道化
偽りのカレンデュラ
それっぽいカバーオールだと、思うには思ったのだそう。でも、メールには紺色とあり、でも、この服が黒く見えたらしく、人違いだと自己完結していたのだそうだ。なるほど、湿気の宿ったこの衣装、黒だと表現したほうがスムーズにコトが運んだのかも知れない。
こんなことならば、衣装チェンジをしておけばよかった。もたついた序盤のせいでいまだに緊張が解けない。
昌 範
Section 4
道 化
ドウケ
「ホンっトに細いですよね?」
珈琲にミルクを溶かしつつ、眉間に皺を寄せて月乃さん、
「羨ましいですよ、雨音さんのその細さ。わけてほしいぐらい」
まくしたて、しばらく考えて、
「いやいや。違う違う。わけてあげたい、ですよね。わけてもらってどうすんだこれ以上はいらないのに贅肉なんて」
物凄い早口で笑った。
あたしがなにもいえないでいると、
「でも、あのぅ」
間をつなぐように、しかし、
「あの、よかった……出会えて」
つなぎきれずにフェイドアウト。苦笑のようなはにかみを浮かべて目を伏せた。
月乃さんも緊張しているらしい。そして彼女は、あたしとは逆に、緊張するととりあえず喋ろうとするタイプらしい。すぐに顔をあげて、
「あの、ここでよかったんですかね。私、ここしか知らなくって新宿っていったら。もし雨音さんのオススメがあるんでしたらそっちに……って、雨ですもんね。今さらですもんね」
ちらと窓を見、うふふと力なく笑う。
「いえ、ここで、ぜんぜん……」
あたしも精一杯に応える。でもやっぱりあとがつづかずに沈黙。
大人のカフェが裏目に出ている。原宿や渋谷のほうがまだよかったかも知れない。テーマに似合う場所ばかり優先しといて、肝心のお店を月乃さんに頼った己の弱腰が悔やまれる。
同日 〜 2010/06/20 [日] 10:16
東京都新宿区西新宿
Loafaway
都庁方面に5分ほど歩いた場所にある、落ちついたオープンカフェ。
【Loafaway】
厳密には、落ちついていると大多数から評価されるのだろうオープンカフェ。
だってこんなにも落ちつかない。落ちて着いただけのあたしには、評判に足並みをあわせられる青写真がない。この景観の、どうしたって経験不足なあたしはただただ怖気づき、経験に足るオブジェを探すしか手立てがない。
規則性もなく並べられた丸テーブルは、不幸中の幸い、ほんのわずかしか埋まっておらず、都会にしては珍しいオレンジ色の灯を盤上に馴染ませている。木目調の壁の所々にもオレンジ色は宿り、もしもここに煖炉が加われば、ようやく“落ちつき”が強引さを発揮するのだろう。でも、発揮はさせない。来客の持つ感受性の自由を尊重するような、まさにオープンであるためのスローガンをひしひしと感じる。
壁に点在する複製画もまた、考古学的な意味で、観賞者にレビューを強要させない類いのものなのだろう。実際、あたしにはあろうがなかろうが変わりのない存在感のようにおぼえる。確かに、あたしは芸術に明るくないけど、芸術が万人のものである以上、存在感に薄いとするあたしの印象もきっと正しい……そんなカフェであろうとする印象もだ。
ただ、流れている音楽だけはもっと強要してもいいように思う。ジャズらしい音楽とはわかるものの、開放されたバルコニーへの通用口、容赦なく侵入してくる都心の交通渋滞が、雨音の高周波とコラボレイトしてカオスな前衛芸術と化している。絶対音感の持ち主には優しくないんだろうな。どのみち今日はバルコニーの需要も低いんだろうし、いっそクローズドカフェに方針転換したって支障はないはず。
……いけない。ヒネくれてる。
月乃さんの紹介したお店だというのに、そして依存したのはあたしのほうなのに、善良な性分を押しだそうとする人見知りのプレッシャーに敗れ、悪辣さでバランスを謀ろうとしてる。
