栞

まわるまわるよ
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Category : I Think
Update : 2020/01/19[Sun]14:00



『魔法のiらんど(以下、魔島まじま)』が大幅なリニューアルを敢行するのだそう。ブログ・掲示板・アルバム・私書箱などの諸々の機能を終了させることのみならず、ホームページの作成管理サービスそのものを終了させる──のだとか。ちなみに終了日時は今年の3月31日。

 魔島ね……なんだか郷愁さえおぼえます。私の場合、2010年の春、魔島にて創作小説の投稿をスタートさせ、しかし半年後に見切りをつけはじめ、なんぞかんぞとボヤボヤしたあげく、最終的には2014年5月23日にようやく見切りを完了した。あれから、はや5.5年が経つ。

 5年強も経てば、過渡期か、それとも変革期を迎えることがある。そうでなくとも、これはすべてにおいて言えること、物事は無限ではなく有限だ。なんでもそう、いずれ終わる時が来る。が、今回の魔島の件については、一気に終わらせに来たな──という感想を抱かなかったわけではない。なにしろ、ホームページがサービス終了となれば、これまで築きあげてきた他者との交流が難しくなる可能性もあるだろうから。

 まぁ、完全に交流断絶となることは、恐らくはないはず。それなりの、コメント形式的なコミュニケーション機能が新設されることは充分に考えられる。それとも、Twitter や Instagram への連絡口を強化することで、そちらのほうで交流を計ってください──みたいなスタンスへと移行スライドするのかも知れない。

 が、慣れ親しんできた交流手段がなくなるのは確か。きっと、戸惑いを隠せない人は多いだろう。実際、慣れって楽なものでもあるし。

 私は、早々に魔島を切り捨て、現在は『ナノ』という、創作活動のサポートサービス媒体へと完全移住しているため、彼らほどのダメージはない。魔島時代からの、幾人かの気になる作家さんの作品とどうリンクを持てばよいのか、若干の焦れったい気持ちでもって経過観察モニタリングしている現状だ。

 私のことはいいとして。

 戸惑っている人の大半は「このやり方での交流がよかったんだけどな……」という感覚だろうか。想像の域は出ないが、習慣的に心身に染みついている交流手段が断たれることに関して、違和感というか、残念な感覚を抱いているだろうか。延いては、理不尽な感覚とか。

 デジタルってそういうことが起きるんだよね。文通アナログであれば、時節に関係なく、郵便局さえ機能していればいつでもできる。郵便局が機能していなくても、なんなら二の足で歩いて届けに行くこともできる(この時点で文通の意味はなくなってあとはロマンの問題になるが)。でも、少なくとも、インターネットを介するものって、時の流れとともに流転していく。改善ならばまだしも、大胆な刷新だってあり得る。スマホのメールアプリだっていつサービス終了となるかわからない。仮にメールのやり取りが時代遅れと見做されれば、サービスどころかメールという概念そのものがなくなってしまうかも知れない。それは電話という概念にも同じことが言える。

 そうやって考えると、私の現住処である『ナノ』もわからない。いつサービスを終了するか知れたものではない。私は利用していないが、Twitter や Instagram、LINE や YouTube だってわからない。新たな、有益な、時の流れに沿ったツールが発表されれば、これらのツールだって呆気なく淘汰されていくだろう。

 我々ユーザは常にツール開発者の掌の上だが、ツールの時代的変遷を担っているのは常に我々なのであり、ということは、我々は常に我々の掌の上にいるということにもなる。延いてはこれを「自業自得」と言う……のかどうかはわからん。

