息子
偽りのカレンデュラ
自分がどこにいてなにをしているのか、今からどうなってしまうのか、あたしにはもう予測できない。
独裁国家の空を遊泳する人工衛星。
要塞を特定できたところで、有耶無耶にされるばかりの徒労のナビ。瀬戸際外交に霞むばかりの空虚なナビ。内政干渉の矛を向けられるばかりの不憫なナビ。
仮に予測できたところで、すでにもう、どうにでもなっている。
昌 範
Section 5
息 子
ムスコ
新宿区・歌舞伎町。花園神社にも程近い雑居ビル群の一角に、月乃さんの大恩人といえる「ママ」の住み処【Zion東新宿】は静かに建っていた。
全体的に小豆色でセットバックの構造をしている。マンションであることには違いないようだが、1階のエレベータの右脇に掲げられてある案内掲示板の過半数以上が物々しい会社名で占められてあった。建築プランニング会社・法律相談事務所・酒の卸売問屋事務所・生花の卸売問屋事務所・貸衣装屋……なるほど、さすが歌舞伎町といったラインナップ。
あたしには異世界のラインナップ。
「もともとは銀座にお店をかまえてたママなんですけど、今の銀座には水商売を火の車にさせやすいポップさがあるみたいで、今年に入って歌舞伎町に移民したんです」
積極的に距離を置いてくれる月乃さん。
「キャバクラもホストクラブも経営難には違いないみたいなんですけど、それでも、銀座よりは遥かにマシだって。時代って、呆気なく移ろうものなんですよね」
距離の暖かな、狭い狭いエレベータ。
同日 〜 2010/06/20 [日] 10:56
東京都新宿区歌舞伎町2丁目
Zion東新宿
最上階の8階でおりると、左に折れる。向かって右側に居住施設のドアが並立し、左側はミルク色の手すりで、色とりどりの歌舞伎町のカオスを眼下に揃えていた。
新宿。
暗黒街のメッカだった時代はとうの昔に終わってるみたいだけど、それでも、そう簡単には本質を明かそうとしないような、陰影のある風情に満ちている。綱紀粛正に従うフリの、小賢しく解体を免れた第2の九龍城といったところか。赤や青のネオンサインのすき間に、日本の伝統芸能である「安全神話」をただの都市伝説へとランクダウンさせてしまうほどの、ライト感覚の裏切りの陰影が隠れている。
少なくとも“偽り”だけは主流だろう。
そんな、新宿の中心部を訪れるだなんて思ってもみなかった。思い浮かぶかぎりの驚天動地のアクシデントをもってしても、お邪魔するだなんて思ってもみなかった。もっと平らな大地で懊悩ライフを遊山しているはずだった。
奥から2番目のドアの前であたしを待機させ、駆け足で、開放された突きあたりの小部屋に立ち入る月乃さん。薄暗い空間に小柄なシンクや棚がひしめきあい、まるで給湯室のようなイメージを抱いた。
ものの数秒で戻ってくる。手には銀色の鍵。そして、あたしの待機するドアを躊躇なく解錠。表札もなにもかかっていない、空き部屋を思わせる黒いドア。
月乃さんを先頭に入室。手際よく電灯がともされる。新宿には似つかわしくない、シンプルな白い電灯。
30畳ぐらいの、だだっ広い空間だった。打ちっ放しのコンクリート、その中央にはガラス製のテーブルが設置、それを褐色のソファで囲い、そして巨大な薄型テレビをホステスにしたレイアウト。正面の壁には朱色の煉瓦が階段状に並べられ、あたしの預り知らない洋酒瓶が等間隔に立てられてある。他には、4隅に観葉植物・木目調の帽子かけ・やたらと縦長な姿見……簡素というか大雑把というか、統一性の感じられない、冬は寒いだろう大部屋だった。
シトラスの香りが仄かに漂っている。
「これ、あの、ど……?」
サンダルを指さして尋ねると、
「土足でいいんですけど、替えましょ?」
玄関の脇にある三角コーナ、その小さな靴棚から鮮やかな黄色いビニルスリッパを持ってきて床にすえてくれた。怖々と履きかえる。スリッパの裏と床とが滑りあい、かなり歩きづらい印象。
手持ち無沙汰に突っ立っていると、奥の部屋からワンピースとバスタオルを持ってくる月乃さん。
「着替えちゃいましょう」
怪訝に受け取ると、それは胸もとの広くあいた、ドレスといっても過言ではない、まっ黒なワンピースだった。
