歌帆さん 〜 Sick And Tired■
証言者 011
巌桐流の秘蔵っ子
桐渓 更紗 【 きりたに さらさ 】 続ける
天文元年 (1532年) に桐渓 釈晟 が開眼し、子の 釈莱 が広めたとされている。現存する武術体系としては恐らく日本最古とも呼ばれ、
・ 荒巻流
・ 高富流
・ 桐三統流
・ 北杜一世流
・ 刀傳流
など、有力な派生流派を数多く輩出している大柔術組織。
組討と捕手を主力作法とし、投げ技や絞め技のみならず打撃にも長け、小太刀や脇差などの短径武器も充分に扱う。実際、研究の一環として、刀術、槍術、弓術などを教え、史上最強の武器とされている薙刀もまた注力のひとつに数えている。いずれにせよ、無手勝流に特化した近代柔術とは明確な一線を画する戦場格闘体系。
『大柔術 - 巌桐流』
現在の当主の名を桐渓長政といい、子は長女のひとりのみ。桐渓更紗がこれだった。
巌桐流は代代と継続する男系譜であり、後継者問題が最大の悩みの種となっていた。派生流派のほうから相応しい男子をあげて補うという案も浮上する中、しかし父は例外的な女当主の確立を目指した。よって、桐渓は幼少時代から徹底的に武術指導されてきた。スパルタ教育だった。むろん、女性なので潜在的体力には恵まれず、生まれながらにして小柄だったため耐久力にも劣るものの、対応力、吸収力、柔軟性に優れる天才肌であり、ちょうど未来を嘱望されていたところである。
しかし、これ幸いか、ここにきてようやく母の由美子が第2子を妊娠、すでに男児であることも判明している。
桐渓は現在、高校2年生。早いもので、来月には17歳となる。
そろそろ継承問題を意識しなくてはならない時期にきて、弟が生まれることを知った。およそ17も齢の離れた弟である。そして、17年間を彩ってきた許多の艱難辛苦は彼女のもとを去り、年端もいかぬ弟の小さな背中に伸しかかることとなる。いずれ武道とは無関係な夢を見る日も来るのだろうが、彼の夢は絶対に叶わず、現代日本社会においてはよもや発揮されることのない戦場格闘技を、連日連夜、錬磨していくこととなる。
流石に気の毒だとは思うが、だからといって新米の姉にはなにもしてやれず、
『嬉しい? 悔しい?』
身重の母から迫られた二者択一にさえ、
『……べつに』
振ってやる頭を持てなかった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
挑まれた2度の握手。しかも、どちらにも画鋲というオマケつき。
いくら筋肉を硬く鍛えていようが、針の刺さる痛みは老若男女を問わずして平等な感覚であり、大抵は1度だけで懲りてしまうものなのだが。
果たして百目鬼歌帆はどうだろう?──と思っている間もなく、
「仲直りですか。それは妙案」
きゅ──彼女は再び、画鋲ごと、躊躇なく桐渓の右手を握っていた。
「おー。なるほどね!」
声にして感心してしまった。
画鋲の針先の、肉に突き刺さる手応えがなかった。消しゴムにナイフの刃先を突き立てた時のような、そろりと小気味よい、しかし充分な抵抗をおぼえる手応えが。
すでに刺さっている画鋲の背中で、針先を防御したらしかった。カチッという硬い音を掌の内側に聞いたような気もする。
「上手に合わせるもんだ」
そうつぶやきながら桐渓、甘えるような上目づかいで百目鬼を見、ものは試しと、再び尺骨神経を押さえるべく左手を伸ばしてみた。
しかし、
「イっ!」
左手が届く刹那、百目鬼が素早く1歩を踏みこんだ。同時に、自分の耳を掻くような挙動をして右の肘を折り畳む。自然、腕の内側を天井に向けたまま桐渓の右手は捩り上げられた。反射的に肘を裏返そうと試みる。しかし、時すでに遅し、軽量級の背丈には背伸びをするしか手段がない。
