栞

秤の話
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Category : I Think
Update : 2016/03/17[Thu]14:00



 書こうか書くまいか迷ったが、書く。



 先日は、あれから5年の日だった。

 5年を経ての感想を述べる気はないが、相も変わらず被災地を悲しい様子としてとらえるムキのあるマスコミに対し、偏るのは危険なのでは?──そんな思いが湧いている。

 確かに、いまだに悲しい思いをしている方はおられるのだろう。あるいは「5年ごときで傷は癒えない」とする心理見解もあると思う。思うからこそ、あくまでも一端の事実として放送、執筆することに対しては、私にクレームをいう筋合いはない。

 ここで私が危険視するのは、被災者ではない、視聴者や読者の束ねられた人心についてであり、つまりは世間について。

 ああも悲しみ寄りのニュースが並ぶと、世間の、被災地に対するモチベーションがいずれ劇化に向かってしまわないかと訝ってしまう。率直な悲しみではなく、ストレスを緩和させるための悲劇としてとらえてしまわないかと。

 被災者でなくとも、悲しい報道は見ている者の心をつらくする。しんどくする。そんな報道ばかりが重ねられると、やがて苦痛のストレスになる。

 視聴者だって、読者だって、人間だ。

 例えば、泣くことだって、あれは心的な苦痛を和らげるために脳が起こす防衛策。つまるところ、本能的な逃げだ。泣くことによって、人間は苦痛のストレスから逃げ、生き延びようと試みる。

 震災を悲劇ととらえ、苦痛からの脱却に勤しむ日が訪れはしまいかと思っている。それがツイートと化し、たちまちのうちに拡散、ついには世間の暗黙の定石となる日が訪れはしまいかと。

 でも、悲しみ悲劇は違う。

 前者はノンフィクションだけど、後者はフィクションだ。

 悲劇は、どこまで行っても

 そして、震災はではない。

 マスコミ各社の、度重なる悲しみ寄りの報道が、そのうち世間に苦痛のストレスをあたえ、逃げのスタンスを、泣きの演出を取らせてしまわないかと私は疑っている。

 ある人が曰く、

『人々は残酷だが、人は優しい』

 リアリティのある名言だとは思うが、私の実感としては前後を逆にしたほうが腑に落ちる。

『人は優しいが、人々は残酷だ』

 優良なコミュニケーションツールの乱立をもって他者との意思の共有が計られやすくなった昨今を顧みるほどに、如実にそう思う。

 みんなで口々に悲しみを表明しつつも、その実、心のスタンスにおいては、あの震災を悲劇ととらえ、精神的防衛策としての自己陶酔に浸る日が訪れるのではないか──震災そのものをみんなの感動作に置換する日が訪れるのではないか。

 世間は、いうほど立派じゃない。

 普段でさえ悲しみ寄りの報道になりがちなのだから、震災記念日ぐらい、被災者の笑顔を伝え、世間の天秤を中庸に戻してもいいような気がする。

 利用しろとはいわない。

 笑顔の被災者が1人でもいるのならば、その1人を率直に伝えるのも報道の役目だろうし、実際に1人はいるはずだし、これからさらに増えていくだろうし、だから、有り体に役目を果たしてほしい。



 ……あれから5年の日に、私はつらつらとそう思ってた。

 いや、マスコミのせいにするつもりなどないけれど……正直にいおう。最近の私は、TVや雑誌で被災地の今の様子をうかがうたびに「悲しいな」と思っている。もっといえば、目を細めて「悲しいな」と思っている自分に酔っている。酔っていて、慣れていて、麻痺している。

 実感する。だからそう思ったのかも。

「酔えるだけマシだ」と、そういわれるのかも知れないけれど。

 でもさ。

 じゃないんだよ。

 酔ってどうすんのさ。




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