まだ善良にもなれていないのに。
窓際の角の席に向かいあわせをキープ。月乃さんは珈琲で、あたしはカフェラテ。でもお互いのカップは成就の兆しさえ与えられていない。たかが飲むという行為に、厄介な条件が山ほど付随している。
入店早々に「今日って蒸しますよね」といって月乃さんは花柄を脱いだ。まばゆい赤紫のタンクトップがお目見得。丸い肩、そして隠しきれなかった豊満な胸の谷間が露になっている。
なるべく見ないようにしながら、だけど羨ましかったりする。
「ていうか」
まだ珈琲をかき混ぜながら月乃さん。
「雨音さん、で大丈夫ですかね?」
「え?」
「雨音さんの、その、お名前って、その、本名ではない、ですよねたぶんきっと?」
ミリ単位で黒目を泳がせて上目づかい。もう混ぜる必要もなくなったブラウンの、波間に泳ぐスプーンも忙しい。
「本名で、あの、いや、本名だとやっぱ、なんかこう、色々とありますよねやっぱりプライバシー的に」
「的に」のあとに「いひ」と自嘲をこめてお茶を濁す。
「あ、いえ」
あたしも精一杯に、
「月乃さんの、呼びやすいように」
アンドロイドみたいに平行な抑揚。
「あたしも、月乃さん、と、お呼びして、いい、ですか?」
うんざりするほど低い声。そして痩せたボリューム。わずかに前のめりで、しかしあからさまに真摯な聞き耳を立ててくれる月乃さんにますます自己嫌悪。語尾がなおさらに低く、痩せて萎んだ。
いっそ、ストレートに本名を尋ねられたほうが応えやすかった。もちろん初対面に適う質問でもなかろうし、でも現実世界にまでペンネームを持ちこむことを好むのかどうかなんて十人十色だし、つまり、月乃さんの問いかけはまったく正しい。だからつまり、アンドロイドなあたしが悪い。
なのに、気さくな月乃さん、
「もちろんですもちろん。そりゃあもう、なんとでも。月ちゃんでもツッキーでも、雨音さんの、あの、呼びよす……」
ぺしッ。軽く自分の頬を叩き、
「呼びやすいほうで、噛んだあはは、呼びやすいほうでお願いしますぜんぜん大丈夫ですんで私は」
んふふ……とふくませて締めた。
見た目も、雰囲気も、声も、まだ10代のように感じる。プロフにはもうすぐ30歳とあったけど、あたしよりもほんの少しだけお姉さんのように感じる。なにより、この女性に小学生の息子さんがいるだなんて、とても思えない。とても信じられない。
ひとりの男性の精子を受け入れ、育んでいるようには、とても。
ああ……愛する人に触れられたんだ。
そしてその胸を、授乳に捧げたんだ。
羨ましくて、哀しくなった。
だから、
「今日、息子さん、は?」
現在を尋ねた。
「はい?」
はたと、スプーンの右手が止まった。
釣られて、その人さし指に目が落ちた。
短く切られた、爪。
衣装の朗らかさとは不釣りあいなほど、特に彩りもない、素気ない生爪。
オレンジにわずか照らされ、爪の平には幾筋かの縦線も走って見えた。
なんだか、乾いた爪。
なんだか、枯れた爪。
なんだか、老いた爪。
逆剥けまでもが、幾筋か。
「いえ、あの、今日、日曜日ですし」
そう這わせながら強引に視線をあげる。
なぜだか笑顔が凍りついている。大きな瞳が大きいまま、点になっている。
「旦那さんと、お留守番、とかですか?」
躊躇いながらも義務感で尋ねると、月乃さん、ほんの一瞬、向かって左へと黒目を弾いた。が、すぐに取り戻して、
「そう……ですね、はい。あの、のんびり家で、はい」
凍りついた笑顔を縦に忙しくうなずかせながら、さらに左手で忙しく顎をさする。こちらの指にも装飾は見られない。
よくよく見ると、重度ではないにせよ、顎に頬に額に、いくつかのニキビが浮いていた。ファンデーションでは誤魔化しきれなかったらしい、彼女に似つかわしくない丘疹。
……あ!
