厚くもない背中。

 あたしの目には容赦なく母性的に映り、同時に、寂しそうな背中にも映った。

 だって“まなむすめ”が逝ったんだ。

 寂しくないわけがないんだ。

 母性的であるのならば、なおさらに。

「美園さん?」

 今まさに敷居を跨ごうとしている彼女を呼び止めたのは、先ほどまで停止していたはずの敦子。胡座のまん中に両手を置いて肩をすくめるポーズは、達磨大師みたい。

 彼女の呼びかけに、首だけをこちらへとふり向かせる美園ママ。

 無言の微笑み。

 思いかえせば、この気丈な人も、一昨日には倒れたんだ。

 なのに、今、こうして微笑んでいる。

「月乃さんの誕生花ってなんですか?」

 寝言のような声の敦子。

 気怠そうで、それも絵になる。

 喪服のマストモードに恋をしよう!……世間の倫理を挑発するトップコンテンツ、その1ページ。

「月乃の誕生花……」

 短いようで長い、息を止めたような間を置いて、ようやく美園ママが口を開いた。盤石だった微笑みをかすかに陰らせ、誰を見るでもなくまっすぐに目をやり、空想に耽っているかのようなまなざしで、

「……風鈴草」



 り ん



 まただ。

「ふうりんそう?」

 このごろ、よく聞く。

「7月10日の花で、花言葉は……」

 出どころのわからない、彼方の風鈴。

「感謝」



『あの、あの……ありがとう』



「そう」

 寝言の相槌が、敦子の喉から漏れた。

 ほんの一瞬の、風の音のようだった。

「風鈴草」

 ぼそりとそう重ね、彼女はわずかに顎を引く。項垂れたように見える。それとも、なにかを嚥下したのだろうか。頭に巣喰う単純な思いを、複雑な思いを、思い出を。

 あたしは、なにも嚥下するものがない。SOSかも知れない月乃さんからの電話を無視してまでして、自分自身の悲劇に浸ることのほうを選択した。仮に懺悔の言葉は反吐せたとしても、良心的に飲みくだせるものはなにもない。あるわけがない。

 敦子と同じようには項垂れられない。

 あたしが殺したのかも知れないんだ。

『ありがとう』

“無視”という、殺人と同じほどに残虐な仕打ちでもって、あたしが、風鈴草の音を汚してしまった。










歸命无量壽如來
南无不可思議光
法藏菩薩因位時
在世自在王佛所
覩見諸佛淨土因
國土人天之善惡
建立无上殊勝願
超發希有大弘誓
五劫思惟之攝受
重誓名聲聞十方
普放无量无邊光
无碍无對光炎王
清淨歡喜智慧光
不斷難思无稱光
超日月光照塵刹
一切群生蒙光照
本願名號正定業
至心信樂願爲因
成等覺證大涅槃
必至滅度願成就
如來所以興出世
唯説弥陀本願海
五濁惡時群生海
應信如來如實言
能發一念喜愛心
不斷煩惱得涅槃
凡聖逆謗齊廻入






















 棺が完全に閉じられる前の、餞の儀式。

 粧された月乃さんは月光のように白く、儚くも眩しく、とても幽艶で、菊花を手にしたあたしは、上手に覗きこめなかった。朗らかで、和やかで、情緒の塊だった月乃さんの、そのアイデンティティさえももう失われて物言わないただの尸と化している状態が、あたしへの見せしめに思えた。

“死”について、曰く「亡くなった・逝去した・お隠れになった」と、あたかもこの世界から存在しなくなったかのように表現されるのに、火葬に付されるまでは、こうやって“物”として存在している。風葬にいたっては、自然に還るまで放置される。

 亡くなったのに、無くなっていない。

 それが怖い。

 そうしたのがあたしなのかも知れないと思うと、弥がうえに怖い。責められているみたい。何者かの思惑が月乃さんの遺体というヴィジョンを見せつけて、暗に責任を問うているみたい。

 怖くて、申し訳なくて、複雑で、棺桶の中を覗きこめる心境ではなかった。だから目をそらして菊を添えた。

 敦子は、あたしのずっと手前で、身体を小さく畳み、棺に両手をかけ、無表情で、まじまじと月乃さんの顔を見ていた。その背後では、来瞳が難しそうな顔をしてた。初対面の月乃さんの顔を凝視して、もしや人となりを推理していたのかも知れない。それとも、敦子のいう“縁”とやらを咀嚼していたんだろうか。

 棺の前で、敦子も、来瞳も、そうやって必死になって“死”と向きあっていた。

 2人だけじゃない、みんなも同じこと。

 月乃さんの父親は、当初こそ毅然としていたものの、喪主の挨拶の途中から一転、涙が止まず、出棺の手前では、駄々っ子のように棺桶から離れられなくなっていた。

 月乃さんの母親は、葬式の始終、颯斗と笑う愛娘の写真を胸に抱え、瞼をぎゅっと瞑り、粘土細工のように丸くなって、誰の呼びかけにも無反応。餞のさいも力なく、周囲に支えられ、強制的に棺を覗きこむ。

 月乃さんの元カレらしい男性は、焼香のさい、しばらく祭壇にとどまり、無愛想な息子の背を抱きしめる笑顔を仰いでいた。それから、右の腕を顔にあて、左右に引きはじめる。まるで男の子みたいな泣き姿。

 あんなにも気丈だった美園ママは、式の途中、ついに箍が外れた。泣きじゃくり、抱えられて退場する一幕。餞に戻ってきてなお「月乃」と叫び、さすがに可哀想で、痛々しくて見ていられなかった。

 誰もが必死になって“死”と向きあい、必死になって“愛”と向きあう。

 だから、ようやく思ったんだ。

 こんなにも愛されているのに、愛されるままでいさせてあげられなくて、



 月乃さん、ごめんなさい。





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Nanase Nio




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