まぬけな傘
せっかくの休日が、このザマ。
飄逸な人間になどまったく憧れないが、たかが春の雨ごときに固めてあげる財布の紐があるはずもない。現状に対する不足感こそが購買のエンジンなのだし、どうせ今日も特別な用はないし、たかが春の雨が降ってやがるしで、だから気前のいい女の体で百十円を差し出した。
勿体ないことをした。
白地に青のダブルステッチ──もちろん一枚絵の模様だが辛うじてステッチに見えるこの傘を、購入する直前のあたしは美しいと信じた。だからわざわざ購入してやったのだ。ところが店を後にし、雨に霞む太陽のもとに晒してみればさほどに美しくもなく、落胆の脚を上手に湿らせる機能性を保有する残念な傘だったと判明。強いて利点を挙げるとすれば、天候不順のわずかな明度を蝟集、濾過し、好い塩梅の光を手元に送り届けてくれるホワイトの習性ぐらいだろうか。
ならば別に傘じゃなくても良かった。ホワイトタオルを天に翳しただけでも満足な明るさは得られたろうに。
勿体ない。百十円を返せ。
そして極めつきの事件が、摘まみをスライドした直後に起こった。傘を傘とするための普遍的な指づかいで傘を傘たらしめようとした直後に。
ばりゅん。ステッチ模様の白い布が骨から抜けた。まるで外郎を封じる風船に爪楊枝を刺した時のように、止め具ごと、先端を目指し、白い布が情けない集束を見せたのだった。
誰が旗を掲揚すると言ったのだ。
愕然とするあたしを差し置いて、放射線を描く九本の銀の骨、その集束点に、まるで凪に切羽つまった白旗の体たらく。または掲揚も束の間、急な雨天中止にすっかりと萎びた校旗の体たらく。どちらも旗だが、だったらいったいなにを好き好んでこのあたしを不毛な暗喩へと泳がせるのか。
あげくに雨はさも自然の摂理と叫ばんばかりに大地を叩く。あたしのストレートヘアに余分な湿潤を植えつけては少しずつスパイラルパーマへと変型させ、とうとうキッチュでガーリーな西洋人形に変えた。重めのバングでモード風をプラス……だかなんだか知らないが、いつも通りに櫛で伸ばした労力が水の泡だわこのまぬけが。
あぁ。雨の微妙な角度が鬱陶しい。歩く機微によって容易く凶をもたらす角度だ。この機微を見誤ると、ただでさえ生乾きだった靴下が洗わなくても良かった靴下に一方的に成り下がるので機動力には是非とも気をつけたいところ。もちろんあたしは完璧に乾いた靴下を履く。まさか生乾きの靴下を選択する趣味なんかない。
洗濯の趣味はある──と頭にしてみる。でもすぐさま取り下げた。どうせ過去の栄光だし。どうせ今日は素足に靴だし。
ち。舌打ちがこぼれる。なんて鬱陶しさだろう。
三月の雨。そぼ降る雨。しとしと降ればいいと勘違いしてる。たかが雨が、なにを悟ったように偉そうに。一週間前の匂いさえも拭えないくせに。
苦情を叫ぶような体力などなく、軒から軒へ、とぼとぼと渡り歩いて辿り着いた馴染みのコンビニ。ここから先、しばらく軒はない。だから自慢気に雫を落としている雨雲を怨めしそうに、いや、実際に怨みながら仰いでいる。かれこれ十五分も、白い布のようなものを骨の先端にだらりとぶら下げたモップのようなまぬけを手に、コンビニの軒下に隠れ、暗澹とした怨恨の眉間で天を仰いでいる。
せっかくの休日が、このザマ。
もはや傘を捨てても構わないのだが、いったいどこからどこまでが燃え、そして燃えないのか、近代工業的にはたぶんほぼ燃えるのだろうが、念のために布を剥いでから捨てる労力は必要だとする一般倫理に縛られたままでいる。
だいたいだ。このまぬけが犯した失態のためにどうしてあたしの細く官能的な指を濡らさなくてはならないのか。フルスイングで骨と布とに分別できればいいが、たかだか傘ごときにそんな勇敢なアタッチメントの機能が設備されてあるはずもない。実際、傘は骨と布の一体化をもってようやく成立するわけだし。
というか、フルスイングするにしても労働するのはあたしなのだ。このまぬけが労働するわけではない。なにしろ働く前に勝手に自爆しやがったわけだし。
まぬけの失態のために微動だにできない理不尽。そんな、もはや怒髪天も吝かでない直立不動のあたしの目の前を、蝙蝠傘を差した女学生が奇異の目で、遠慮がちに凝視したまま通過して行った。凝視なのだから遠慮なんてあるわけもない。事実「買い替えればいいのにコンビニの前なんだから」という呆れのフキダシがヤツラの頭上にとくと窺える。
理屈はわかる。
ならばなぜそれをしないのかと言えば、まずはこの成り下がったまぬけの処分を考慮しないことにはあたしの評判まで成り下がることになる。だからたとえどんなに牛歩の沈思黙考であっても、無傷の処分が叶うような名案を閃かない限りは絶対に停滞を惜しんではならない。
なぜこのあたしがまぬけのために苦慮!?
