栞

庶務と自由
Vignette


Category : Gratitude
Update : 2016/01/03[Sun]03:30



 某ラーメンチェーン店にて、背後の席に座っている若い女性×2が、人生について熱心に語っていた。語っていたのは一方であり、もう一方の女は、いちおう友達なのだろうか、明らかにテキトーな相槌を打つ役目を担っておられる。

 仮に前者をA子とするのならば、


A子「人生は1度っきりなんだからさぁ、やっぱ楽しまなきゃ」

B子「あー」

A子「わかる? 1回しかないんだよ?」

B子「うんー」

A子「陽はまたのぼるっていうけどさぁ、今のこの一瞬も、1回しかないんだよ?」

B子「まーねー」

A子「わかる? この瞬間は、もう戻ってこないんだよ?」

B子「そーねー」

A子「一瞬一瞬でできてるんだよ? 連続してるわけじゃないの」

B子「あー」

A子「今の、この、この一瞬もさ、2度と戻ってこない。すべてが、1回しかない」

B子「そーだねー」

A子「だからさぁ、やっぱり、一瞬一瞬を楽しまないとダメ!」

B子「うんうんー」

A子「ホント、人生は1度っきりだから、楽しむべきなんだよ!」

B子「あー」

七瀬「……」


 だけしかない人生ってのもどうかと思うぜA子。それとB子はテキトーがヘタすぎる。







 ラーメン屋を退いてすぐ、脇にある喫煙スペースで煙草を喫む(七瀬はチェーン・スモーカ)。そのさらに脇には飲料の自動販売機が置かれてあり、自販機の脇腹にはサントリーのボスのロゴデザインが大きく描かれてあった。


↑BOSS

 煙草を喫みつつ、ロゴを注視する。で、前々から疑問に思っていることを頭の中に蘇らせる。

(7:3って、ボスとして成立するの?)

 七瀬のこの目には、彼のヘアスタイルが7:3分けにしか見えない。抽象的なロゴデザインなので確信は持たれないが、ひとたび7:3分けと思うと、永遠の勢いで7:3分けにしか見えない。

 でも、

(7:3のボスってのもなぁ)

 国籍も知れない、どこかの企業の親方の横顔を眺めながら、徒然と偏見を思う。







 ラーメン屋の帰路、夜道を歩く。大きな交差点にさしかかる。すると、目の前を、キックボードを蹴る老年女性(60代ほど)が颯爽と横切っていった。

 テキ屋から仕入れたような、地味な服を召しておられる。だぼだぼの、スウェットタイプの紺のパーカにカーキ色のパンツという軽装で、恐ろしくうねりのあるパーマネントウェーブをセミロングヘアにあてておられる。そんな、いかにもオバサンが、キックボードに乗り、夜道をすーんと横切っていくのである。

 七瀬、思わず5度見。







 帰宅する。異様に寒い。こんなに寒がりだったかと首をひねる。しかたがないのでシャワーを浴びる。なかなかによい塩梅のお湯がスタンバってからすぐに出る。引越して数ケ月が経つが、この部屋の、1番の好ポイントが「よい塩梅のお湯がすぐ出てきてくれること」である。おかげで身体もすぐに温まった。

 で、シャワーから出、居間にしつらえてあるキャンプ用の折畳式の座椅子に座る。オリンピック新宿店に小型のハンモックが売られてあったのを思いだす。1万円強。七瀬は長年、寝袋で寝ている。布団で寝たこともベッドで寝たことも、この10数年、1度もない。寝袋はよい。気が楽だ。噂によると、タレントのベッキーも寝袋で寝ているという。あの子とはよい友達になれそうな気がしている。それはいいとして、寝袋もよいのだが、ハンモックにも魅力を感じている。あの、オリンピック新宿店で見たハンモック。あれはちょうどよい塩梅だと踏んでいる。欲しい。とても欲しい。

 などと思っていたら、風呂場の湯沸かし機が「ぼん」と鳴った。ペヤングのお湯を捨てた直後の、シンクが鳴らす音である。寒暖差が鳴らすのだろうか。ちと怖い。

 で、ふと七瀬が気づいたことは「冬場のハンモックはきっと寒い」。



 ……こんな感じの、スペシャル感のない正月をすごしている。

 もう10年以上も年賀状は書いてないし。とにかく「正月が近い⇒年賀状を書く」という制限・鉄板・お約束が窮屈だから辞めたわけだが、書かないことで不都合があったためしもないので御の字である。まぁ、年賀状という文化自体、いうほどの長い歴史があるわけでなく、バレンタインデーと似たような商業戦略のもとにつくりだされた昭和の流行文化(もちろん骨格としては昔からあったわけだが)だそうで、書くのを辞めたからといってマナー違反にあたるわけでもないらしい。だったら別にいいじゃん。

 というよりも「12月31日をもって1年が終わる」というシステム自体、私は猛烈な束縛をおぼえるタチで、1月26日を終了の日にしたっていいじゃん──と思ったりもしている(もちろん極論だが)。誕生日は私の身にまつわる事実なので否めないが、しかし12月31日に1年が終わる瞬間を私は今までに1度も見たことがなく、見たこともないのに「めでたい」と思うのも、なんだか奇妙な話だとも思っている。

 要するに自分がこの日だと思った日が元日でも特に問題はないような気がするわけである。自分の一生をもって1年でも問題ないような気がするわけである。いちおう西暦などの一定的・社会的な基準は遵守するにせよ、あくまでもそれは庶務として処理し、あとの時間は自分自身の定義の支配下に置いても問題はないような気がするわけである。自由にすればいいじゃん──と。

 というわけで、私は、昨今、大晦日とか正月に対しては、半分は社会的庶務として認識・処理するも、もう半分は私の意識的自由のキャパに迎え入れている。つまり、多くの私にとっては、1年という区切りなど存在しないことになっている。

 見たことがないんだもん、そんな衝立。

 だから、スペシャル感はない。騒ぎたい趣味もないし。でも、寝たい趣味はある。幸いにして会社は正月は休みだし、庶務として、この休日制度に甘えている。庶務のすべてが苦痛というわけでもない。自由に選択するつもりでいる。せめて精神の部分だけは底なしの自由でいたいものである。

 そんなこんなで、あけましておめでとうございます(←庶務)。

 今年は梟年ですね(←庶務と自由)。



 




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