偽りのカレンデュラ 



『かなえののろいなんかに……』

 機能していなかったはずの聴覚がなぜかコイケアツコのつぶやきを捕捉した直後、あたしは目を醒ました。

『カナエの呪い』

 それがなにを指すのかはわからない。

 悪夢がそうなのか。

 他になにかあるのか。

 でも、それどころじゃなかった。

 絶望だけだった。

 究極の絶望だけ。





月 乃
Section 1
虚 無キョム





 渋谷が、動いている。

 都会の人間は、決して立ち止まらない。立ち止まった途端に死んでしまうといわんばかりに、心肺が機能するかぎりに延々と歩きつづけている。しかし、もしも仮に、人間もまた立ち止まることをする生き物であるのならば、今、継ぎ目もなく流動しているように見える渋谷は、人々の継続的な闊歩で成り立っているものではなく、渋谷そのものの流動によって成り立っているのかも知れない。あたかも、動く歩道ならぬ“動く渋谷”のベルトの上をさも活動的なふうを装う人々が乗っているかのように。

 実は、そんなマトリクスにあたしたちは支配されているのかも知れない。

 伸びるべくして道は伸び、建つべくして店は建ち、消えるべくしてビルは消える、そんな、都会に眠る運命の意志に誘われ、しかし自分の意志と力で切り開いていると錯覚し、自分のものだと錯誤し、泣いたり笑ったりと錯綜し、つまりは操作されて、実際には停滞したまま人間は生きている。そういうものなのかも知れない。

 こうしてナオと並んで歩いているのも、もしや大地の創世期からすでに決定されていた、運命の歯車によるものでしかないのかも知れない。


2010/06/30 [水] 15:13
東京都渋谷区道玄坂2丁目
スクランブル交差点の付近


 生前葬のような生活へとスイッチした。望んで切りかえたわけではないが、もはやこうするしかなかった。こうするより他に術がなく、知恵がなく、勇気がなかった。

 死ぬまでのわずかな時間を、愛する人と一所懸命にすごしていよう、あわよくば、愛する人の体温に触れられるようになってみよう……そう思うようになっていた。

 悪夢には感謝してる。だって、明らかな目標ができた。

 今までの、終日まで几帳面に受けていた授業はもう価値をなくし、だからあたしのほうが進んでナオをサボタージュに誘っていた。今、この一瞬を生きるより他に術のなくなった者にとって、未来を前提にした授業なんて時間のムダだとついに悟った。でも、両親を困らせるのも気が引けるし、いちおう学校には通っている。通っているように見せかけている。この忖度こそが、あたしにできる最初で最後の親孝行だと、妥結的に思いこんだりしている。

 ああ、いや、ナオには未来があるんだ。確かな未来が。少なくとも、あたしなんかよりも遥かに前へと伸びる未来が。

 ナオの未来を侵害する権利が、あたしのどこにある?

 でも大丈夫。ナオだったら挽回できる。まだ高校2年生だし、梅雨時だし、焦りをおぼえる時期としては時期尚早。大丈夫。ナオだったらまだサボっても大丈夫。

 悪い女……自己軽蔑するあたしの横を、次々と、もう何日も校門をくぐっていないだろう高校生たちがとおりすぎる。うちの何人かはいちおうブレザで全身を固めてはいるものの、あくまでも武装にすぎない。職務質問されて、理解力のあるふうを装うことによってコミュニケーションの能力を高めようとする道具でしかない。または、大人たちを下卑た存在に仕立てあげようとする神聖なパーテーションでしかない。

 彼女たちに生産性のある目的地はなく、このあと、仲間を募ってコンビニの軒下に座りこむ予定なのだろう。今、この一瞬を生きていると信じるための草の根運動へ。

 んなワケない。

 例えば、目標のある行動だけを生産的な人生だと決めつけている大人たちに対して「目標を持たなきゃダメなの!?」と叛旗を翻し、あえて堕落の畦道に座りこんでみたところで、実は充分に生産的な未来志向の行動になっている。未来を意識し、未来にリンクさせようと労働している。だって、真に堕落している人間は、わざわざ渋谷を闊歩しない。ブレザで武装し、飾り立て、大声で叫くことをしない。ましてや大人に嫌われることを名誉に思うことなどない。

 一瞬を生きていたら、そうはならない。

 明日、死ぬ……そう確信しながら生きている人間はここにはいない。だからみんな怠惰な笑顔を浮かべている。時間にムダを注ぎ、有意義に育てている。

 己の“死”を知らない証拠。

 未来を頭に置いている証拠。

 あたしにはもう、叶わない。

「日本人って、傘をさす民族だけどさぁ」

 無手勝流では我慢しきれなかったのか、バックパックから取りだした大学ノートを団扇にしながら、涼を取るナオ。

「雨が降ってアブれた人ってどこにいくんだろうね?」

「ふふ。どういう意味よ?」

 ついに夏がはじまったらしい。いつにも増して蒸し蒸しとして、ブレザが重たい。

 わずかに水色の覗く空。でも、覗き見が世間に告発されることはたぶんない。雲の厚みはとても悪質で、隠蔽体質の改善には充分な時間を要すると素人目にもわかる。面の皮の厚い、悪徳政治家の盗撮。

「だって、傘って幅を取るでしょ。例えばこの交差点の収容人数を100人として、仮に100人がいっせいに傘を広げたら、絶対に何%かの人は弾きだされるよね?」

「100人全員が雨天決行で臨めばね?」

 とはいえ、ハチ公の控えるこの交差点を未来へのスタートラインと位置づけているすべての人が、天を仰ぐナチュラリストであるはずもない。最新音楽情報を網羅したパブリックヴューイングの鼻先でぱたっと仰ぐのをやめている。その上の世界なんて実在しないとでもいわんばかり。