そもそも傘の骨をコンビニのゴミ箱に遺棄した経験があるというのかあの女学生どもは。鉄かステンレスで鋳造されている物をゴミ箱に捨てていい道理はなく、でもどうやらヤツラは捨てているらしいので今すぐ脇のゴミ箱を引っくり返して中身を確かめてみたく、ならない。そんなことするわけがない。いや、するわけがない。
するわけがない。
脳裏に三回も唱えてみたが、だからといってこのまぬけの骨が雲散霧消するミラクルは起きず、把手を握る右手の五指もそろそろ疲れてきた。まるで強く握り締められているかのよう。所有意欲もとうの昔に枯れ果てているというのに、まぬけを所持していなければならない倫理たるや思いの他に頑固で、無論、強引に折り畳んでバッグに納めるような胆力も腕力も趣味もない。仮にこのまぬけが折り畳み傘だったとしても、機能性を喪失したただの骨を折り畳んであげられるほどあたしは気前のいい女ではないし、もともとこのまぬけは折り畳めないタイプの傘なのだから喩える必要なんてなかった。喩え損だわこのまぬけが。
「あぁちくしょう」
特に用事はないのだが、部屋で停滞しているのも耐えられなかったから飛び出して来たんだ。じっとしているのでは流石に埒が明かないと、状況の打破に乗り出した矢先のこのまぬけの自爆だった。
「しょうがない」
やっぱり埒が明かない。もう濡れたっていいから動こうと決心した直後のことだった。びちびちびち──軒を、目の前を、雫の塊が閃いたように落ちて来た。どこかの栓が抜けたらしく、だからと探索するスキルのないあたしは、違った意味で閃いたように飛び退いた。
すると、着地と同時、マットなフェイクレザーの編みこまれたサンダル、ウッド調ヒールが軽やかにスリップした。たちまち背後へと転倒、その拍子に傘を投擲。
くるくると華麗に舞う骨。
はためきの鈍い濡れた布。
どん。重い音を立て、目地の細かな壁にしこたま背中を強打。壁沿いにずるずると滑り落ちて臀部から着地。と同時に、ぱしゃん、傘もまた狭隘な駐車場の中央に着地。
間を置かず、勢いよく進入してきた紺のハイエースが傘を轢殺。めしゃ。そして、後部車輪に巻きこんだあたりで車は停止。
すぐに、助手席の若い男性がのんびりと降りてきた。頭に白いタオルを巻き、黒いジャケットに灰色のニッカボッカ、洗浄を怠ったパレットみたいな汚点があちこちに浮かんで、ペンキ屋だとわかった。
半笑いで「大丈夫ぅ?」とタメ口を利く青年。絶対にあたしよりも若いが、父親がガテン系なので彼ら独自の無差別な口語はすでに理解している。第一、タメ口よりも、背中の鈍痛よりも、後部車輪に潰されているまぬけのほうが気掛かりだった。
「また派手に転んだねぇ」
半笑いのまま。
気持ちはわかる。あたしが目撃者ならば半笑いを通り越して無表情だったはず。呆れ心の二段階活用。彼は一段階目なのでまだ友好的なほうだ。
「立てる?」
青年と傘、黒目だけで往復するあたしに差し出される右手。荒れた感じはあるが、節もなくまっすぐと伸びた綺麗な五指。
強めに握ってやって予想通りに痛がられたのは、いつの、どこだったか……あぁ、いつものことで、この界隈だった。
「ムリっぽい?」
はッと仰ぐと、いつの間にやら半笑いを捨てていた青年のまなざし。やや遅れてその背後にハイエースが着いた。天井部に括りつけられた作業用の梯子が停車した反動でこちらへ落ちてきそうな、そんな大袈裟な錯覚に強引に陥ってみた。
と、逸らした視線の先、運転席に座っている黒眼鏡の中年男性までもがあたしを凝視した状態で車を降りて来ようとする。慌てて、
「大丈夫です」
流石に二人以上に心配されたのでは恥ずかしい。体感としてはまったくの無事でもなかったが、妥協の無傷を口に自力で立ち上がる。どうやらジーンズのお尻のほうは無傷。
別に傷ついたって平気だけど。傷ごときでこの心は揺らがない。伊達に三十一年も生きてない。
「ムリしないほうがいいよぉ」
結局、中年男性まで心配というか呆れを口にした。こちらのほうは無表情だった。気持ちはわかるし言い分もわかる。些細な転倒が思いがけない骨折をも招きかねないガテン系の実情、父親がそうであるだけに言い分もわかる。
「背中は見えないからねぇ」