口を半開きにして、思わず息を飲んだ。
左手。
薬指。
結婚指輪が、なかった。
踏んだ!
地雷!
しかもいきなり!
にわかに焦るあたし。
「もう4年生ですもんねお留守番ぐらいはできますよね」
月乃さんのような早口でまくしたてる。遊園地のティーカップさながらに目の前がぐるぐると回って、情報処理ができない。たぶん異様に目が泳いでる。
いや、無論、わからないけど。離婚していなくとも、指輪をはめるのを毛嫌いする人ぐらいはいるだろう。結婚指輪が万人のロマンである時代ももう終わりつつあるんだろうし。
結婚指輪の有無と婚姻の有無は、たぶんイコールじゃない。
というか、そうであってほしい。
互いに、えへへ、うふふ……声帯だけで笑いあう。きっと月乃さんのほうが上手に笑えてるはず。実際、すぐに彼女のほうが別の話をふってきたのだが、あたしの鼓膜には詳しく響かなかった。梅雨の鬱陶しさとか、今年の夏が暑くなるかどうかとか、でもなかなか痩せられないとか、恐らくは当たり障りのない話題を提供してもらえたはずなのに、細部はシャットアウト、相槌にもなっていないような深呼吸をおかえしするばかり。しかも、磁石のように視線が左手の薬指に吸い寄せられる始末。
気がきかないくせに、なんで薬指の一点には気づけただろう。人生、どこでなににつまずくのかがわからないから恐ろしい。
それから10分も、月乃さん主導の身軽な話題に軽はずみな吐息をかえしつづけた。胸裡では呆れているだろうに、月乃さんは止め処なく、次々とつながりのない話題を提供してくれた。そしてますますあたしは自己嫌悪に陥って静かになり、愕然とすることに、いつの間にかカフェラテが半分に減っていた。
もはや、本題に入るタイミングがない。悪夢を見ている現状すら忘れかけている。なんのためにこうして会ったのか、たぶん月乃さんも見失いかけている。
仲介役に来瞳がいてほしい。あの子なら強引にでも核心へと誘ってくれるだろう。だって、いきなりプリン、届けてくれた。
「でも雨音さんって」
ひさびさに名前があがる。あたしだとはすぐに気づかなかった。
「落ちついてますよねぇ?」
「あ、あたしですか?」
「なんていうのか、ムダな動きがないっていうか。私なんかもうムダすぎて二度手間ばかりになっちゃって。歳なんだから落ちつけってよくいわれるんですよね、余計なお世話だよって話ですよまったくうふふ」
壊したくない気持ちが、所作からムダを省いているのだろう。つまりは、動けないだけに、ムダばかりだといえる。
「でも、月乃さんも、お若い、スよ」
オチのない褒めあい合戦になりはじめていると途中で気づいたが、さすがに声帯は急には止まってくれなかった。
「あたしと、そんなに、変わんないス」
実は失礼なことを口走っていると途中で気づいたが、やはり止まらなかった。
「息子さんが、いらっしゃるとは、とても思えないス」
ただの偏見だと途中で気づいたが、もうどうにも止まらなかった。
「あたしには、まだ……」
母親になるなど遠くおよばないことだといおうとしたが、なぜかここで止まった。
理由は明白だった。
「つき、の、さん?」
丸められたカーペットを勢いよく広げたように、月乃さんの左目から涙がおりた。即座に、隠すようにうつむくも、右に左、ひとつずつ雫が落ち、慌てたように右手の甲で拭った。ごめんなさい……吐息だけの謝罪も落とす。
うつむいたまま肩を縮こませる。懸命に涙をこらえているようだった。でも、鼻を啜り、吐きだす息が細かく震えた。
絶句するしかなかった。
泣くとは思わなかった。
……あたし?
あたしがそうしたの?
なんで?
どこで?