 なるほど、上を向いて歩いていたら前進できるはずもない。危なっかしい。

「自宅待機も増えるんじゃない? だって雨なんだし。要するにアブれた人は自宅で大人しくしてるってことよ」

「ああ、なるほど」

 天を仰ぎもせず、まっすぐと前に視線を伸ばすナオについていく。意図不明瞭な、天然な彼の話題に逆らわずに応えていく。未来のないあたしにできることはたったのそれだけで、平和なひと時を……不幸中の幸いをじっくりと噛みしめる。

 そしてあたしは、おもむろにこういう。

「ていうかさぁ、パストラミ、食べたい。もしくはケバブでもいい」

 特にお腹はすいていない。でも、あえて提案。するとナオは、予想どおり、

「肉を食べたいわけだ」

 ちらとあたしを見て、ほんのり、呆れたような笑みを寄越した。大学ノートの扇を休めることなく、すぐに前を見ると、

「タワレコに行ってからね?」

 本格的な空腹を迎えるための、軽労働を提案に挟んだ。あたしも、そうやって勝ち取ったランチのほうを愛したかった。

 趣向の一致が、こんなにも愛しい。

「えぇぇ。タワレコ、遠い」

 歩いて10分もかからない。

 当然、あたしの愚痴をスルーして、

「で、表参道まで行って、食べる」

 にやにやしながら茶化すナオ。

 当然、愛しさに肖るあたしは、

「表参道なんかにパストラミのお店なんてあんの? 表参道なんかに?」

 罵ってみせる。

 当然、ナオは、

「なんでそんなにランキングが低いんだよ表参道」

 ぼそっとつっこむ。

「表参道なのに」

「だって表参道だよ? たかが表参道」

「じゃあ、東京って思えばいいじゃん」

「広いよ」

「そう思えば、店はどこかにはあるよ」

「歩いて探すの!? 日が暮れるよ」

「探さなくてももう暮れる時間帯だよ」

「途方に暮れる」

「道はどこかにつながってる。なにもない道は存在しないから、途方には暮れない」

「ああいえば」

「こういう」

「ああいわなかったら?」

「いわせる」

「サギ師!」

 と……予想もしない出来事が起きた。

 バカにした矢先に、ナオの左の肩を、



 ぱ し っ



 叩いていた。

 無意識だった。

 今まで、叩いたことはなかった。べつに体温を感じるほどのことでもないのだろう瞬間的なコミュニケーションなんだけど、スキンシップに発展するのが怖く、叩けたことがなかった。

 初めて叩いた。

 初めてだから、思いの他に力強く叩いてしまった。

 ハリのある乾いた破裂音が鼓膜に新鮮な驚きを響かせ、体温こそ感じないものの、それは神経を伝って掌を痺れさせ、さらに伝って鼻息からリズムを奪った。あまりに無謀なチャレンジだったと、刹那に悔やむほどのインパクトだった。

 未来がないというだけで、こんな暴挙に出られるとは。

 ああ、やっぱり本当に来年、あたしって死ぬんだな……と、なぜか思った。確信を深めたような気がした。

 会話の流れ上、あたしは、笑顔だったと思う。でも、ただ単純に、笑顔しかつくれなかったというのが真相。たとえどんなに辛くても、どんなに苦しくても、どんなに切なくても、悲しくても、淋しくても……キスの尾をはねのけてトイレに逃げこんでしまっても、ナオを傷つけたくなくって、傷つけた傷が怖くって、絶えず笑顔を固めつづけてきたのだから。

「……詐欺師」

 笑顔を固めたまま、喧騒に溶ける小声で視線をそらした。びっくりした、目を丸くした彼の表情が網膜に焼きついて、咄嗟にそらしてしまった。だって、怖かったし、気恥ずかしかったし、淋しかった。

 未来がないから、叩けた。

 だから、驚かれた。

 普通だったら、もっと早くになしとげていただろう、他愛ない愛情表現。なのに、恋人同士のくせに“普通”が叶わず、今になって達成して、しかも驚かれる。

 淋しい。

 こんな淋しいことを、あたしはずっと、つづけてきたのか。せっせと外周を固めて繭を築いてきたのか。中身のない愛情を、あたかも普遍の光景のように思いこんで、大切だと称して、こつこつと培ってきたというのか。

 背水の陣が“普通”を呼びこみ、そして驚かれる。

 淋しい。

 そうさせた自分が、淋しい。

 罪悪感。

 愛する顔を見ていられない。

 淋しい。

「……傷ついた?」

 視線をそらしたままに問う。でも、声は出なかった。声帯の手前でつかえて、声が肺に落ちた。相方を失った吐息が、虚しく舌を滑るだけだった。

「……傷ついてた?」

 声にならないどころか、もう、唇さえも動かせなかった。

 虚しい。

 泣きたい。

 そして、泣きたいと思うほどに、笑顔がまだ固まっているとわかった。

 泣く準備も整わない。

“偽り”だらけ。

 肩を叩けた“本音”を、喜べなかった。

 その、一瞬の奇蹟に甘んじることなく、まだあたしは偽ろうとするのか。本音を、体温を恐れているというのか。傷つけたくなくて、傷つきたくもないのか。

 ナオを置いて先立つのに。

 未来など、もうないのに。

「……詐欺師」

 もはや、舌の根も動かない。偽りのためならば、この身体はもはや毫も動こうとはしないんだ。

 ああ、終わった。

 いや、終わってた。

 喜ぶ時間はとっくに潰えていたんだと、不動の笑顔で、ようやくあたしは知った。





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Nanase Nio




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