人様の物を預かるリスクと、我が人生のショッピングリストには絶対に列挙されることがないだろう衣裳をまとうリスクとが絶妙な漫才を開催し、立ちどころに狼狽。
「あ、や、でも」
「大丈夫大丈夫。こういう時のための捨てワンピらしいんで」
「捨」
あまりにも物騒な情報を授かって狼狽がピークに達したものの、今日にかぎっては「もうどうでもよい」という頭のあたし、怯えながらも無事に着替える。それから、スカートの中、お尻の周りにバスタオルを巻く。
気晴らし程度にしか乾かないんでしょうけど……と、受け取ったハンガーにカバーオールをとおして帽子かけにさげた。
そうこうしている間に月乃さんは、極薄カットソー、灰色のロングカーディガンを1枚きり、身にまとっていた。
やっぱり母性的な谷間。
自分のと見較べてみる。
雲泥……月泥の差、か。
さらに第三者の部屋を我が物顔で往来、こんなのしかなかったと苦笑いで、温かい抹茶オレを淹れてくれた。一方のあたしはこの間も、ソファの背に突っ立ったまま、プリーツスクリーンから解放された新宿のカオスに茫然の目を落とすしかなかった。
それから、向かいあわせに座り、まずは「ママ」の素性を説明してもらった。人間育成を目指す女性らしく、ホステスたちと週に1度、彼女の部屋で合宿をするそう。それは銀座時代からの伝統であるらしく、お店での立ち回りや心の置き方など、社交基礎を実践形式で勉強しあい、また悩みを打ちあけあい、話しあい、さらに手料理を競いあうのだそう。
銀座時代、月乃さんもその一員だったという。太陽のようなママで、だから楽しい記憶しかない……涙袋をぷっくらとさせ、部屋の彼方に思い出を偲ばせた。
子供ができてからも、月乃さんはお店に勤めつづけた。育児の憂鬱をママの太陽で晴らしたかった。でも、息子が小学校へとあがり、弁当作りや送迎の忙しさに負けて泣く泣くに店を辞めた。すると、忙しくはあるくせに、妙に時間にあきが生まれて、1日の使い方がわからずにしばらくの間を鬱のままですごした。
「非婚なんですよ、私」
高校の同窓会でひさびさに会った元カレとの間にできた子供だった。酔った勢い、でも、元カレは元カレでしかなく、でも、授かった命は絶頂の喜びで、だから複雑な心境で、罪悪感もあって、号泣するほどの議論を経て親権のみを得るにいたった。
「昔から、子供だけはほしかったんです。まぁ、子供がほしかったらちゃんと手順を踏めよって話なんですけど」
憧憬と衝動と理性は、とてもではないが相容れない概念だと知った。戒めとなり、だから余計に鬱になった。
「非婚を選んで、で、鬱になって、それで初めて結婚願望が芽生えちゃいましたよ。誰かがそばにいてほしいなぁって。でも、それだとなんか、息子に悪いなぁ……とも思ったりして」
やはり相容れず、ふと気づいたら、息子一筋になっていた。
「たとえ恋だとしても、それでもいいと、私は胸を張れるんです」
まるで、恋のような一筋。
実はホラー映画が大嫌いな息子だと知りつつ、肩を組んで強引に観賞。プライドの高い彼のことだから、チビるのを我慢することに必死だっただろう。ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てる傍迷惑女の脇の下、平然を装う幼い肩の、落ちつきのない上下運動。その揺らぎを感じ取れば感じ取るほど、ああ、一緒に生きてるんだと実感した。
その晩、トイレに起きて、戻ってすぐ、かたわらで寝息を立てている小さな背中を眺める。乳児の時からうつぶせで眠る癖があり、万が一を思うごとに不眠症を重ねた日々を思いだす。見違えるぐらいに大きくなった背中に、そっと、あやすように掌を置く。鼓動をうまく感じられなくて、もう死んでるんじゃないかと錯覚する。だから寝息の数を数える。すると、ふと、今にも死にそうな肩の上下運動が頭をよぎって、うっとりすると同時に、彼の死に真似にはちゃんと騙される母であろうと決意した。
「ホントに怖がりで、でも強がるんです」
ホワイトデーの2週間前から、コンビニへの立ち寄り方をシミュレイトしていた。近所のコンビニ、何度も目撃した。なにを買うのかと観察するものの、なのに毎回、手ぶらで出てくる。ジャンプの立ち読みをするでもなくきょろきょろと、冷静沈着が売りの息子にしては明らかに挙動不審。