唖然としていると、おもむろに、両手で顔を覆って天を仰いだ。
祈りに見えた。
ふと、ジャズが耳を打った。タイトルはわからないなりに、メロディを感知した。なんだかイヤな予感がした。聞きたくない話をされるのではないか……そんな予想が胸中を占め、本能的に、逃げの予備動作を取ったようだった。
それなのに、
「なにが、あったん、ですか?」
尋ねていた。なにかが月乃さんに起きていることはすでにわかってる。あたしにも起きている。だからこうして会っている。問題なのはそのナニカで、それを確かめるために会っている。
願わくば、確かめたくないこと。
有耶無耶にしてしまいたいこと。
でも、こうしてわざわざ出会った以上、いずれは確かめなくてはならないこと。
逃げきれなかった。
ひとつ唾を飲みこむと、月乃さんは顔を覆ったまま、祈ったまま、静かに告げた。
「息子は……死にました」
月乃さんからの訪問がぱたっと途絶えた時、あたしは確か、こう思った。
“息子さんになにかあったのでは”
悪夢を見はじめてからはもう月乃さんの安否どころではなくなって、ひさしぶりの手紙があってからは、安堵感が先に立ち、やっぱり安否どころではなかった。
いや、自分こそが悲劇のヒロインだと、思いたがっていたのかも知れない。だから月乃さんの身にも悪夢が降りかかっているらしいとわかってなお、四方山話のふうを予想していたのかも知れない。少なくとも“あたし以下”ではないはずだと。
背筋が、凍ったようだった。
「神などいない、人はみんな平等だって、ずっと思ってたのに……」
いまだに顔を覆ったまま、やはり祈りのようにつぶやいた。そして、うぅぅぅ……キーの高い、でも、か細い嗚咽をひとつ、静かに漏らすと、両手を外してテーブルの下へと仕舞った。
涙のラインだったものがひしゃげ、白いチークに不利益のカラーを広げていた。
「息子は、颯斗は」
濁ったフルート。
「悪夢のとおりになりました」
途端に、あたしの喉から大きなため息が這いあがり、重たく卓上へと落ちた。
ご ぢ ょ ご ぢ ょ
「悪夢の」
譫言のような音も、あとを追って出た。
「悪夢の、とおり?」
「霊安室にいたのは、私でした」
卓上をまっすぐ凝視したまま、ぐづっと鼻水を啜って、
「颯斗にではなくて、医者の、白衣の裾にすがりついて、半笑いで颯斗を指さして、元気だった、今朝までは元気だったって、必死にアピールする……そんな悪夢です」
語尾を掠れさせると、唇を硬く尖らせ、拗ねたような顔をした。肩が細かく震え、耐えているとわかった。でも、肩の震えにうながされ、ふっ、ふっ……断続で吸気の嗚咽。
「ただの、夢だって、思ってて」
ぽろっ。こらえきれずに同時に落ちる。
「普通に、してたのに」
だけどもう、拭いもせず、
「病院から、電話が、あって、行ったら」
顔の筋肉を強張らせ、まるで、
「はや、と、颯斗が、死、し、死ぃぃ!」
笑顔のような顔で、また天を仰いだ。
椅子の背もたれに力なく寄りかかると、ゆっくりとうつむいた。両手を拳にして、ボクサーのファイティングポーズのように目線まであげ、そのままわなわなと激しく全身を震わせながら、額をくしゃくしゃにしながら、
「いぃぃぃぃぃぃ!!」
壊れたフルートで号泣した。
……ちょっと待ってよ。
あたしも、こんなふうになるの?
いや、こんなふうにしちゃうの?
ママを。パパを。来瞳を。ナオを。
ウソでしょ?
ぜったいウソだよ。
そのまま両手をテーブルの上に這わせ、額を押しつけ、やはりこらえきれず、月乃さんは忍べない号泣を吐きつづけた。卓を爪で引っかきもした。断末魔だった。
ウソだよ。
ホントに?
