栞

足し算の根性論
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Category : I Think
Update : 2019/01/07Mon12:00



 顧客の事務所を大掃除するという謎の仕事をあてがわれ、交換するからとカーペットを剥がすよう指示を受け、溜まりに溜まった十数年ぶんのハウスダストを浴び、これはマズいとマスクを装着するもすでに後の祭、まさに土石流のごとき涙とはなみずに苛まれ、まぁどのみち作業着にもハウスダストは付着しているのだし遅かれ早かれ吸引することになるのでマスクなんて意味はなく、あげく事務所周辺の落ち葉まで拾うこととなり、極寒に震え、頭痛に悶え、意識朦朧としながら帰宅──これが昨年12月25日のこと。

 某建築現場が年内最後の日ということで、溜まりに溜まった産廃ゴミをすべて捨てる段取りとなり、下請会社のウチに1人工にんくの発注が出され、やっぱりあてがわれ、膨大な量の産廃を掻き集め、産廃業者に手渡し、つまり予想どおりに粉塵を浴び、あと家具と建具たてぐも来るんだよね──1月中でも間にあうはずの資材の搬入まで押しつけられ、エレベータがないので階段で2階へと揚重ようじゅうし、こいつがまた微妙に重く、汗だくになり、いまだ洟は止まらず、頭痛も止まず、しかもヨユーの残業で、意識朦朧としながら帰宅──これが翌26日、仕事納めの日のこと。

 で、見事にハウスシック症候群。涙は止まらないわ洟は止まらないわ頭は痛いわ熱は出るわ意識は朦朧とするわで、5日連続で寝込む。本当は大晦日に岐阜の実家へと帰省するはずだったのだが、その予定もしっかりと狂い、1日遅れの元日までズレた。貧乏クジを引かされた。あんなのウチの仕事じゃないんだわ。もうたくさん。

 綺麗さっぱりと1年間の厄を落としてしまいましょう!──とかいう年末ならではの根性論を私は支持しない。要するに大掃除の習慣をだ。だって、アレって、実は落としているのではなく浴びているのだから。しかもその数量ときたら単なる掃除の比ではない。滅多に手をつけない箇所まで「綺麗さっぱり」と意気込むのだから当然のこと。

 私自身、はっきり言ってズボラ、とても綺麗好きとは言えない性格なのだが、ある程度のオフィシャルな施設ほど小まめに清掃しておいて然るべきことなのではないかと思っている。年末に持ち越さないよう、普段から小まめに清掃しておくべきではないかと。なぜならば、結果的に巻き添えを喰らう、いわば犠牲者の存在が必ずや出るから。

 犠牲者わたしがな。

 そもそも、なんで顧客の事務所を大掃除せにゃならんのだ。そっちの社員で賄えっちゅうの。しかも埃まるけやんけ。小まめに掃除しといたれや。落ち葉に至ってはほぼ無限やしな。あと翌日の建築現場もな。なんで溜めるだけ溜めよんね。小まめに捨てとけや。産廃業者の発注をケチんなや。で、ついでのように資材搬入すな。明日にでもできることを年末にすな。予算が関係するから年度末にバタバタするのはしゃあないけど、年末にバタバタしても大して変われへんわ。一極集中すな。まんべんなく段取らんけーい。

 ──などと怨み言を思っていた。寝込みながら。悪寒に震えながら。うんうんと魘されながら。

「年末だから」という特別感がもたらす根性論を私は支持しない。一気に終わらせてしまおう、済ませてしまおう、片づけてしまおう──そんな根性論をだ。だって、引き算を口にしながらも、その実、やっていることは完全に足し算なのだから。足すってことは、それだけ人員がかかるというわけで、つまりは犠牲者が出るのだから。

 犠牲者わたしがな。

「心」を「亡くす」と書いて「忙」と読む──という教訓には簡単に気づくクセに、なぜか「師走」という観念をなかなか恥ずかしがらない日本人が摩訶不思議。そろそろ恥ずかしがろう。それができないのならば諦めよう。年末に持ち越さないよう小まめにやっておこう。それができないのならば来年に持ち越そう。少なくとも、いちいち年末を特別視するのはやめよう。だいたいさぁ、意気込もうが意気込むまいが変わりゃしないんだから。来年を占う素材になんてなりゃしないんだから!

 で、岐阜でぬくぬくしてきた。そこそこ雪も降った。のに、大して寒くはなかった。

 5日ほど帰省し、今は東京。気温は岐阜よりも高い。のに、こっちデラ寒い。なんでやねん。



 

 シュウジ (12) よ、器用にノブを回して部屋へと押し入るのは構わないが開けたら閉めたまえ。




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Nanase Nio
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