直後、マシュマロ工場への潜入の様子をバラエティ番組に見て、何喰わぬ顔で賞味期限について質問される。マシュマロにもよると答えると「へぇ」と難しい顔。誰?……そう尋ねれば「そんなんじゃねぇ」とあっさりネタばらし。
そして本番当日、なんだか蒼褪めた顔で学校から戻る。寝室に籠るなり、どうやら布団にもぐりこんで泣いてた。リビングに置き去りにされたランドセル、覗き見ればマシュマロの袋。フラれたわけじゃない、緊張に負けて手渡せなかったとわかった。そんな自分が情けなくて泣いたのだと。
購入した勇気が愛しかった。
悔しくて泣いた青春が愛しかった。
そして、リビングに置き忘れる杜撰さもまた、愛しかった。
どれもが、美しかった。
「この世のすべてが美しいというのなら、私はそのすべてを息子と比べるでしょう」
これからも、ずっと……月乃さんはそうこぼして、さめざめと泣いた。
悲しいのに、美しい涙だった。
喉をつまらせ、呼吸も絶え絶えに、でも月乃さんは、話をやめなかった。しかも、もっとゆっくりでいいのに、最も話したくないだろう、もはや取りかえしのつかない“事故”についてを……核心についてを、ぽつりぽつりと切りだした。
「忘れもしません。5月10日でした」
いつもどおり、元気に学校に飛びだした息子。ただ、たまたまトイレに入っていたため、いつもの儀式は叶わなかった。
“いつもの儀式”
息子の頬に、キスをすること。
毎度、母の理不尽な儀式に、でも息子は応えた。甘ったるいハグに、直立不動で、上体を反らしながら、明らかにイヤそうな表情で、されるがままに、でも、ちゃんと応えてくれた。
この日は、珍しく逃げられた。もしや、いつだって逃げる機会をうかがっていたのかも知れない。たまたまこの日が、息子にとっての数少ない好機だったと。
し損じたことを軽く恨みながら、しかしいつもどおり、家事炊事に努めた。日毎に息子はたくましくなっていくのに、母親としてやるべきことは特に変わらず、ホームページの運営にもまったく手をまわせず、ふと気づけば正午で、ふと気づけば夕闇が迫っていた。そして、やはり息子のため、慌てて夕飯の支度へと取りかかろうとする矢先のことだった。
電話が鳴った。
校長先生からだった。
「颯斗くんについてお話があります、伝えにくいことです、急いで病院にきてほしい……あとはとにかく謝罪ばかりで、ひどくパニクってて、要領をえなくて、だから、逆に背筋が凍りつきました」
かろうじて財布だけを手に、とるものもとりあえず、指定された病院にタクシーを飛ばさせた。
そして、病室とは思えぬ空間で、蝋燭と線香との匂いが入り交じる不快な空間で、静かすぎる空間で、息子と対面した。
いや、対面とはいえなかった。
それは、上から下まですべて、まっ白な布によって隠されていた。
次に目に入ったのは、ふたりの、私服の男だった。
『このたびは……』
警察官だという、同年代ほどの若い男の喋りだし。すぐに、後ろにいた中年男性が渋い表情で彼の背中を小突いた。
小事ではないやり取りだった。
だけど、リアルでもなかった。
落ちついて聞いてください……どこかで耳にしたことのある枕詞で中年の警察官が語りはじめた内容は、やっぱり空々しく、リアルじゃなかった。
その事故は、息子の下校時刻に、校門を出てすぐ目の前で発生した。
急停止したトラックに、後続の乗用車が追突したのだ。速度を出していた乗用車は瞬く間もなく大破、円盤のように回転し、進行方向とは逆を向いて停止。そしてその右の前輪は、根もとから失われていた。
失われたタイヤ。
追突した直後に外れ、いや壊れ、タイヤとは思えぬ勢いで校門へと突っこんだ。
校門……ガードレールの切れ目。
その代わりに、息子がいた。
友達と談笑中だった。
その顔面を、直撃した。
たまたま校門の壁にもたれかかっていた息子。タイヤと壁に挟み打ちされて、そのまま、アスファルトの大地へと昏倒。
一瞬の出来事だった。
事故のあまりの衝撃に、居合わせた大人たちは口々に通報を叫ぶ。そして乗用車に駆け寄り、負傷した運転手を運びだすと、協力して対面の歩道へと避難、応急処置にかかった。野次馬もみな、その視線を車道へと注いでいた。