ホントに、こんなふうに
「あのぅ、お客様」
はッとふりかえる。黒いコスチュームに包まれたふくよかなウエイトレスが、顔を強張らせ、半笑いの低姿勢で立っていた。
「どうかされましたか?」
カチンときた。ドウもコウもと思ったらたちまちに腹が立った。だって、どのみち説明したところでわかるわけがない。仮に判ったところで、解るわけがない。
この苦しみ。
この焦り。
この情けなさ。
この女にわかるわけない。どうせわかるわけないんだから、気がすむまで泣かせてくれればいいのに、サービスだかなんだか知らないけど、間に入ろうなんてお門違いにもほどがある。
ただ追い払いたいだけのくせに。
「仲介は不要です。心の問題です」
頭の芯が燃えるあたし、そう制して立ちあがった。対面へと回りこみ、月乃さんの肩を取る。
「とりあえず出ましょう」
ごめんなさい、ごめんなさい……嗚咽に謝罪を滲ませながら、力なくあたしの脇にしがみつく。月乃さんの手荷物を持とうとするウエイトレスを容赦なく遮って抱え、もはや制禦をなくしてただ震えるしかない小柄な身体を、引きずりながら出口へと。
疎らながら、奇異の視線が突き刺さる。
普通じゃないと、みんなで差別してる。
あんなにもほしかった差別なのに、いざ受けてみれば、腹が立つだけだった。
前払いなのにうっかり財布を出しかけるほど動揺していたが、残りわずかな理性を頼りして店を出る。月乃さんは、しきりに謝罪を漏らしている。だけど、あたしには上手に慰める技術も余裕もない。
ほぼ担ぐようにして、右脇に月乃さん、左手に傘をさげる。そして……雨の中へと躍りでた瞬間だった。
ご
ぢ
ょ
頭がまっ黒に切り替わった。
まるで、テレビの電源が落とされたかのような、刹那の出来事。
すぐに、まっ黒な頭の中心に、
ご
ぢ
ょ
ご
ぢ
ょ
いつも以上に巨大な、蠢動。
「うあ゙ぁぁ!!」
ガナった悲鳴が、喉から出てきた。
なぜ叫んだのか、わからなかった。
でもあたしは、
「うあ゙!! うあ゙ぁぁぁ!!」
何度も、唸るような悲鳴をあげながら、咄嗟のように、発作のように、月乃さんを突き飛ばしていた。
雨の歩道、平坦とはいえない都会の大地へと投げだされる小柄な身体。自分の意思ではなく、あたしの手によって、無惨にも転がされた。
なのにあたしは、
「はぁぁ、はぁぁぁぁ」
腕組みで身体を抱え、でも震えが止まらなくて、地震のように視界がブレて、足が支えにならなくて、どんどん、新宿のビルたちが斜めに傾げ、白いガードレールに、手すりを求めるように、よたよた、でも、ぜんぜん届かなくて、だから膝をついて、膝に痛みが、ああ、カバーオール、こんな膝のつき方じゃ、膝が、破れる、壊れる、壊れる、壊れる、お気に入りが、あたしのお気に入りが壊れ壊れ壊れ壊壊壊壊
「おるろ」
四つん這いのまま、茶色いひと握りを、吐いた。
痛みも、苦しみも、なかった。まるで、プログラムされていたかのようだった。
ただ、唯一、右の脇腹に染みついていた温度が、融けそうなほどに熱かった。
月乃さんの、体温が。
すると、間を置かず、
「あま、ねさん? 雨音さん?」
フルートが近づいてきたと思ったら、
「どうしたんですか!? 大丈夫ですか!?」
背中に、小さな掌の体温。
いや、瞬時のことなので、実際には体温ではないのだが、遅れて体温が染みてくる予測が、五体を惨めに衝き動かした。
「だ、だいじょぶ、大丈夫、ですから!」
飼い主の悪戯をすり抜ける猫の挙動で、小さな掌から逃げた。
「ぜんぜん、大丈夫、なので」
声が裏返る。息も苦い。吸ったことないけど、焼いたミントを吸ったみたいに喉がすーすーと、でも、いがらっぽい。
この一瞬で、体力のほとんどを使ったとわかる。立ちあがって気丈さを見せようとするも思いどおりに肉体のコントロールがきかず、つんのめるようによろけてガードレールに覆い被さった。それはあたかも、エレベータホールと恩田病院との連絡口でキジを演じた時のよう。