間もなく、流れるように、隙だらけの右の胸に畳んだばかり肘が突き刺さった。途端、平らな胸に臓物を焼かれたような辛辣な痛みが疾走。
中国武術が体術のひとつ『裡門頂肘』。
よろよろと、簡単に後退しそうになる。しかし百目鬼は手を休めなかった。
握手の右手を引き、桐渓の身体を懐中へと招き寄せる。つんのめって前傾姿勢となる小柄な肉体。その下腹部に首を挿入し、彼女は豪快に、天高く担ぎ上げた。
170pの物物しい視界。
ディズニーの平和なんてどこにもない。
しかし、異界を眺望している暇さえも与えられず、眼下に広がっていた夕暮れの土間が、一転、天井へと様変わり。さらには無灯火の蛍光灯が瞬く間もなく遠ざかり、次いで背中一面に重たい衝撃が走った。
土間に背中を強打。
破裂するように息がつまった。
百目鬼はまだ休まない。仰向けの桐渓の上でごろりと後転して立ち上がると、まだ結ばれたままでいる握手を引いて強制的に起こす。やむを得ずに起き上がった胴体にすかさずタックルを入れる。左腕で桐渓の両脚を抱えこみ、軽軽と首筋に担ぎ上げてから再びの背面跳び。
どむんッ──コンクリートに肩胛骨を強打。
ごろりと後転して百目鬼は立ち上がる。またも強制的に桐渓を引き起こす。すると彼女は、ようやく握手を解放した。
急速に涼しさを回復させる右手。しかし清涼感を堪能している暇もなく、打点の高いドロップキックをすぐ目前に見た。
「ぬあ!」
咆哮とともに、細胞に鞭を打って両腕を上げる。間一髪で顔面を防御。とはいえ、充分な体力の乗った足底をまともに浴びた桐渓は、顔の右半分を襲う鈍痛と一緒に、まるで玩具のように、仰け反ったまま吹き飛ばされていた。
がおんッ──スチール製の靴棚に背中を殴打。
衝撃のあまりに脳が揺れる。靴棚の表面に沿って崩れ落ちる。しかし、今まさに床に近づこうとしている顎を目掛け、鈍器の右膝が飛んできた。
再び両腕で防御。致命傷は防いだが、呆気なく上半身をカチ上げられる。さらにショルダータックルを胸に入れられ、棚に叩きつけられ、弛緩する右腕を捕縛され、そしてコンクリートの床へと一本背負い。
ぱぁんッ──張り手の乾いた音が響き渡る。
「ダ、メだ」
どの攻撃に際しても受け身は取られていたが、しかしながら5回に渡って背中を強打、桐渓の全身は跡形もなく麻痺してしまった。かじかむ掌を強く拍手したようなストレスの痛みがじわりじわりと身体中を蠢動。息継ぎも難しく、まさに冷たい海で溺れているに等しい。
「容赦、ないや、この人」
虫の息でつぶやく。仰いだ天井もまた、濃度を強めた夕闇のせいでなにがなんやらわからなくなっている。
と、紺色の物体が視界を遮った。
靴下の足底。
顔面を踏まれる──即座に判断すると、素早く寝返りを打って足踏みを回避、四つん這いの姿勢となる。
が、間髪を入れず、がぱッ──右の頬に重たい掌底を喰らった。自動車の正面衝突さながらに、寝返りを打ったほうとは正反対の方向へと撥ねられる。ぐるんと全身を回転させながら、桐渓は再び靴棚にまで追いやられていた。
「イ、ぎっ!」
張られた頬に、殴打のものとは明らかに異なる鮮やかな痛みが混じっている。
舌先で頬の内側を確かめる。
わずかに尖る、異物感。
画鋲ごとビンタされたらしかった。
くしゃっと顔を歪め、素早く画鋲を抜き取る。抜いた途端、さらなる痛みが走り、口の中にほんのりと暢気な鉄の味が広がった。
左の側頭部に、右の上段回し蹴り。
しゃがんで回避す。目の前には百目鬼の大きなお尻が浮かぶ。上半身はわずかに前に傾きはじめていて……ということは、
「ふわっ!」
慌てて腹部をクロスアームで防御。その華奢な盾に、大地の底から迫り上がってきた左の踵が衝突。入射角から察するに、狙われたのは子宮か。いや、クロスした腕の骨が狙われたのかも知れない。どっちでもいい。
百目鬼はまだまだ休まなかった。