校門の異変には、誰も気づかなかった。教頭が慌てて飛びだしてくるまで、息子はずっと、大地に突っ伏したままだった。
友達は震えたままでいるしかなかったという。どうしていいのかがわからず、声も出ず、ただおろおろとするしかなかったという。おろおろとする以外の方法を誰にも教わってこなかったのだろう。
教頭の絶叫で、ようやく息子にも視線が注がれた。数人の大人も駆け寄り、さらに養護教諭も混じり、救急車の追加、そして人工呼吸が試された。
息子は、頭から夥しい出血をしていて、心肺停止の状態だった。
慌ただしく動きまわる大人たちに、触発されて泣きはじめる友達。そんな、友達の心のケアを叫ぶ大人たち。車道を挟んで、右と左、もはや整理のつけられない悲鳴がコダマしていた。
地獄絵図だった。
「目撃してもいないのに、たぶん地獄絵図だったって思ってしまうんです。おかしな話ですけど、悲惨だったって思わないと、心が、落ちつかなくて……」
前頭骨・後頭骨・下顎骨・鼻骨・頬骨・眼底……14ケ所の骨折からなる頭部損傷。さらに、甲状軟骨・鎖骨・胸骨にも骨折は認められた。そしていちばん致命的だったものが、頭蓋底骨折にともなう脳内出血。
いわゆる脳挫傷。
搬送されて1時間も経たず、死亡が確認された。
『できれば、ご確認を』
中年の警察官はそう締めて頭を垂れた。
リアルであるはずがなかった。
理解不能な首が室内にふりかえる。
ベッドに横たわっている白い膨らみは、いまだに微動だにしない。
すると、ベッドの脇に小さくつくばる、担任の姿に初めて気づいた。わずかに肩を上下させ、礼拝のように項垂れている。
それから、医者に気づいた。物怖じするように、出入口の脇に静かに立っていた。突っ立っているように見えた。
まっ新な白衣に、よろよろと近づく。
半笑いだったと思う。半笑いで、遥かに見あげる大柄な男性医師の前に立つと、
『あの、あの、はや、颯斗、は、はやと、颯斗は、ど、どこ、で、すか?』
早く夕飯作りを再開しなきゃ、またドヤされる。取りかかりが遅いって、段取りが悪いって、冷静沈着な顔でまた怒られる。だから、早く連れて帰らなきゃ。ご迷惑をおかけしましたって、一緒に謝ってお家に帰らなきゃ。で、一緒に晩ご飯を食べて、イチャイチャして、強がりな淋しがり屋の寝息を数えて、強引に起こされて、弁当を急かされて、でもそれが嬉しくて、だからまた、柔らかい頬っぺにキスしなきゃ。
だって、今日、キス、できなかった。
『颯斗なワケないじゃんッ!!』
白衣にしがみつく。
『だって今日、今朝、だって颯斗、ご飯、ちゃんと、食べたし、だって、ぜんぜん、普通に、フツーに、はや、颯斗は、スゴい元気だったんですよ!?』
でも、医者はなんにも答えない。
ふりかえる。
動かない膨らみ。
つかつかとベッドに歩み寄る。
膨らみを指さして、今度は警察官に、
『颯斗なワケないじゃないですか。だって颯斗は、もっと、こう、だって、運動神経だってあるし、ちゃんと、食べてるもん。ご飯、ちゃんと、食べてるもん。こんな、こんな小さい身体なワケ、ないもん!』
貧血みたいにヨレた声で訴えた。なんか責められてる気分だった。
ベッドをまわりこむ。
『センセ?』
いつも朗らかな息子の担任。前年度にもお世話になった。ワンパクの度がすぎて、月に1回は受話器に謝っていた気がする。でもそのたびに「颯斗くんは誰も傷つけてません。なのにヤンチャなんです。これは誇っていいことです」と励ましてくれた。
ほんの少し年上の、まるで、お姉さんのような先生。ママみたいな雰囲気もあり、だから、全面的に頼ってたし、慕ってた。彼女と出会ったおかげで、鬱が晴れたようにも思う。
『ウソ、ですよね。颯斗、普通に、もう、帰ったんですよね。先生、颯斗、べつに、なんとも、ないんです、よね。なんにも、悪いこと、してないですよね?』
すると、ただでさえ華奢な身体をさらに折り曲げて、土下座するように担任は泣きだした。朗らかで、太陽みたいな担任が、声をあげて、泣いた。
それを見て、言葉がつまった。