この体勢はマズい。また触れられる。
背筋がごぢょごぢょと気持ち悪い。虫が繁殖しすぎて、だから力が入らない。
「でも、雨音さん」
怯えたフルートが覚悟の速度で近づく。
触れられる。
こっちはまだ覚悟できてないのに。
覚悟しても吐くほどなのに。
ふと、ナオとのキスを思いだす。
白のまぶしいナオの部屋。今日こそはと勇んで遊びにいったのに、いざ唇が触れた途端、頭がまっ黒になって、黒猫の挙動、だけどコマ送りの視界、ほとんど無意識でトイレに駆けこみ、あたしはすべてを吐きだしてしまった。
便器と向かいあわせになり、つくばり、震える身体を抱きながら、静かに泣いたんだっけ。
絶望が、情けなくて。
ちゃんと、覚悟したつもりだったのに。大城舞彩をすべて捧げるつもりで、勇んだはずだったのに。なのに身体は……脳は、愛する人との次の一手を奪取した。胃の中まで搾取して、望まない薬品の匂いに整頓されたトイレで、小さくつくばらせた。
覚悟した結果がそれだった。
「あたし体温がダメなんです!!」
力をふり絞ってガードレールをおりる。そして、背もたれにすとんと座りこむと、ひしゃげた声で月乃さんに訴えていた。
「体温が、怖いんです!!」
ぶわっと涙が溢れ、すぐに雨に溶ける。でも苦くて、苦しくて、情けなかった。
「わからないとは、思うんですけど……」
やや前屈みに立ちつくす月乃さんの丸い顔。口を半開きにし、あたしの訴えを飲みこもうと思考をめぐらせているとわかる。
赤紫のタンクトップはすでに紫紺の深みへと染まり、毒気づいて華やかさなど見る影もない。その背後、濡れた大地に散った花弁と、まとめて墜落した月夜……どれもあたしの傲慢な戯れがしでかした。大切な者を喪失した月夜さんの、大切な物を。
これであたしは、まだ悲劇のヒロインを嘯こうというのか。
カフェの出入口、数人のウエイトレスが硬直して事の次第を見つめている。店内の様子は不明瞭ながら、きっと、お客もまた奇異の目を注いでいるのだろう。
ピエロだ。
滑稽だと思うほどに背筋から虫の群れが剥がれていく。それに乗じて立ちあがる。
「ワケあって」
恥だ。恥ずかしい。
「あの、あたし体温が怖いんです。恐怖症なんです。なのに、なんか、あの、あの、突き飛ばして、ホントにごめんなさい!」
「体温」
上の空のような虚ろな顔で、月乃さんは語尾を遮った。そしてぽつぽつとこぼす。
「私は、息子の……颯斗の身体に触れられませんでした。死んでいるなんて信じられなくて、それなのに、触れて確かめるのが怖くもあって。普通は、すがりついて号泣するものなんでしょうけど、触れるのが、怖くて、ホントのホントに死んでたらどうしようって、だから崩れ落ちたまま、白いシーツを、目隠しを、ただ泣いて見ているしかできなくって」
自嘲の顔へと変化していく。
「年々、私に触れられるのを嫌ってく息子でした。私が甘えようとすると、キモいよやめろよって逃げるんです。また反抗期に入ったのかなって、でも、触れないでいることができなくて、でもあの日にかぎって触れられなくて、颯斗を小学校に行かせてしまって、で、夕方、夕方、に、なって、颯斗は、颯斗はたぶん……」
笑い顔のまま、泣いていた。
「たぶん冷たくなってました」
触れられなかったのか。
お腹に宿した子なのに。
母乳を与えた子なのに。
愛しとおした子なのに。
その体温に。
目的地の知れない自動車の群れが背後を疾走する。雨のヤスリをタイヤに滑らせ、それなのに遠慮のないスピードが、無惨な可能性を司っている。もしも体温のために走らせたこれらの末路に、体温を喪失する結果が隠されているのだとすれば、彼らはなにを昇華させようとしているんだろう。
生きていたいと思わずにいられる時間のことを「人生」というのだろうか。