 声をあげることも手段だろう。同胞なかまを結集させ、サービス終了反対!──と声をあげれば、民主主義が理想的に機能していれば上手くいくこともある。まだ遅くはない。なんでもかんでも「時代だから」と言って違和感や理不尽な思いを看過していくのであれば、それは単に時代の奴隷ということになり、奴隷ということは単一的な生き方を強要させられている者ということになり、多様性の求められるこれからの時代に背いていることにもつながり、要するに時代遅れである(余談だが、こういう、時代考証もろくにせず「時代だから」のひと言に魅入られてかえって時代遅れなことをしたがる人のことを、私は勝手にジダラーと呼んでいる)。未来を考えた上で、変えていったほうが良い部分は変えていくにせよ、例えば「変わりそうな物事」と「時代」の双方をリンクさせがたい件であれば、なによりも違和感や理不尽な思いを抱いているのであれば、同胞とともに声をあげることも立派な手段かと思う。あるいは、YesについてであれNoについてであれ、これからは声をあげていく時代──でもあるような気がする。少なくとも、看過スルーする時代はとうの昔に終わってる。

 武運を祈る(他人事のように見えるだろうが本当に祈っている)。



 それにしても。

 時代という概念は、薬であり、麻薬である。用法用量を守って正しく使えば理不尽に打ち勝つ特効薬となるが、耽溺すれば頭スッカラカンの中毒マウント野郎へとなりさがる。使い方が非常に難しく、テクニックも要る概念だ。いっそ使わないほうが利口かも知れない──とさえ思えてくる(特に最近)。

 だって、ニュースサイトを覗いていても、この概念、言葉として使われているのをあちこちで見かける。使われていない記事トピックなんて存在しないぐらいの勢いだし、使わないとお金にならない──まである。他に、Twitter でも散見されるし。最近はほとんどテレビを見ない私だが、ネットの、テレビ番組の後追い記事にしてもそうなのだから、たぶんテレビ番組もまた「時代」が主役なのだろう。こうして観察してみると、みんな時代という概念依存症になってるのかなぁ──と思えてくる。これを全体主義と呼ぶのかどうか無学な私にはわからないけれど、みんなで輪になってひとところへ向かおうとするこの感じは、たとえそこがノアの方舟であったとしても私はヤだ。嫌い嫌い。

 でも、変えていったほうが良い事例もあるからね、時代として、社会基盤を。だからつまり、用法用量を守って──ということだろうか。

 いや、というか……「時代」って概念、そもそも、使う必要、ある?

「そういう時代だったな」って、あとになって顧みるのが本来の姿だったような気もする。結果論みたいな。

 昔は、あとからついてくるものだった。けど、今は、先にあるもの、拾うもの。

 なんだろうね、この流れ。使えるものはなんでも使えの精神か。箸でも棒でも時代でも、使えるのであれば遠慮なく──って。

「時代」を武器にしないと闘えないのかしらん。

 この武器、攻撃力、ある?

 実際、Me Too 運動だって、もたらされた結果の道理はどうあれ、そこにあるツールを最大限に有効活用して同志を募り、理不尽をどうにかしたいという意志の剣で闘った──という印象だった。少なくとも「時代」を武器にして闘っているようには見えなかった。結局、武器になったのは文殊の意志であり、あとになって「時代」という概念がついてきたような印象。ただ、そこをマスメディアが変に切り取って発信したものだから、受信者である我々の頭に「時代の勝利」みたいなテイストとして刷りこまれてしまったような印象。でも、別に「時代」が勝ったわけじゃない、意志を固めて行動を起こした彼女たちが道を切り拓いたということ。ここのところだけは誤解してはならないと思う。

「時代」という武器の攻撃力を、私は大いに疑っている。実は、言うほど強くないのではないかと。いや、そもそも武器として扱うものではないのではないかと。壁紙みたいなものなのではないかと。

「時代」という概念の、言葉としての、武器としての氾濫を見るにつけ、いっそ使わないほうが利口かも知れない──とさえ思えてくる(特に最近はホントに)。


 話がまとまらなくなった。案の定。


 要するにアレですよ。

 明けましておめでとうございます

 いやぁ、明ける明けるとは聞いてたんですが本当に明けるとはねぇ。




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