ヒールキックの左足を、フリーキックのように前方へと蹴り出した。その反動を利用して上半身を捻転、桐渓の横っ面を狙って右の裏拳。上と思えば下、下と思えば上のアクティヴなコンボ。
さらに身を屈めて裏拳を回避す。ロングヘアを巻きこみながら、ふぉん──右の拳は頭上を通過。
と、ガラ空きの胴体が目の前に。
好機と踏んで飛びこむ桐渓。
しかし、タックルは入れられなかった。
「イがっ!」
すでに髪の毛をつかまれていた。
毟り取られそうな激痛が頭を占める。ゆえにタックルを簡単に諦めさせられ、桐渓は頭を抱えながら苦痛の声を絞り出すしかなかった。
百目鬼は労らない。髪をつかんだまま、ますます荒っぽく、裏拳の流れを継いで時計回りに自転。足を髪にしたジャイアントスイングである。小柄ながらも50sは超える桐渓の身体を右手1本で持ったまま、百目鬼は楽楽と周回、靴棚に阻まれようがお構いなしに加速、そしてついに、出入口の観音扉に向けて放り投げた。
プロレス技が、ハンマー投げと化した。
ばっしゃあッ。
背中から、ガラス戸を突破。
校外へと勢いよく飛び出した桐渓、軒下の鉄柱に激突し、うつぶせに転倒。
こぅをぅをぅん──鉄柱が梵鐘を棚引かせる。
「く、か」
咄嗟に頭を抱えて後頭部と頸動脈は死守できたものの、死守した両腕のほうに熱い痛み。
「か、かは、ははは」
ガラスで斬ったと、痛みでわかった。
『分を弁えよ』
幼い頃から、父は、巌桐流を社会に表出させないよう娘を戒めたものである。ごく一部の公的防衛組織が発揮する以外、我が国はもはや武力の罷りとおる軍国ではないのだと、強く強く、口癖のように語って聞かせたものである。
「分」という言葉に置換して。
適材適所を逸脱した武力は、すでに暴力に等しいのだと。民主主義国家の名のもとに必要視されないかぎり、巌桐流もしょせんは暴力組織に他ならないのだと。武芸の時代とは明白に異なり、決して分相応であってはならない平等な社会であることを心し、いたずらに表出させてはならないのだと。ゆえに、誠意の克己に励むべきであるのだと。
これをもって「分」とするのだと。
小学3年生の桐渓は、
『必要ないのになぜ励む?』
そう質したことがある。
すると父は、
『必要の外に遺されるのだ』
文学で返した。
『誰のため?』
なんだか遊ばれているようにも思え、
『それは違う。為を以て成すのではなく、成を以て為されるのだ』
だから彼女は、
『更紗よ、遺すとはそういうことだ』
文学が嫌いなのかも知れない。
「かはは。弁えたら、このザマだ」
わなわなと震える腕立て伏せで上半身を持ち上げる。それから、両の膝を立てて四つん這いの姿勢になった。
見ると、やはりどちらの腕からも出血があった。光沢を帯びる深紅の蛇が何匹も掌を目指して這っている。特に、左肘に程近い患部は重傷で、CD大のガラス片が上手に突き刺さっていた。
生ぬるい血の匂い。
「抜いたら、血が、噴き出るんだろうな。でも、武器にも、なるんだろうな」
懐かしい重傷をひとり言の脳内麻薬で諫めながら胡座をかく。
「どっちを、選ぶべきかな」
どッどッどッどッ──7歳の時、父に左腕を折られた時の激しい心拍数が蘇っている。
「止血か、武器か、相手によっては究極の選択だな、これは」
その、相手のほうを見た。
「あー。ありがたい話だよ。色もつけずに遊んでくれてさ」
乾丞秀や三枝虹子とは桁違いの好待遇である。
すると、目の前にぽっかりと空いている観音扉の裂け目から、するりと百目鬼があらわれた。とっくにローファーを履き、迷彩柄のバックパックも背負っている。
そして、
「これ、お返しいたします」
ハスキーな、アルトサックスを思わせる分厚い声を暢気に奏でると、裁縫でもするかのように右の掌から画鋲を引き抜き、手首のスナップも軽快にアンダースローで投げて寄越した。