「行きましょう、雨音さん」
前屈みの膝に両手をあてて、月乃さんは穏やかな微笑でうながした。まるで、疲れきった顔にも見えた。
「もう絶対に触れませんから、とりあえず行きましょう」
ちゃんと落ちつけるとこに……といって踵をかえすと、ウエイトレスたちに一瞥の首もなく、コートやバッグや傘を拾った。そして再び戻ると、開きっ放しのあたしの傘を目の前に掲げる。
「風邪、引いちゃいます」
づ。鼻水を啜りながら。罪悪感が募る。
震える膝に鞭をつけて立ちあがる。なるべく月乃さんの手に近い把手を受け取る。すると、彼女は小走りに店先へと向かい、何度も頭をさげてウエイトレスに謝った。ごめんなさい汚してしまって。すると奥にいた男の「どうせ雨だし」と穏やかに労う台詞が聞こえた。シルバーの髭を蓄えた、たぶんカフェのマスター。
あたしがやらなければいけないことを、すべて月乃さんがやってくれた。本当は、それどころではないはずなのに。
手際よく身形を整え、ようやく三日月の傘を開くと、
「行きましょ?」
寝起きのように力ない笑顔を浮かべた。
あたしも店先に深く会釈。そして、もときた道を引きかえした。月乃さんを先頭にして、3歩後ろをついていく。
「別に、気にしないでくださいね」
精一杯、声を張りきる月乃さん。
「恐怖症なのに、犠牲にして、私の身体を支えてくれたことのほうが嬉しいんです」
犠牲……じゃない。ヒステリーが病気を麻痺させただけ。
途中、缶のお茶を奢ってもらった。口と胃とを潤す。
「色んな人がいるんだなぁ。なんか勉強になります。たくさんの人にできることが、できない人だっているわけで。でもそれはあたり前のことで、でも、あたり前なことほど盲目になるっていうか」
十把一絡って発想は罪ですね……笑みを滲ませる。
恐縮のあまりなにもいえないでいると、
「身体、大丈夫ですか?」
わずかにふり向いて尋ねる。
「待ちあわせの時もくしゃみ、してましたけど、もしかして雨音さんって、もともと風邪を引いてらっしゃる、とか?」
「いえ、ぜんぜん、大丈夫です」
「でも、このままだとホントに引くかも」
そういってカゴバッグを漁る。その腹の所々に黒い染みが浮かんでいる。ますます罪悪感が募る。
携帯電話を取りだし、慣れた指づかいでどこかにコールしはじめた。
「あ、ママ? 私です。はい、なんとか。あ、ありがとうございます。それであの、ママは今、あの、ご自宅ですか? ああ、もうお店ですか。早いですね。はい、そうなんです、今、近くにいまして。ちょっとあのぅ、実はあの、雨宿りを……えへへ、ちょっとでいいんですけど、はい」
雨宿り?
甘えた、でも、ほっとしたような憩いのフルートを受話器に奏でる。あははは……大きく笑うと、余韻を包むように、優しく電話を切った。
もとに仕舞いながら、
「私、あの、少し前なんですけど、わりと長いことホステスをやってたんです」
あっけらかんと、
「その時にお世話になっていたママさんが歌舞伎町に住んでるんですけど、関係者であればOGでも普通に宿泊できるぐらいにオープンなご自宅で。ママがいなくても、承諾さえ得られれば普通に入れるという」
姐御肌なんですよ……笑う。
「ママ、今日はもうお店に行ったきり帰れないみたいなんですけど、自由にしていいみたいなんで、寄らせてもらいましょ?」
最初っからママん家にすればよかったのかな……後頭部を傾げた。
あたしはもう、どこでもよかった。
そして、吐きだそうが吐きだすまいが、それさえももう、どちらでもよかった。
いや、どうでもよかった。
≪
37
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Nanase Nio
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