次の言葉が頭の片隅に浮かんでは、容赦なく喉もとへとおりてきた。だけど、どうつなげてもまともな文体にはならず、躊躇している頭上にさらに言葉がおりてくる。勝手に蓄積して、だから息苦しくなった。
ほしいブロックがどうしても揃わない、それなのにゲームオーバーのラインが存在しないテトリスの頭。隙間なくみっしりと積みあがった、なのに、穴だらけの頭。
だって、担任が味方になってくれない。なんにも応えてくれない。
言葉を回転させてみる心の余裕もなく、ぐるぐると、世界だけがまわった。
華奢な背中を離れ、ゆっくりと後退り。
視線のやり場に困って、ベッドを見た。
息子である理由のない、ただの膨らみ。
人型を模しただけの、悪趣味な膨らみ。
その枕もと、いつの間にか、若いほうの警察官が立っていた。
顔を覆った布に、指をかけていた。
『……なに?』
思わず問いかけていた。と、その問いに被せるように「おい待て」という低い声が背後から聞こえた。
同時に、布が剥がされた。
『ひィ!!』
まっ白な天井があった。
「気絶してたみたいです。病室のベッドの上に横たわってました。たぶん、10時間は眠りつづけてて」
茫然自失となっている横で、校長先生・教頭先生・養護教諭・息子の友達の親と、代わる代わるに立ったようだった。
「憶えてないんです。天井だけしか見えてなくて、音もなくて、私の母が駆けつけたあたりでやっと、ぼんやりと意識が戻ってきた感じで」
さらに“息子の父親”も駆けつけて、
「なんでかわからないんですけど、必死に謝ってました。死んだって、まだ認識してないのに、私のせいでって、私がちゃんとしてないからって、担任の先生に謝る時のように、ごめんなさいごめんなさいって、叱られるのが怖くて、たぶん真顔で、彼の胸に、ずっと、謝ってました」
彼は、なにもいわなかった。
そして、ふと気づけば夕方。
「あ、晩ご飯の支度、途中だったって」
制止する母親の手をふりきり、夢遊病のように病院をあとにしようとした。母親は息子については触れず、ひたすら帰さないように努めたようだった。だからか余計に引き止める理由がわからず、結局、癇癪を起こした。
「颯斗はしっかり者だから、怒られるのは私なんだからね!?……って、怒鳴って」
逃げるように駆けだす背後から、母親の泣き声が、ついに届いた。
『おまえのはやとはしんだのよぉぉ……』
ぼろぼろ泣きながら病院を出た。母親の嗚咽をもってしても、死んだなんて、まだ信じていなかった。頭はそうだった。それなのに、涙だけがどんどん湧いてきた。
タクシーを拾い、自宅に走った。
降りぎわ、財布を見たらお金が足りず、取ってくるから待ってもらうようにいう。なのに、50代ぐらいの運転手は「いいからいいから」と優しく告げて走り去った。
「車中でもずっと泣いてたみたいで」
鍵もかけずに飛びだしてきたことを思いだす。また叱られると怯え、どう言い訳をしてやろうかと画策しながら、恐る恐る、玄関をくぐった。
父親と、息子の父親と、ママと、同期の桜たちがいた。
息子だけが、いなかった。
「みんなで私を取り囲むんです。それで、みんな泣いてて、意味のわからない慰めの言葉をかけてくるんです」
戸惑いながら、息子の背中を探した。
見知らない男女が勝手に家内を往来していた。ママに聞けば、ソウギヤだという。そんな苗字の夫婦に知りあいなどいない。なのに、さも知りあいであるかのように、しかも神妙な面持ちでいちいち頭を垂れるソウギヤの旦那さん。
甘ったるい、でも、湿気たような香りがしていた。嫌いではないが、かといって、積極的にふりまきたいとは思わない香り。我が家はこんな芳香剤だったかと訝かる。でも、これだけ来客があるわけで、たぶん誰かのなにかだと思いなおした。
それにしても、これはいったい、なんのパーティだろう。そんな企画なんて練った記憶がない。まさかママたちのサプライズだろうか。そのわりにはみんな泣いてる。そういうサプライズの演出なんだろうか。まさか息子もグルなんだろうか。まさか、泣き真似して出迎えたりするんだろうか。そんな器用な真似が、あの息子にできるんだろうか。ちゃんと騙されてあげられるんだろうか……怪訝を露に息子を探した。
『颯斗、は?』
ママに問う。すると、