まったくだ。肩胛骨のあたりがじわりと茹だっているのがわかるが、つまり擬音にしか頼れない状態にある。
ただ、二人がかりで心配、いや、呆れられる羞恥心に較べれば、この程度の痛みなんてたかが知れている。早く事態を収束しなければコンビニの店員までもが飛び出して来かねない。
三人目、しかも顔見知りは困る。
「大丈夫です」
無事をアピール。慣れない笑顔も混ぜて見せる。ふうんと鼻を掻痒する中年男性と「じゃあいいんだけど」と呟く青年。そのまま、二人ともジャケットのポケットに手を差しこみ、肩を竦め、何事もなかったかのような早足で店内へと入って行った。
やはり心は揺らがなかった。ただ恥ずかしいだけだった。揺らぐ初期状態になかった。
ほぉと溜め息を吐き、左脇に通されるトートバッグを改める。無口な携帯電話と惰性のメイク道具しか入ってない。詳しく確認するのも面倒なのでざっと診察、特に破損はなかった。
後は、あのまぬけだけ。
でもハイエースの車体が邪魔で容体がわからない。まぁ、手放す以前からすでにお陀仏だったのだが、案ずる心が胸の中で騒いでいた。
案じてみたかったのかも知れない。
たかが百十円。でもわずかなりとも気に入って買った傘。思ったほど美しくはなく、勝手に自爆して終えた役目ながら、勢いで手放したのもあたしのほう。これで完全に見放してしまうのは無責任のような気がしていた。
もちろん、今さら拾いになんて行かない。派手に転んでとっくに罰は当たっている。手にあるうちは必要なのかも知れないが、離れた今となってはもはや事後処理を働く必要もない。
同じ人に拾われることは、二度とない。
たとえ、どんなに傘が望んだとしても。
ただ、案じてみたかった。そうだったらいいのに──と。
確かめには行かない。感傷などガラじゃない。だから腕を組んでハイエースの顔を睨む。きっと苛立っているように見える。苛立ちなんて微塵もないが、近寄りがたい風情に見られれば好都合。傘を投げ捨て、しかも拾いには行かない人間なのだから、慰めなんてお門違いというもの。つまりあたしはとても謙虚な女なのだ。ざまぁみろだわ。
冷徹非情な女性だと評価された。事実、思ったことはすぐ口にした。でも感情論は解決を殺すだけだから、分析に基づく意見だけを述べた。それを冷徹だと評価されることは非常に早計だし納得もいかないが、感情優先のレビュアにしてみればそれでも充分に冷徹であるらしかった。あげくに謙虚さが足りないとまで言われた。謙虚さとはなにかと問えば、そういうところだと声を荒げられる始末。
ヒステリィは抽象的だから困る。
例えば、皿洗いを誰がするのか、適切な役割分担を提案しただけの話なのに露骨にイヤそうな顔をされ、イヤならばイヤだと明瞭に述べろと言えば、今度は不服そうな顔で、しかも無言で厨房へと向かい始める。だからその行動理由を尋ねに詰め寄れば、回答するどころかあたしを完全に無視して黙々と皿を洗い始める。その手を止めるように促す。途端、癇癪を起こして掌を払い退ける。あげく、やっとこちらを向いたかと思えば、ビスクドールみたいな顔を悔しいほどに紅潮させ、
『ホント人を傷つけるのが上手だよね』
意味不明。抽象的にもホドがある。絶句するあたしにわかったのはただ、そういう状態のことをヒステリィと呼ぶのだということ。もちろんそれで食い下がるようなあたしではなく、ロジカルに解決法を提案し続けた。でももはや聞く耳は持たれず、あたしがあたしであることさえも否定され、
『謙虚さが足りない』
冗談じゃない。相手を納得させる論理も論法も持たず、意味不明な憤慨をこさえ、容易く無視し、冷徹だと勝手に評価できる傲慢な人間がよくも謙虚さなどと舌に乗せられたものだ。ヒステリックな人間というのは、こうやって自分を棚に上げておける性格だから困る。視野狭窄で非生産的で、思い通りにならなければ気の済まない卑怯な独裁者だ。
当然、これらをすべて口にした。だってその通りなのだから。秘めるのはまさに独裁者のすることで、要するにあたしはとっても謙虚な人間だ。謙虚という観念に含まれる人としての高潔さをちゃんと理解できている。ざまぁみろだわ。
「冷徹なわけがない」
だったらなぜ指を強く握ったと思う?