「派手にやりすぎました」
汗もかかず、息も切らさず、お月見でもするかのように夕闇の空を仰ぐと、
「いかに臆病なヒナ高の教師といえど、破壊音を耳にしては駆けつけないわけにもいかないでしょうね。ですのでもう私は逃げます。この乱痴気騒ぎに関してはくれぐれもご内密に」
ちらりと桐渓を見て、悪戯っ子の微笑みに人差し指を立てた。勤勉な生徒にはあるまじき密約を、本気か冗談かもわからない口調で平然と持ちかけたのである。
しかし、そもそも忍術とはそういうものである。相手を煙に巻いてナンボの、虚実でもって人を騙くらかす行動力学なのである。欺瞞に満ちた手品であり、見分けのつかない詐欺であり、高水準の人心操舵術なのである。事実「忍者は年中無休で黒装束」という流言蜚語を巷間に流布して史実を捩じ曲げてみせたのは、他でもない当の忍者たちなのである──より隠密活動をしやすくするために。
その程度のことを知らぬ桐渓ではない。
「もしもあなたが本気でしたらば、手遊びに始終することもありませんでした」
しかしこの女忍者は、
「あたら最後の最後まで手を抜かれるとは、遺憾の極みです」
しみじみと、こればかりは本当に、残念そうに嘆いた。
武術屋が聞いて呆れる。戦場格闘技である巌桐流と鬼門陰陽流の開戦が、よもや画鋲の握手であるはずもなかろうに。
いったいどれが素顔だろうかと思う。
しかし、相変わらずの文学的な牙で、
「久久の大物だと喜んだのも束の間」
「よく言うわ。大怪我させといてさぁ」
「なにを仰有る。想定内でしょう?」
百目鬼は優しく微笑む。そして、躊躇なく広い背中を向けた。
まるで大樹のような背中。
やっぱり、恵まれた背中。
「あなたは、敗北の仕方を計っておられました。計ることで、私の質を測っておられました。確かに、勝った負けたの腕競べごときでは相手の本質を測ることなどできませんものね。まぁ、動機は知れず、手段も感心しませんが、ただ、私を高く買ってくださったことについては衷心から感謝しております」
羨ましい背中に猪口才な口上を並べ、しかし桐渓には1文の慰謝料を落とすこともなく、百目鬼はまさに道草の歩幅で帰路へと戻った。
鋼鉄をコルクでコーティングしたかのような体躯が校舎の角に消え、たちまち、蝉たちが子孫繁栄の活動要綱を思い出す。鳴かず飛ばずでいればもっと長生きできるだろうに、頭を使わずに命ばかりを削る。
夕闇もまた最後の灯を絞り出す。しかし風は怠業ったままでいる。夏という季節は、人の欲しがるものほど怠けて惜しみ、逆に、要らないものほど頑張って贈りたい性格のようである。
「余計なお世話だよ、夏」
嘆きを口に、左腕を水平にする。最後の灯を手立てに、突き刺さるガラス片の中に自分の姿を探す。
恵まれない小柄な身体だから簡単に見つかると思った。しかし、中立の夕闇が映りこんでいるばかりで、肝心の敗者の姿はどこにも見つからなかった。
「テスサビ」
そう、
「手遊びかぁ」
これは、遊びなのである。
「手抜きとあらば」
ただの試合なのである。
「巌桐流にもプロレスごっこかぁ」
ただの試し合いなのである。
「どうりで虹子が遊ばれるわけだ」
敗者なんて、いるわけがないのである。
「なるほどねぇ」
勝敗だけがいっさいの掟である親友は、だから負けていないのであり、だから、すっかり負けてしまったのである。
こうして、
「あー。痛いよぅ。スーパー痛い」
査定は終わりを迎えた。
しかして、桐渓は嗤う。
「痛い」
滴り落ちる深紅の血の中に、腕を燃やす炎の中に、荒れ狂う火の海に、
「痛い、けど、巌桐流だったら──」
まだ見ぬ、弟の姿を見ていた。
「──もっと痛くできるよ?」
彼女はもはや遺す立場にはないが、だからこそ、遺す動機を新たに見ていた。
歌帆さん 〜 Sick And Tired : 査定する女 ■