『大丈夫なの?』
おかしなことを聞く。
『大丈夫? ああそっか、あの、ご心配をおかけしました。ぜんぜん、あの、大丈夫なんで。べつになんともなくて。ちょっとあの、あの……』
ちょっと、なんだったか……なぜ病院にいたのだろうかと思いかえす。でもうまく思いだせない。
困った顔のママ。
心配させまいと、病院にいた理由を探すことは即座に諦めた。明るいしっとり感が武器だと、認めてくれたのがママだった。悶々とするのは、自分らしくない。
再度、息子の帰宅の有無を問う。
するとようやくママが、それでもどこか躊躇するような気後れした足取りで、和室へと案内した。ママの家ではないのになぜ先導されるのか、奇妙な感覚だった。
リビングの手前、左側に立てられた扉を抜けると、和室になっている。宗教心などこれっぽっちもないが、単に、畳の匂いに絆されて選んだ憩いの空間。
飾った憶えのない花が置かれてあった。巨大な鉢が2つ、両方とも、白い菊がこれでもかと活けられてあった。
一輪挿しのほうが綺麗なのに。
『は、や……』
菊を枕もとに、誰かが横たわっていた。
『颯、斗は?』
もう誰も、応えなかった。
再び和室を見渡す。買った憶えのない、文机のような小さな卓が置かれてあった。そしてその上には、そうとわかる線香が。
お香にハマろうと思ったことはあった。でも、壁色や家財のレイアウトを考慮してキャンドルに落ちついた。
こんな、湿気た香りにハマった憶えなどなかった。
怖々と、和室の中央にまで歩む。
不思議とまた、涙が落ちた。
窓から射す夕陽を浴びて、オレンジ色に染まった布が2枚、膨らみの胴と、顔を、すべてを隠していた。
小さく見え、大きくも見える、膨らみ。
それを視界におさめればおさめるほど、ぽろぽろと、景色が滲む。
湿気た香りが、胸を窮屈にもした。
『は、ゃと……は?』
歪んだ声をあげ、滲んだ視界にオレンジ色をとらえたまま、見慣れた背中を探す。
一点を見つめたまま、探した。
目をそらさずに、探した。
でも息子は、どこにもいなかった。
でもママは、嘘を吐く人じゃなかった。
“そこ”に、いるらしかった。
母親の言葉が頭を駆けめぐる。
今さら、今さら、駆けめぐる。
次があると思ってた。
まだ触れられると思ってた。
またキスできると思ってた。
イヤがられると思ってた。
でも、応えてくれると思ってた。
信じてた。
“お前の颯斗は死んだのよ”
『
は
や
と
』
崩れ落ちた。
築きあげてきたすべてが、崩れ落ちた。
ふたりで築きあげてきた、すべてが。
「すがりつくことも、できませんでした。手に触れて、顔立ちを、体温を、寝息を、確かめることなんて、できませんでした」
触れられないまま、3日間、泣いた。
泣きつづけた。
メモリアルホールでの、通夜にも、葬儀にも、火葬にも、立ち会えなかった。
『会いにいかなくていいのか!? ホントにいいのか!? 最後なんだぞ!?』
火葬の直前に、喪主を務める父親が駆けつけ、涙ながらに訴えた。
『俺には、それが、お前の最期に立ち会えないほどに苦しい!!』
でも、立ちあがれなかった。
そしてついに涙が枯れたころ、息子は、なんにも無くなっていた。
「3日3晩、泣きつづけて……」
ソファの腹に丸くおさまったまま、月乃さんはまだ泣いていた。触れることの叶う距離なのに、決定的な隔たりを感じるほど遠く、ずっと小さく見える。
枯れたはずの涙。
もしや枯れたままでいたほうが幸せなのだろうかと、涙に溺れるフルートの音色に耳をそばだてながら思った。
「3日3晩、起きつづけました」
「起き、つづけた?」
すると、くすん、鼻水を啜ると同時に、口角を固め、笑んだようにして見せた。
「見舞いをくださったお寺のお坊さんは、これもひとつの葬送のかたちだと仰有ってくださいました。でも……」
「でも?」
そのまま、月乃さんは陰を落とした。
「ホントは、眠るのが怖かったんです」
「怖かった……ああ」
ため息のような驚嘆が出た。
月乃さんはひとつだけうなずくと、涙を拭ってから、静かにいった。
「眠ると“見て”しまうんです」
カレンデュラの悪夢。
これは、そういう話だった。
すっかり忘れていた。