これだからヒステリィは困る。
「あたしの温度も知らないくせに」
自分の温度だけが正しいと思っている。そしてその温度を第三者に押しつけ、常に感じていられるよう暗に示唆する。言葉でなく、態度で。
でもあたしは、
「思い通りのあたしじゃない」
「大丈夫かぁ?」
びくッ。藪から棒の呼びかけに、瞬時にコンビニの出入口に目を遣った。
お湯が注がれてあるのだろうカップ麺を大事そうに左手にし、ビニル袋を肘にぶら下げている先ほどの青年が、再び半笑いを浮かべてハイエースを目指していた。
薬指に、指輪が見えた。
大丈夫。
やや遅れて中年男性。おにぎりとペットボトル、週刊誌の入ったビニル袋を右手に下げている。彼もまたあたしを瞥見する。相変わらずの無表情。
それぞれに軽く会釈。
まさかこの程度で親しくなどしない。
あたしはヒステリィなど起こさない。
説明できない情で動いたりはしない。
慎重に助手席へと乗りこむ若者、乱暴に乗りこむ中年男性、それから、おもむろに蘇生するとゆるゆると後退し始めるハイエース。その後輪にようやく見えた、骨。
めしゃ。再びの轢殺。
向かって右手に軌道を変えると、足元確認こそが命題であるガテン系のものとは思えない眠たそうな足で、国道に乗り上げるや否やハイエースは速やかに去って行った。
久し振りに、目の前が拓けた。でも、カタルシスは微塵もなかった。むしろ閉ざされたような気分だった。
辛うじて傘だったとわかるフォルムが無慈悲にも横たわっている。あたしがそうした。自分で買っておいて、思い通りにならないとわかるとさっそく処分を思案、あげく雨の中に放り投げてそのまま放置。無慈悲でない理由はどこにもない。
あたしが見放した。
冷たい雨の中へと。
あたしが見放した。
だってあんなもの、
「あんなもの、傘じゃない」
骨からそっぽを向く。向いた勢いで軒のない雨中に躍り出た。よもやのヒステリィだった。途端、髪に浸透するよりも先に雫が目に入り、瞬く。滲みる痛みを堪えながら、人生は雨だと定義した。
正面からぶつかれば目も当てられない。冷たさに晒されて風邪を引く。だから、駆け足してみたり、雨宿りをしてみたり、傘を差してみたりする。
思い通りにならなきゃ意味がない。
だからあたしは、
「あんなもの、傘じゃない」
あたしは見放した。
冷たい雨の中へと。
あたしは見放した。
孤独な雨の中へと。
もうずぶ濡れの傘。
美しいと信じた傘。
でもずぶ濡れの傘。
まるで今のあたしみたいに。
見放されたあたしみたいに。
ずぶ濡れのあたしみたいに。
二十代最後と嘲笑いあった。
もう最後はないと思ってた。
また、フリダシに戻された。
使い古されもしないままに。
壊れた自覚さえないままに。
二年もつきあってたくせに。
売れ残ったほうがよかった。
まだ美しいままでいられた。
無惨な姿にはならなかった。
ついて行ったあたしがまぬけだった。
のこのこと。
のこのこと。
のこのこと。
案じていてほしい。わずかなりとも気に入っていたのなら。でも、きっと、今ごろ彼も、あたしがしたように、どうせ案じもしないで自分の道を歩んでるんだ。なんて勿体ない浪費をしてしまったんだと、あのまぬけがと、どうせ今ごろ思ってる。そして、差し出された誰かの掌を、どうせ親しく受け取ってる。
背中に痛みが蘇る。
差し出された右手。受け取っていたら違う展開だった?
そんなわけ、ない。
見放されて一週間。
見放してわかった。
ようやくわかった。
あたしは、彼の望んだ傘じゃなかった。
同じ人に拾われることは、二度とない。
たとえ、どんなに傘が望んだとしても。
たとえ、どんなに愛しているとしても。
「ぁは……」
手狭な歩道、正面から叩きつける厳しい春の雨に目的地さえも定められないまま、ずぶ濡れになり、顎を上げ、声を上げて、このまぬけな傘をあたしは嗤った。
【 終わり 】