思わぬところから本題があらわれ、継ぐ言葉を見失っていると、
「初めて悪夢を見たのは、今年の冬です。たぶん、1月15日を境にして」
眉間に皺を寄せ、悲しい顔から、今度は苦しい顔をして、月乃さんはつづける。
「突然に、悪夢を見るようになりました。密閉されたまっ暗な部屋にひとりでいるんです。唯一のドアを開けると、そこは狭いエレベータで、でも、ボタンを押しても、ウンともスンともいわなくて」
アレがあらわれる合図。
「どうしていいのかもわからずにおろおろしてると、乾いたような、湿ったような、かすかな足音が聞こえて」
あの少女が。
「誰もいなかったはずなのに、エレベータ前の部屋から、小さな、細い、女の子が」
トルソーが。
「エレベータの中に入ってきて、でも顔はぜんぶ髪の毛に覆われてるし、なんか3Dみたいな立体感があって、それがなんだか怖くて、だから立ちすくんでると」
ぱ ち ゃ
「エレベータを動かすんです。なにをどうしても、びくともしなかったのに」
ご を ん
「どんどん上にのぼっていって、それで、しばらくしたら、エントランスみたいな、でも、なんにもない空間に着いて」
いや、なんにもないわけじゃない。
「逃げるようにおりると、エレベータは、またさがっていって、それで、ぐるっと、エントランスを見渡してみたら」
アレがある。
「ドアがひとつ、あって」
月乃さんの肩が震えている。
エレベータをおりるまでの経緯が怖くて震えているわけじゃない。このあとに見る光景が狂おしくて、怨めしくて、悔しくて震えている。
「ドアの横には息子、颯斗の名札が貼ってありました。それを見た途端、それまでが怖かったってのもあって、心細かったってのもあって、衝動的につい、ドアを開けてしまいました」
ああ、4ケ月も前から見てたんだ。
愛する息子さんの、死を。
「霊安室でした。慌てて、ドアを開けて、私が入ってくるシーンからでした。ドアの向こうに、校長先生と教頭先生の姿が見えました。でも、ほとんどシカトして部屋に飛びこんでくるところからでした」
自嘲気味に笑って見せるも、すぐにまた苦しそうな顔をする。
「そこから先は、今、話した光景でした。寸分違わず、そのままのやり取りでした」
すると、視線を天井に向けて、
「ああ、若い私服警察官が布を取るシーンなんですけど、なんだか、居ても立ってもいられなくなった彼が、独断でやったことみたいです。早く帰りたかったのかな? で、中年の警察官が、私の顔をちらちらとうかがってて、ダメだ、おいやめろって、制止しに入ろうとしたみたいです。だいぶ危険な状態だったんですね、私」
まさか悪夢で状況を把握するなんて……また強引に笑顔をつくった。
「それから、がくんって膝が抜けて、目の前の私が失神して、それにシンクロして、実際の私……ややこしいですけど、悪夢を見ているほうの私の意識までが遠のいて、それで、そこで毎回、目が醒めるんです」
切って、やっと抹茶オレに口をつけた。ぬるい……つぶやき、はにかんで見せる。その丸い瞳はもう、見てるこちらのほうがじくじくと痛むほどにまっ赤なのに。
ひと息を入れて、つづける。
「毎晩毎晩、おんなじ夢を見るし、だから夢占いのサイトとか調べたりもしたんですけど、どれもピンとこないし、病気かとも思ったんですけど、病院ってのにも抵抗があったし、どうせ鬱だったし、疲れとか、色んな事柄が重なってるんだって、颯斗を見て、気持ちを奮い立たせながら自己完結してきたんです。ちゃんとここに生きてるじゃん……って」
「悪い力が働いてるとか、思わなかったんですか?」
ひさしぶりの質問。ひさしぶりすぎて、遠慮もあってか、吃音だらけになった。
きょとんとする月乃さん。
「悪い、力?」
ずいっと上半身を屈めると、小声で、
「呪いとか、そういう?」
「そう、ですね。砕いていえば」
「思わないでもなかったです。毎晩のことですからね。だけど、呪いだとか、神様のお告げだとかで、問題を不透明にはしたくなかったです。颯斗が、ちゃんと目の前で生きてるっていうリアルのほうを、なんか大切にしたくって」
そう、確かに、
『神などいない、人はみんな平等だって、ずっと思ってたのに』
カフェで、月乃さんはいった。
そして事故が起こる前日まで、
『しかし、そこに神はいなかった』
ガガーリンの言葉まで借り、月乃さんは不完全な概念を否定しつづけた。否定し、愛する息子さんとの愛するリアルを、完全無欠のリアルを、頑として信じつづけた。
「あの。聞きづらいことなんですけど」
だとしたら、どうしても聞いておきたいことがあった。聞かなくてもいいはずの、辛いであろう、苦しいであろう、狂おしいであろう、余計なお世話の質問が。
落ちつきなく目を泳がせて言葉に窮していると、月乃さんは「遠慮なく」と、囁くように、真摯なまなざしで応えてくれた。
鼻で深呼吸して、尋ねる。
「あの、事故の日、あの、霊安室で、気絶されて、10時間ほど眠っていたと、仰有いましたけど、その時は、悪夢、は?」
すると、月乃さんも深呼吸して、
「はい。見ました」
静かに、でも、はっきりと告げた。
「見、たんですか?」
気が遠くなりそうだった。そして、胸のまん中、鳩尾のあたりが、ふつ、熱く沸き立つのを感じた。
「そんな……」
「あとになって思いだしたんです。状況が状況だったから具体的には思いだせないんですけど、見たという事実だけは思いだせました。あの10時間の中、私はちゃんと、悪夢を見ていました」
息子さんの死と対面した直後に、それと同じ光景を、再び見たというのか。寸分も違わぬ、正視できないであろう光景を。
「だけど、悪夢はいつものことだったし、だから目が醒めた時、混乱してしまったと思うんですよ。実際の霊安室を、いつもの悪夢の霊安室のように錯覚したというか。いったいなにが現実でなにが悪夢なのか、わからなくなったというか」
ふつふつ。鳩尾が煮える。
「颯斗の死を理解して、泣きながら眠った3日間も、見つづけました」
腹が立つ。
「だから、とうとう眠るのが恐怖になってしまって、自然と寝てしまうまで、ずっと起きつづけてました」
でも、眠ったらまた見るんですけど……項垂れた途端、左目からひとつだけ、月乃さんを透かした涙が落ちた。それは、膝に置いた右の指先で弾け、爪を、縦ラインの浮かぶ枯れた爪を、潤したようだった。
眠れず、食事も偏り、だから爪のケアが上手にいかなかったのか、それとも、ケアする心の余裕さえもなかったのかと、月乃さんの、事故から今までの苦闘を垣間見たような気がした。
だとしたら、苦闘を匂わせないメイクを強いてまでして、あたしに会おうと思ってくれた月乃さんの孤独も、垣間見たような気がした。
余計に腹が立った。
唯一無二の存在が無惨に死ぬ夢を見せ、4ケ月も苦しめ、やがてそのとおりにし、さらに、体験した現実を、失神するほどの現実をいまだ、あてつけるように見せる。
こんな残酷な話があっていいのか!?
あたしは、ここでようやく、悪夢の真の恐ろしさと、そしてカレンデュラに対する怒りをおぼえた。熱を帯びた鳩尾に呼気が蒸発し、吐きだすこともままならず、そのままチアノーゼで倒れてしまいそうなほど窮屈なストレスだった。
叩きのめしてやりたい衝動に駆られる。アドレスを突きとめて乗りこみたい衝動。そして「個人情報保護法なんてあってないようなモンなんだよ!」と、高らかに宣言してやるんだ。でもそれだけじゃ足りないから、つきまとって、精神的にじわじわと追いつめて、怯えさせてやるんだ。生きているのが辛くなるぐらいに、崖っ縁にまで追いこんでやるんだ。
居場所を突きとめたくなる。
個人情報保護法がわずらわしい。
肝心なところが隠匿される、偽りの社会基盤が苛立たしい。
なんでカレンデュラのほうが守られて、あたしたちが苦しまなきゃならないんだ。
身内の死、しかも未来の、不確かな個人情報をさも起こりうるように侵害されて、操作されて、なんで、あたしたちのほうがこうも苦しまなきゃならないんだ。
窮屈なストレス。
発散できないストレス。
内向的なストレス。
自然、鼻息が粗くなる。
そして、ぐずぐずと歯齧みしていたら、結局、お腹が鳴った。
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Nanase Nio
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